第44景:『三角の檻に、呼吸を逃がして』
私は、走っていた。
少女を左腕に抱え、ルースカの足音が、やや遅れて続く気配を確認しながら、ひたすら脚を動かす。
脚は動く。息も切れない。胸は騒がず、思考もはっきりしている。だがそれは、単にアドレナリンのせいだ。
苦痛がないのと、損耗していないのとは別の話。体力の限界というのは、苦しさではなく“回復のタイミングが消えること”で判断すべきだ。脳が緊急時対応モードに入っている今、身体感覚は大幅にバイパスされている。
だが、脚部の反応速度の遅れや、握力の低下を見れば明白だ。
――もうすぐ限界がくる。
握力が抜けかけているのを感じながらも、私はしっかりと少女を抱え直した。
「ここを真っ直ぐ行くと、崩落に巻き込まれる! 左に迂回だ!」
「わかった!!」
ルースカの声が返る。その応答の速さで、彼女の体力的余裕を推し量る。
――我々の世界では、魔力による身体強化は珍しくない。
無意識にそれを行う者も多く、肉体が自然とそれに順応していることすらある。周囲に魔力さえあれば、それは可能だ。
私も、本来ならこの程度で息が上がるはずがない。
そう、あちらの世界における私の身体スペックは、全盛期の吉田沙保里にすら匹敵していた。
軽トラぐらいなら余裕でひっくり返し、平屋の屋根にも跳び乗れ、ハンドガンの弾程度であれば反射で避けることができた。
――いや、流石にそこまではできない。やはり、彼女には遠く及ばない。
しかし、肉体強化が常時発動し、筋力や代謝、反射神経を大幅に底上げしていたのだだが、今は違う。周囲に魔力こそあるが、私の場合は特殊なのだ。――この街では、“条件が整わない"。
結果として、私の身体能力は"Zeebraよりは少し上"程度に留まっている。
「ルースカ! もうすぐ頭上が崩れる! 急げッ!」
「っ、わかってるってば!」
私は頭上の構造を一瞥し、身を低くしながら角を曲がる。それでも、少女を腕に抱え、私は走る。なぜなら……緊急事態において、親が優先すべきは子の命だからだ。
――それは、別に美談というわけではない。生存戦略であり、本能だ。親子愛の名を借りた遺伝子の利己性にすぎない。
ライオンは、群れの子を守って命をかける。ペンギンは、氷上で自ら凍えながら雛を抱く。すべては、自分という個体の存続ではなく、“継続性”という概念の保全のための"習性"だ。
腹が減れば食べる。眠ければ眠る。子に命の危険が迫れば、親は命を賭ける。そんな程度のものだ。
だから私は走る。この腕の中の“未来”だけは……本能が損失を許さない。
「……あんた、さっきは“アタシのことは気遣わない”みたいなこと言ってたくせに。けっこうちゃんとフォローくれるのね」
「余裕があるうちはな。優先順位は、我が娘、ダブル大なり私。そして、超えられない壁を挟んで貴様だ」
「そういうの、わざわざ言わなくていい!!」
「ふっ。事実は伝えるべきだろう?」
ルースカが舌打ちしながらも、速度を落とさずついてくる。そして――
「あれだっ!」
少女の体温を胸に感じたまま、私は視線の先を捉えた。
瓦礫の向こう、曲がり角の先に現れたのは、無残に折れ、崩れ落ちた“途中までの陸橋”。
塔の上から見下ろしたあの構造。中程まで作られていながら、繋がるべき場所がどこにもなかった、あの未完の橋。
そして今、目の前でそれは“完成せずに崩れていた”。
"繋がるべき空間"すら現れないまま途切れた形状。その形のまま、根本から倒れている。
当たり前だ。あれほど不安定な空中構造。たとえ頑丈な鉄骨であっても、このような大規模な地面の変形。真っ先に崩れる。
そして当然ながら、その崩壊は別の“秩序”を生む。
――三角ゾーン。
瓦礫と基礎梁の間、支点の残る部分が天井を支える形で空間を作り出している。
私は少女を腕に抱いたまま、そこへ向かって身を沈めた。安全とは言わない。だが、相対的には“崩壊が済んだ場所”だ。
一度崩れた積み木は、二度は崩れない。
「ルースカ! こっちへ!!」
私は叫んだ。ルースカも、視線を追って即座に状況を理解する。
「……っ、セーフ……!」
直後、続いて隙間へと入り込む。
そして、その瞬間――ゴォ……ッという風圧とともに、すぐ背後で別の構造物が崩れ落ちた……。
ルースカが腰を落とし、肩で息をする。少女は私の腕の中で静かに目を閉じていた。その小さな胸が、規則正しい呼吸を刻んでいることに、私は安堵する。
外では、街がまだ大地を震わせてる。この場所も、いつまで安定しているかはわからない。だが――
「……一旦は、しのいだな」
私は、今なお揺れ続けている三角の天井の奥を見上げながら、静かにそう呟いた。
崩壊は、収まっていない。街は、まだ完成を拒み続けている。だが、私たちはその隙間に入り込んだ。
未完成の街の歪みが作り出した、わずかな余白――そこに、“生き残る可能性”を滑り込ませたのだ。
風は、まだ止んではいなかった。だが、その風はもう、“逃げ場”ではなかった。
私は静かに少女を膝に座らせ、白衣の裾で彼女の額の汗をぬぐった。
「……よく、耐えたな」
まだ揺れる地面の上で、少女は目を細めて小さく、頷いた。その震えが、ほんの少しだけ……収まったように思えた。
――第45景……




