第42景:『空間の呼吸が乱れるとき』
空気は静かで澄んでいる。ここが建設中であることを示す匂いもない。耳に届くのは、潮騒の音だけ。
さっきまで高所で感じていた風の流れが、ここ地上ではまるで途絶えている。
私は少しだけ心を鎮め、改めて思考を調査へと向ける。ポータルを展開し、魔術的スキャンの構成を組み始めた。
「……なにやってんの?」
ルースカが呆れたように声をかけてくる。
「魔術的な調査だよ。外観でわからなくても、“内側”を見ればわかることもある。家電のマニュアルを読まなければ、冷蔵庫がWi‑Fiを拾うことも知らず、『そういえばこの黒いパネル、なんだろう?』で終わるのだよ」
私は手のひらをかざし、詠唱を起点に術式を展開する。ポータルが空間の位相をなぞっていく。
「いや、その例えは意味わかんないけど……。マジュツ……って?」
「我々の世界の技術体系における、根幹の八割程度を占める技術だ。……原理的には、術式や思考を起点に、我々が魔力場と呼ぶ量子場のひとつを介して、他の量子的な場を任意に励起する」
私は、ポータルの表面を指でなぞりながら続ける。
「……まあ、“痛いの痛いの飛んでいけ”の延長だと思ってくれたまえ。飛ばす対象が“痛いの”から“物理法則”に変わっただけだ」
「なにそれ、"ボルト締め"と、"ゼロからのトラム敷設"よりもスケール違うじゃない」
「今やっているのは、空間位相の断絶やスパイクの計測だ。あえて例えるならば、“スケスケ透視メガネ”。『なんと!服の下が透けて見える!?』のコピーで昭和の少年誌を席巻したあれだよ」
「それ、アタシに向けて使ったらぶっ飛ばすわよ?」
「ふふふ。そう邪険にするな。まさに“昭和の夢と性癖と詐欺の混合遺産”。一部のコレクターには今でも人気があり、オークションやフリマサイトでは高値で取引されている」
私は淡々と反応を確認する。――しかし。
ポータルは、先ほど私の手が“止まった”場所の先にも、"空間が存在する"と応えた。そして、相変わらず"我々の世界の座標は存在しない"……とも。
私は、これ以上の調査を諦め。視線を少女へと戻した。少女は、路地の端に立ったまま、足元を見つめていた。両手は服の裾を握り、肩がわずかに揺れている。まだ、先ほどの言葉の余韻が残っているのだろう……。
――所詮、私は異邦人だ。『キミを私の世界に連れ去る』などと軽々しく言うべきではない。まして、彼女はこの街の"中心"だ。
――いや、“連れ去る”では表現が悪いな。
"放課後のお迎え”ならば、むしろ優しさではないか。娘を大切に想う父の、当然の行動である。……たとえその“お迎え”が、異世界横断型・強制帰還便の片道切符だったとしても、である。
――なら、アリか?
いや、やはり駄目だな。そもそも、“異世界の中心人物”を連れ帰るなど、宇宙規模の未申請輸出である。出入国検査で止められるのは確実だ。
『この子、どちらのご出身ですか?』
『あ、えーと…… 異世界で病に伏せっていた不遇の少女です』
――即逮捕である。
まあ、その程度いくらでも抜け道はある。だが、”パパのお迎えが”原因で、この世界の法則を崩壊させれば、ラスカヴァやオルローグたちはどうなるのだ。
……スヴェルカは別にいいか。ルースカが中々のツッコミ性能を発揮している今となっては、彼の存在意義はもはやポケットWi-Fiと同程度だ。
いや、待て。それはさすがに言い過ぎた。
ポケットWi-Fiは災害時においては“命綱”たりうる。文明から途絶された環境でも、ツッコミという名の電波で、我が電波発言を社会という回線に繋ぎ止めてくれるのだ。ボケ乱流のジャングルにおける、最後のパケット通信。居ないと、いざという時に死ぬ。
――そして何より、少女の意思。たとえ、私に懐いてくれていたとしても、家族同然であるこの街の住人から、引き離すことなどできない。
何一つかける言葉の定まらぬまま、呼びかけようとした瞬間。――フッ、と気配が消えた。
元々うつろだった街の気配が、完全に遮断されたような、異質な感触。
即座に思考を警戒へとシフトする。――次の瞬間。
ミシ……ミシ……ミシッ――
建物が、きしむような音を立て始めた。
「……!? 崩れてる……!」
ルースカが、振り返って叫んだ。
私は咄嗟に背後を見る。その地面、通路の端が“引き攣れるように”内側へねじれていた。まるで、街そのものの皮膚が、裏返るように。
「な、なにこれ!?……建物が、迫ってくる!?」
「空間の圧縮……いや、これは……“街が縮んでいる”……?」
私は考えるより早く、少女を抱き上げていた。
彼女の体は震えてはいない。だが、何かを閉じ込めるように、小さく、小さく、自分を畳むようにしていた。
「ルースカ女史。このような現象は、よくあるのかね?」
「ないよ! 初めて! 早くここから離れよう!!」
風が逆流する。街路が、建物が、我々に向かって“吸い寄せられて”くる。
「ルースカ! 逃走経路は!?」
「こっち!! この先に広い通りがある!」
彼女が手を伸ばし、私たちは走り出した。狭い通路の中、音もなく都市の皮膚が剥がれていく。
ただ単に、建造物が倒壊しているだけではない。まるで折りたたまれるように、周囲の土地そのものが縮んでいく。
私は白衣を翻しながら、必死にルースカの背を追う。少女の体温が、腕の中で震えている。でも、泣いてはいなかった。目を閉じ、ただ必死に、私の胸元にしがみついていた。
「しっかり掴まってろよ……!」
彼女は、小さく、でもはっきりと頷いた。都市の空間が、拒んでいる。誰かを。何かを。それとも、完成を。
空間そのものが、叫んでいた。音のない悲鳴として。
――そして我々は、その悲鳴を背に、ただ走り続けた。
――第43景へ……




