第43景:『その手を放さないために』
――狭い通路が、歪んでいく。
風が巻き、音が反響し、鋼材が軋む。周囲のビルの“骨”そのものが、呻きながら形を変えていた。
「……ッ、こっちはダメ!」
ルースカが叫ぶ。
我々が辿り着いた“広い通り”は、ほんの数秒前まで確かに開かれていた。だが今は、崩れ落ちた三階建ての建物が道を塞ぎ、前方への脱出経路を完全に閉じていた。
「ッ、回り込めるか!? 裏手は!?」
ルースカが周囲を見渡しながら叫ぶ。
「ない! 地面がもう……っ!」
振り返ると、背後もすでに閉じつつあった。都市の皮膚がよじれ、沈むようにして狭まっていく。建物ではなく、地面そのものが、我々に向かって“飲み込もう”としていた。
「――囲まれたな」
私は即座に状況を判断し、少女を左腕へと抱え直す。
もう後がない。この場に留まり、地割れの進行を待てば、次は我々が崩れに巻き込まれる。
「二人とも、壁際に寄れ!! 中央は最も危険だ!!」
私は叫びながら、近くの煉瓦壁へと駆け寄った。ルースカが素早く反応し、少女の背を庇うように駆け込んでくる。
「耳を塞げ、口もだ。鼻呼吸は浅く、目は閉じておけ!」
次の瞬間――ゴゥッ、と空気を裂く轟音。後方、先ほどまで我々がいた狭い路地が、“折れるように”沈んだ。
地鳴りと共に粉塵が舞い、あたりは一瞬で視界を失った。
「――ぅぐっ……!」
口の中に鉄の味。鼻腔を突く石灰の匂い。
私は白衣の裾を引き出し、少女の口元を覆った。
「これを……口に……! 息をゆっくり、浅く……そうだ……!」
砂塵に囲まれ、視界ゼロ。音の方向もわからない。完全に“閉じた空間”になってしまった。
私は、先程登った塔の上で見渡した景色をリプレイし、脳内でマップを構成する。
――ビジネス街、段差水路、壁から生えた階段、中程で途切れた陸橋。
全てを繋げば、この位置は“沈降の縁”に近いはずだ。ならば、周辺構造の下部が抜けただけで、ここがまるごと崩れる可能性は低い。
「ルースカっ!生きてるか!」
「っげほ……っ、いるわよ! なにこれ……!」
「“地震による倒壊”というより、むしろ“地盤沈下に伴う建築物の巻き込み”に近い状況だな。粉塵が止まるまで動くな。崩落物は、空気の流れを読めば避けられる」
「……そんな冷静に言われても……! っていうか、目開けらんないし! どっちがどっちかも……!」
「そのために私がいる。貴様はただ、指示に従え」
「なんかムカつくわね、その言い方……!」
少しして、粉塵がわずかに薄くなる。ぼんやりとではあるが、景色がひらけてきた。
――しかし依然、地面の揺れ……いや、収縮は止まらない。
「いまのうちに場所を変えよう。ここは、まだ崩落"できる"構造物が多い」
私は少女の身体を抱き上げ、ルースカの腕を引く。
「近くに、構造が強い場所は?」
「この先のアーチ通路!! トラム線路の下!」
「よし、妥当な判断だ。そこへ向かおう」
「わかった! 付いてきて!」
ルースカが先行して駆け出す。私は少女を抱え直し、その背中を追った。風の逆流はさらに強まっていた。街路の端に積もっていた紙屑や砂が、風に巻き上げられて舞い上がる。
少女は、声を上げなかった。ただ、私の胸元に身を預け、じっとしがみついていた。
「……あっ…ダメっ!!」
角を曲がった先で、ルースカが絶望に顔を歪めた。その場で足を止め、両手を広げるようにしてこちらを振り返る。
私も、角を回る。その先にあった光景が……眼前で崩れていく。支柱が、内側へとたわみ始めていた。連なる石組みのアーチが、まるで乾燥パスタのように、メキメキと音を立てて折れていく。崩れ始めたヴォールト天井が、弾かれたように宙へ舞い、粉塵の塊と化して落下する。
――強固なアーチ構造。本来なら、建築物倒壊時の退避先における“セオリー”のひとつだ。
だが、今は違う。支えている“地面そのもの”が、収縮しているのだ。基礎ごと引き寄せられれば、いかに優れた構造も意味を成さない。――ここは、もはや使えない。
私は即座に、頭の中で他の"セオリー"を巡らせる。
――“三角ゾーン”。崩れた梁や倒れた家具、そこに偶然できるL字型の空洞……。
構造上、地面に固定されていないそれらなら、収縮する地面の上であってもシェルターたり得る。だがダメだ……この砂塵の中、偶発的な空間を頼りに、目標なく走り回る余裕はない。
――では、水路の底部。上からの落下物を避けるには理想的。
いや、そこにいる状態で収縮が波及すれば……ペシャンコだ。
――地下構造……論外だ。
ならば――
「あそこなら……!」
私は迷いなく、ルースカの肩を叩いた。
「ルースカ、付いてこい!」
「え……!?」
「後ろを気にかける余裕はない! しっかり走れ!」
私の声に、ルースカの目が一瞬見開かれたが、すぐに頷く。咄嗟に踵を返し、我々は別の道へと走り出す。
空間が潰れていく。まるで、街そのものが呼吸を止めようとしているかのように。
――だが、まだ終わりではない。この街には、私たちの“入れる余白”が、残っているはずだ。
少女の手が、白衣の胸元をぎゅっと掴んだ。この震えを、私は必ず守らねばならない。
――第44景へ……




