第40景:『都市の呼吸が止まるとき』
風車塔を降り、再び地上へと足を踏み出す。
「こっちだよ。一番近くにあるやつ」
ルースカが無言で顎をしゃくる。少女は私の横で、小さな歩幅でついてくる。
建物の隙間を縫うように進み、やがて道が開けた辺りで、私はようやく違和感に気づいた。
――匂いが、ない。セメントも塗料も、砂塵の匂いもない。
ここは、建設中の区画のはずだ。何かを“作っている”場にあって、こんなにも空気が澄んでいるのは不自然だ。
そして、やがてたどり着いたのは、広場とも通路ともつかぬ“空間”。そこには、まるで壁に"突き刺ろうとしてる"かのように階段が築かれている。
煉瓦造りの擁壁の下、明らかに勾配の足りない階段が、壁の中程に向かって建築が進んでいる。
構造は、まさに"トマソン"。だが、擁壁も階段も真新しい。まるで、つい先日作ったようだ。
「……これが」
「うん。見ての通り。これ以上進めない」
私は一歩、足を踏み入れる。
段差の敷石は整っている。周囲の装飾も仕上がっている。だが、その“先”がない。
壊れてもいない。崩れてもいない。ただ、“ない”のだ。まるで最初から「ここで終わり」と決められていたかのように。
「……単純な設計ミスというわけではなかろう。自然な行き止まり……いや、ここで“終点”という感じだ」
「見ての通り、ここから先は作れない。この先になにを作れば良いかは、みんな本能ではわかってる。素材もあるし、人手もある。でも、“ここから先”に踏み込む手段が、なにもない」
私はしゃがみ込み、階段の終端に指を当てる。
「施工は途中で止まっているな。だが、足場も資材も置かれていない。現状、これ以上作業する意味はない、ということか。施工意欲の消失か、それとも心理的スランプ……」
「せんせい、つまり“やる気が出ない”ってこと?」
「その通りだ」
「“だりぃ”の3文字を、そんなふうにややこしく言えるなんて……。“オマエには伝える気がない”を優しく包むプレゼント包装ね!」
「うむ。私は全方向において天才だからな。特に、ExcelをVBAで自動化したうえで、裏で牧場ゲームを回しつつ、手動作業してるフリをする技に関しては、もはや超越の域にある」
「わぁ!自動化するの、牧場のほうじゃないんだ。効率化の真髄ね!」
私は深く、頷いた。
「……やっぱこの子、ただもんじゃないわ」
ルースカが肩をすくめる。呆れと感心と、少しの照れが混じった目線が、少女へと向けられていた。
「でもね、アタシ……ここに来ると、なんか胸がザワザワするのよ。いや……ザワザワっていうのはちょっと違うかも。……なんか、哀しい気持ちっていうか」
私は立ち上がり、周囲をぐるりと見渡す。
少女はそっと、構造物の一部に触れた。柔らかな色の煉瓦でできた擁壁。だが、感じるのはもっと……感情のない“素材”。
「……せんせい。これ、なんだか寂しい気持ちがする」
少女がぽつりと呟いた。ルースカが、それに応える。
「……確かにね。アタシが感じてるのも、“哀しい”って言うより、“寂しい”の方がしっくりくるな」
――街が、さびしがる。
その発想は、明らかに非科学的で、非論理的だ。だが、この街では、むしろ真理に近いのかもしれない。
「ここから先に進むべきなのに、進めない。その理由は、“寂しいから”……か」
「そうね。だから、街が自分で止まったのかもね」
ルースカが呟くように言った。私はその言葉に、目を細めて彼女を見つめた。
「寂しくて止まる……まるで、初ポストのインプレが一桁だった私のアカウントのようだ。あれから、一切ログインすらしていない。友達もおらず初動フォロワー0なのに、なぜXを始めたのかと後悔している」
「……きっとそのアカウント、自分が生まれた意味をずっと考えてるんだね……」
「なるほど、私は電子の海に、一人の哲学者を生み出してしまったのだな」
いったん挟んだ小ボケが、ちゃんと拾われたことに満足感を覚えつつ、私は続ける。
「……では、別の場所も見に行こう」
私は白衣の裾を払って立ち上がり、周囲を一瞥する。
「どこ見たって、たぶん一緒だよ?」
ルースカが肩をすくめ、少女の横に並ぶ。
「それでいいのだ。“共通項”があるなら、それは再現性を持つということ。傍証として充分な意味を持つ」
「……なにそれ……すっごい屁理屈感……」
「だが、全く同じでは芸がないな」
私は首を軽く回し、空を仰いだ。
「再現性の確認にも意義はあるが……新しい知見が得られるに越したことはない。先ほどの“途切れた階段”とは、趣を異にする構造が望ましい」
そして、思考に合わせて視線を流す。
「外見も条件も異なる場所であれば、共通点を重ねることで“本質”を炙り出せる。そして、相違点を拾えば構造の限界や歪みも見えてくる」
「なるほど……。じゃあ、ちょうど良い場所がある」
ルースカが、指先で北を示した。軽くあごを上げ、少女の顔をちらりと見やる。
「……ちょっと遠いんだけど……歩ける?」
「だいじょうぶ」
そう答えた少女は、スクっと立ち上がったのち、しかしほんの一瞬だけ上半身を揺らす。その仕草に、私はすぐさま"抱っこ判断"を下す。
「……無理はよくない。体力温存のため、ここは私が担ごう」
「うん」
少女は、何の抵抗もなく身を預けてくる。
ふわり、と。彼女の髪が、頬に触れる。微かに香るその匂いが、神経伝達をショートさせる。――これはもう、嗅覚型の思考破壊兵器だ。
私は抱えたままの少女の体温に溺れぬよう、わずかに残った1%の理性に頼って、歩き出した。
――そして、40分ほど歩いた。
だが、少女は一度も弱音を吐かなかった。いや、正確には。私は少女をずっと抱えて歩いていた。体力の温存が目的であり、彼女が歩けないわけではない。
だが、腕に預けられたその体は、実に軽く、やわらかく……。そして、たまに髪から昇る香りが、思考と判断力を大幅に阻害していた。
――嗅覚破壊兵器としてのスペックにおいて、この娘は規格外である。
おそらく手足には相応の疲労が蓄積している。だが、私自身は一切、それを感じない。もはや、自らの身体をモニタリングする知覚的余裕など皆無だ。
――そして。
案内されたのは、やや北寄りの区画。ここは、今まで歩いてきた旧市街風の街並みとは、どこか様子が違っていた。
「……これは……」
私は、自然と首を傾げる。
広場に出ると、周囲を囲むのは三階建て、あるいはそれ以上の中高層建築。アール・ヌーヴォーの装飾が残る建物もあれば、やや簡素な煉瓦造りもある。曲がった道が交差し、奥行きの異なる建物が複雑に入り組んでいた。
バルコニー、屋上階段、鉄柵、アーチ窓。装飾性と実用性がせめぎ合い、空間に立体感と層を刻んでいる。
まるで、都市の“密度”そのものが固まっているようだ。
「ここ、ちょっと雰囲気違うでしょ。高い建物が多くて、空が狭いの。この辺は、官庁やギルドの支部とか、企業の本社とかが集まるビジネス街……になるはずの場所。
で、あれが見せたいモノ」
ルースカがそう言って顎で示したのは、広場の奥にある未完成の建築骨組みだった。
鉄骨が風を切っていた。柱と梁だけで構成された、塔のような構造物。それが、段差のある水路に被さるように建てられている。
先程登った風車塔よりは、かなり小さいが、おそらく風力ポンプの基礎。だが、上部には何もない。――羽根のない風車。回るべきものが、どこにもない。
「ここも、作りかけ……か」
私は、少女を抱いたまま立ち止まり、静かに息をついた。
風は吹いている。鉄骨の隙間を通り抜けて、顔をなでていく。なのに、この塔は回らない。始まりすらしていない。
都市の血流は、どこかで止まっている。空気は静かで、澄んでいて、どこまでも遠い……。
――第41景へ…….




