第45景:『その手が、届く距離で』
崩落の空白地帯――瓦礫の三角に押し込められた我々の頭上で、まだ風が唸っていた。
「ルースカ、この子を膝に乗せろ。そして、なるべく小さく、頭を低く」
私は背中のリュックを降ろし、中から毛布を引き出す。折り畳んだそれを、そっと少女の頭から被せる。破片から身を守る、最低限の処置だ。
ルースカから借りたヘルメットを被ってはいるが、身体を守る保護具としては必要だ。
「これは貴様が使え。警戒すべきは、この陸橋から剥がれ落ちる瓦礫だ。ヘルメットのさらに上に載せろ」
まだ揺れる地面の上で、ルースカに手渡したのは、今まで私が背負っていたリュックだ。
「え……アタシに? 意外と紳士じゃない」
「貴様の頭部に拳大のコンクリ塊が直撃した場合、気絶→白目→自立歩行不能→即ち、私の負担が増す。それを防ぐための処置だ。慈善ではない」
私は淡々と告げながら、白衣を脱ぎ、自らの頭に被せた。
「そして正直なところ、私の体力は限界に近い。そうなれば、まだ体力に余裕のある貴様がこの子を抱えて走るのだ。戦場においては、“残り寿命の長そうな装備”が優先される。合理的だろう?」
「いやここ戦場じゃないし! あと人の心ッ!!」
「ふふ、ジュネーヴ条約が適用される場面でもないのでね。人道と合理の折衷案として、昏倒したら比較的安全そうな場所までは運んでやる」
「言い方ァ!!」
私は背を壁に寄せ、足を引きつける。
「首をすくめ、顎を胸に。膝に額を寄せる姿勢が理想だ。……俗に言う“カメさんの姿勢”というやつだな」
「……甲羅干しで終わりませんように……」
少女は、ルースカの膝の上で、言われた通りの姿勢をとる。毛布の下、小さな指がぎゅっと布を握っていた。
「……せんせい、あたし、こわい」
その声に、私は一拍だけ間を置いてから、頷く。
「大丈夫だ。大きめの崩落があっても、この配置ならルースカがクッションになる。そのためのポジショニングだ」
「はぁ!? ……いや、まあ、この子のためなら別にいいけど!!」
「ふふ、自己犠牲精神。立派だな。後で“人道的衝撃吸収材”として論文を執筆しよう」
「書くな!!」
そして、私は妙に落ち着いた調子で語り出した。
「……ふふふ、こうして窮屈な場所でじっとしていると、思い出すな。錬金実験室の給気管に背中から詰まり、夜明けまで逆さ吊りになっていたときのことを」
「いや、なんで詰まるような構造に入ろうとしたのよ!? あとその笑い方やめなさい!なんか嫌だわ!」
「当時の私はまだ若く、錬金管路に友情を感じていたのだ。だが奴は私を裏切った。結局、アジュール……同じラボの同僚に救出されるまでの八時間、ずっと逆さのまま沈思黙考に耽っていたよ」
「友情の段階で違和感持てや!! てか、その状態でよく考え事できてたね!」
「私はそのとき、有意義な教訓を得た。人は不自由な環境でこそ、思索が進む。つまり、この環境こそが機知に富んだ論議を生み出すのだよ。
当然、私がボケで、キミがツッコミだ」
「勝手に肩書き決めないでくれる!? アタシ、好きでそのポジションやってるわけじゃないんだけど!!」
「ふふふ、そう言うと思っていた。しかし、ボケとツッコミこそが世界の均衡だ。街の崩壊さえも、ボケツッコミで防ぐ所存である」
「え、なにその全幅の信頼。なんで、ボケとツッコミで世界救う気まんまんなの? その思想が普通に怖いんだけど」
「当然だ。すべての社会的秩序は“言葉”で保たれている。街を壊すのは戦争ではなく、沈黙だ」
「……なんか、いかにも名言っぽいこと言わないで。一瞬だけ納得しかけたじゃない……」
少女が毛布の中で、ふふっと小さく笑った。その笑い声に、ルースカがほんの少しだけ息を緩めたのが、声ではなく気配で伝わってくる。
それでも、会話は呼吸を繋ぐ。
しばし、静寂。石の音も、軋みも止み、耳の奥に鼓膜の音だけが残る。
――その隙間で。ルースカが、リュックの下でぼそりと呟いた。
「……うん。わかってるよ」
私は、返事をせずに待つ。
「アンタがさ、アタシらが不安にならないように……わざとバカなこと喋ってるの、わかるから」
彼女は、リュックを頭の上に抱えたまま、ぽつりとそう言った。
「ありがと。……そういうの、やっぱ助かる」
私は少しだけ白衣をずらし、視線だけをそちらに向けた。そして、あくまで軽く返す。
「誤解だよ。私は沈黙が苦手なだけだ。静寂が続くと、肺がどこかへ出て行く気がしてな」
「……ふふっ、アンタの臓器は自由意志があんのね?……」
「レポート地獄に追われていた深夜、ひたすらペンを走らせていたら、肺が『ボク、自分探しの旅に』と言って、ね……」
「うそだぁ……」
「最後、玄関に“行ってきます”と書き置きが残っていたよ。“牛乳と新聞は止めておいて”と、長旅前提だ。私の肺の本体は、今頃どこを旅しているのだろうか……」
「ふふっ……。……今すぐ帰ってきて……本体……」
そんな会話を重ねながら、我々は揺れが収まるのを待っていた。
――第46景へ……




