第46景:『ただ、その柔らかさを』
「27…28…29…」
「……30秒……」
私は小声で数字を唱えてから、揺れの収まった瓦礫の中から身を起こした。災害発生時のガイドラインが、今この場でそのまま通用するとは思わない。だが、現状それ以外に行動指針はない。
折れた陸橋の下。崩れた鉄骨とコンクリ片の隙間を抜け、ようやく地表の光が差す空間へと這い出す。
「……次は、31から再開かな」
冗談めかして呟きながら、私は陸橋の陰で、少女を抱きかかえたまま座り込んでいるルースカの元へと歩み寄った。
「……ねぇ」
彼女はヘルメットを少し持ち上げて、ちらりとこちらを見た。
「……もう、大丈夫なの?」
「何をもって“もう大丈夫”とするかによるがね。“一旦崩落は止まっている”ならばYES。“万事解決”ならば、残念ながらNOだ」
私はそう答え、崩落の範囲を見渡す。灰がかった粉塵がまだ空気中に残っており、遠くは霞んで見える。
「……通常の災害時ならば、ヘタに動かず救助を待つのがセオリーだが、そもそもこの現象がどの程度の規模で起こったかすら分からん。従って、救助を期待するより自力救済と行こう」
少女が私の白衣の裾を、そっと摘んでいた。さっきまで震えていたその手が、今はただ、じっと静かに私の存在を確かめるように。
私はポータルを展開しながら、ゆっくり言う。
「では、私はポータルで、周囲の瓦礫から外に出られる隙間がないか探る。ルースカ女史、キミは脚を使いたまえ」
「え〜……って言っても仕方ないわよね」
ルースカが小さくため息を吐き、崩れた街路の先へと目をやる。
「足元には充分気をつけたまえ。舗装が無事でも、その下が陥没している可能性がある」
「了解、慎重にね」
彼女がゆっくりと立ち上がる。その背に、まだ不安の色が抜けていない少女の視線が向けられていた。
私はそれを一瞥し、そっと肩を撫でるように手を置いた。
そして――数分が経過した。
私はポータルの干渉波から空間の揺らぎを探り、ルースカは目視でのルート確保を進める。
「見える範囲には、外への道はなさそうね。もう少し向こう、行ってみる?」
「そうだな。ここで一夜を明かすというパターンは、絶対に避けたい。現状容態は安定しているが、我が娘の体には大きな負荷がかかっている」
「そうね……。いまは落ち着いてるけど、どこかで横になって、休ませてあげたい」
少女は、こちらの声に合わせるように、白衣の裾をきゅっと強く握った。私は小さく頷き、口元に指を当てて言う。
「それに、ルースカ女史との出会いからここまで、実に“王道テンプレ”でやってきた。となれば次に訪れるイベントは、『出会ったその夜に、焚火の火を見ながら目が合って、突然良い雰囲気になる』系のアレだ。我が貞操の危機である」
「……あら、ずいぶんと自信あるのね?」
ルースカの声は、あきれ混じりではあるが、わずかに笑っていた。
「当然だ。我々は二人で窮地を切り抜けた。情動の錯誤帰属の条件を満たしている。あらゆる創作物のご都合展開に用いられてきた現象だ」
「……さくご……なに?」
「錯誤帰属、いわゆる“吊り橋効果”だ。生命の危機に瀕した際に生じる過剰な興奮が、恋愛的感情と誤認される。よって現在の状況は、ロマンス展開への地盤がすでに整った状態と言える」
「……そんな、理屈で恋する人いる……?」
「いるとも。ハリウッドでは日常茶飯事だ。だが、私は“やれやれ系ラブコメ主人公”にされるのを断固拒否する。行動計画は、悪い想定に重きを置いて立てるのは基本中の基本だ」
「……アンタ、今朝からずっとその調子よね……」
ルースカは疲れた目を細めながら、口元を少しだけ吊り上げる。
「なんなの? 女性恐怖症? 女の子に、なんかトラウマ植え付けられたりとか……したの?」
「前者はNOだが、後者は全力でYESである」
「……なんか複雑そうね」
少女の手が、そっと私の袖から離れる。……代わりに、その視線が、静かに私を見上げていた。私はわずかに肩をすくめて言う。
「まあ、いずれ語るさ。“この白衣の起源”と“私のファースト修羅場”についてもね」
「いや別に、聞きたいわけじゃ……」
ルースカは顔を伏せ、少し考え込みながら小声で続けた。
「いや……やっぱちょっと気になるわ。アンタみたいな完璧変人がどうやって完成したのか」
ルースカが先頭を進み、私は少女を腕に抱いたまま、別の一画へと向かっていた。いくつかの建物が形を保っている。壁も、天井も、今のところは……。
足場を確認しながら進み、視界が開けた瞬間。
「……ここにしよう」
私は立ち止まり、抱えた少女の体温に一度だけ目を落とす。目を閉じている。だが、眠ってはいない。指先は、私の白衣をかすかに摘んだままだった。
「すぐ終わらせる。……ここで待っていてくれ」
私は片膝をついた姿勢のまま、ポータルの術式を起動した。
魔力の波動が空間をなぞる。波紋のように歪んでいく光景に、少女の髪がわずかに揺れた、その時だった。
――ビシィィィィィィッ!!
「っ――!!」
突然、硬質な音が周囲を裂いた。ルースカが、私の頭上を見上げて悲鳴を上げた。
「――ッ!!! 上ッッ!!!!」
私は即座に、首を反らして視線を上げた。
そこに――見えてしまった。
白い漆喰の壁。三階建の建物が、裂けるように崩れ落ちてくる。……いま、この頭上へ。
「っ……!」
――二次崩落。
もちろん想定には入れていた。だが、目の前の“無事”という静寂に、油断がなかったとは言わない。……私のミスだ。
迫る瓦礫。私は、反射的に少女を強く抱き締めた。
「……これは、間に合わんな」
妙に冷静な呟きが、勝手に口を突いて出た。
「ルースカ!!」
私は叫んだ。そして、同時に少女の身体を抱き直す。
全身の筋肉を動員する。出し惜しみなどしていられない。軸をぶらさず、瞬時に角度を決める。どこかの筋繊維が、骨の奥でブチブチと裂けた音が聞こえたが、気にするような事ではない。
私は、“押し出す”のではなく、“放つ”。力ではなく、流れに任せて。
遠心力に乗って、少女の身体が宙を舞った。――ルースカの方へ。
時間が、引き伸ばされたように感じた。腕の中から飛び出したあの子の身体が、空気の中を滑るように遠ざかっていく。
……その途中。
少女の手が、こちらに伸びた。まっすぐに。ためらいもなく。私の指先を――探るように。
そして、かすかに、ほんの一瞬だけ。指が、触れ合った。
あたたかく。
そして、やわらかな感触。
――それは少女の……あの“おてて”……。
……その手が、離れていく。重力が、彼女を奪うように引き寄せ、私の指から、やさしく、冷たく、引き剥がしていく。
私は、目を閉じた。彼女が、ルースカの元へ届いたかどうか。確認するまでもない。
この世界には、あらゆる理不尽が満ちている。
貧富、権力、平穏、暴力。だが――それでもただひとつ、確かに言えることがある。物理法則だけは唯一、誰にでも平等だ。
だから大丈夫だ。それだけで、充分だった。
――どうやら、私の物語は、ここで幕らしい。だが、不思議と恐怖はなかった。あまりにも、静かで。あまりにも、やさしくて。
ただその手の感触が、すべてを赦すように、胸に灯っていた。
……思えば、私はずっと、血と、骨と、汚泥を踏み抜いて生きてきた。愛という名の傲慢。救済という名の欺瞞。私の人生は、まあ最悪の部類と言っていいだろう。
――その果てに、手に入れたものが、こんなにも、美しい結末ならば、……上出来だ。
いや、むしろ、文句の付けようもないくらいだ。
私は神など信じてはいない。けれど、もし、私の運命をどこかで決めた“誰か”がいたとして。ソイツには恨み言しかない。
だが、この瞬間だけは、少しだけ、感謝してやってもいい。
――そんな気分だ。
瓦礫の影が迫る。視界が、白く染まる。光と、音と、熱が、世界の輪郭を塗り潰していく。どこか遠くで、ルースカの叫び声が響いた。
そして私は、最後に噛み締めていた。
少女の――あの手のひらの。その、やわらかさを。
――ズガガァァァァァアン!!!!
――第47景へ……




