第39景:『街は、伸びることをやめた』
塔は、思っていたよりも高かった。
白煉瓦で組まれた細身のシルエット。表面には、職人の手が彫り込んだ意匠と、風向計を模した鍛鉄装飾。単なるポンプ塔ではなく、誰かに見上げられるものとして作った建築物だ。
「……幼子に登らせるには、かなりの高さがあるな」
私は塔の上端まで視線を運びながら、ボソリと呟いた。
「もちろん、アンタが抱っこして登るの前提よ」
ルースカが苦笑まじりに振り返り、軽く顎を上げる。
「……その……途中で代わってあげてもいいけど? ほら、アタシの方が慣れてるし……」
彼女は軽く咳払いをし、大きく両手を広げた。
「いや! むしろ最初からアタシが全部――」
その「むしろ」の言葉が終わる前に、少女は、すでに“抱っこの姿勢”を整えていた。小さな腕がこちらへ伸び、ほのかな体温が先に意思を告げる。
「……だそうだ」
私は湧き上がる優越感とともに、少女の身体を抱き上げた。
小さい。軽い。そして、あたたかい。このサイズ感は、犯罪的である。
「ふふ……あったかい……」
――尊い。
それはもう、限界を超えた尊さだった。脳内に“娘バフ”がフルでかかり、思考リソースの99%が一斉に蒸発する。耳元でそんなセリフを囁かれた瞬間、私はこの世界の物理法則よりも、“父性”という幻覚の方に重力を感じていた。
……とはいえ、1%だけの理性は残した。段差を踏み外せば、普通に事故である。
「……っ、あ゛あ゛〜〜〜〜ッ!! しまったぁ……最初に“アンタが抱っこ”なんて言わなきゃよかった……!」
ルースカが顔を覆ってしゃがみ込む。肩がガックリと落ち、背中から“後悔”のオーラが漂っていた。
だが私は、そんな彼女の様子を見て愉悦に浸る。――これが、父性の勝利というやつである。
少女が胸元で小さく笑った。
「ルースカさんは、また今度ね?」
「……あーもう、そんな可愛いこと言わないの!」
ルースカはそれだけ言って、先に螺旋階段を登り始めた。背中が少し早足になるのが、なんだか分かりやすい。
私は少女を抱きかかえながら、その後を追う。
「……つかれたら、ちゃんと申告するように」
「うん。いまは、だいじょうぶ」
彼女の体温が腕に伝わった瞬間、危うく、「抱きしめ → 頬ずり → 錯乱」の三連コンボを決めかけた。だが、ここでそれを実行してしまえば、すべてが終わる。
私はパパとして、理性のギリギリを踏みとどまった。
風を逃すために開けられた小窓から、穏やかな風が流れ込む。それが頬を撫でて通り過ぎ、いつしか潮騒に溶けていく。
螺旋階段を抜けると、風車の水平軸が通された中層の機構部に出た。しかし、ルースカは止まらず、さらに上へと進む。
最上部。展望室。街を見下ろすためだけに作られた、四方に大きな丸窓のある空間。
「はい、ここ」
ルースカはそう言うと、くるりと後ろへ振り返った。 階段を上りきった時点でも、息一つ切らしていない。その仕草は軽やかで、私の息切れとは対照的だった。
そして、そこから見下ろすと……。
「……ほぉ……」
私は、思わず息を漏らした。
「すごい……お空から見てるみたい」
少女が、指先だけで窓の縁に触れる。
その向こう。色とりどりの屋根が、ぐるりと環状に並び、塔を取り囲んでいた。
緻密で有機的な構造。広場、曲がり角、トラムの環状線。建築美と都市機能が調和している。――だが、これは……?
「気づいた?」
ルースカが、少女の隣に並ぶ。彼女は両手を腰にあて、無造作に体重を片足にかけながら、指である一点を示した。
「……ほら、あれとか」
そこには、“作りかけ”ではなく、“作りようがない”空間があった。
袋小路と言うより、もはや壁に突き刺さる道。
「あそこにも」
角度の合わない橋脚、意味のない高低差、行き止まりの階段。
――“トマソン”という言葉がある。
隣接あるいは、接続する建築物が解体され、用途を失ってなお保存されている残骸。空中に取り残された螺旋階段、唐突に扉だけ埋め込まれた壁。
あれらは、その逆だ。……用途が見えないのに、作られている。
「ここから見えるだけでも三ヶ所。じつは、こういうのが最近、増えてきてるのよ」
私は窓に近づき、視線を這わせる。
「空間の……歪み?」
「ううん、歪んでるんじゃなくて、“伸びてない”の」
ルースカは腕を組んで壁にもたれた。背中が触れた瞬間、白煉瓦の表面に汗のあとが滲んだ。
「この街ね、最初はめちゃくちゃ狭かったのよ。時計塔と、その周囲ちょっとだけ。でも、建物を建てるたびに"次に何かを建てる場所"が現れる」
「つまり、建築に合わせて、空間が拡張されていったと?」
「そう。でも最近はね、それが起こらない場所が出てきたの。全部じゃないよ? でも、少しずつ、確実に増えてる」
私は、眼下の街並みを見渡す。
「……この街は、もはや完成間近……。いや、むしろ本来ならば、すでに完成している予定だったのではないかね?」
その問いに、ルースカは静かに頷く。
「うん、正解。アタシもそう思ってる」
「では、工期のスケジュールは? 誰が計画図を描いて、誰が全体の進行を管理している?」
「……誰も引いてないし、書いてもない。でもね、みんな自然とわかる。この建物の次はこっち、あの道の次はあれ、って。図面なんかなくても、体が動く」
「感覚的なスケジューリングか。まるで芸術家の直感作業だな」
ルースカは、少し目を細めて窓の外に視線を向けた。
「ふふ、恋に似てるかもね」
「……恋?」
「ほら、愛し合うときってさ。誰にも手順なんか教えてもらってないのに、“こうしたい”って欲求に従えば、最後までいけちゃうじゃない?」
私は、思わず鼻を鳴らして彼女を見る。
「ふん、ずいぶん色っぽい例えを赤裸々に語るのだな。第一印象とは少々異なる」
「よく言われる」
軽く笑って、ルースカは窓枠に肘をかけた。腕まくりした袖の隙間から、肌が陽に透ける。職人の気配をまとう彼女から、そんな艶のある例えが出てくるとは、少々意外だ。
――だが……思えば、不自然だ。
この街では“人は自然に生まれる”。役目を持った施設ができれば、役目を持って現れる。親子という概念もない。
ならば必然的に、"生殖"はこの世界にない。――なのに、恋がある?
私はこの旅の中で、すでに二度も“夜の誘い”を受けている。
インスティナには、あからさまな“誘惑”を。ラスカヴァには、“夜の寝所へ招かれる”という演出付きで。――ただし、ラスカヴァの場合はブドワールではなく、バイオ・ハザードであったことは明白だが。
彼女たちがどの程度本気だったか。あるいは単に、揶揄っていただけかは知らないが、少なくとも、"そういうウィットが成立する”。ならば、この世界にも"性愛"があるということだ。
施設や住人の全てが、純粋に"街の完成のためだけ"に存在するならば、“持続”を前提として子孫を残すための"性的欲求"は、本来不要だ。
――私は危うく、この世界のバグと交わる所だったのかもしれない。
少女は視線を彷徨わせたまま、そっと私の袖をつまんだ。私は、少女の手を握り返す。温もりは、まだ変わらない。
「……アンタさ」
唐突に、ルースカが口を開いた。手すりに肘を預けて、肩越しにこちらをちらと見る。
「胡散臭いのに、この子にはずいぶん懐かれてるのね。不思議」
「自分でも思う。これは明らかに罠だ。相当悲惨なオチが待っている。……間違いない」
私は腕を組み、あくまで冷静に頷く。
「だが、構わない。テレワーク中に、つい子供と遊んでしまって重大会議をすっぽかす。それがパパだ。私は甘んじて、そのオチを受け入れよう」
「……うん、意味不明だけどさ」
ルースカは苦笑しながらも、視線を少し外に逸らす。風に吹かれた髪が頬にかかり、指先で払う仕草がどこか柔らかかった。
「見た目ほどの欠陥人間じゃないってことは、わかったよ」
「誉め言葉と受け取っておこう」
「……ねえ」
ふと、ルースカの声が変わる。少しだけ低くなり、言葉の間が伸びた。
「こうやってさ。男女が綺麗な景色を見下ろすって……恋人同士、みたいじゃない?」
――沈黙。
私はそっと、白衣の裾を整える。
「その手のヤツは断固謝絶する。もう、飽和しているのだよ」
「……はぁ?」
ルースカの眉が跳ねた。
「アンタみたいな胡散臭いの、絶対モテそうにないタイプなのに?」
「ところがどっこい」
私は指を一本立て、静かに告げた。
「この街に来てから、突如モテ期が到来している。ラスカヴァ女史にも、インスティナ女史にも、夜の誘いを受けた」
「……ええ〜〜〜……!?」
ルースカが身を乗り出し、半分呆れたような目で私を見つめた。
「マジで? あの二人が? しかもあんたに?」
「“元の世界では非モテだった男が、異世界転移したら急にモテモテ”は、テンプレ中のテンプレである。だが、私は断固として、そういう路線を拒否してきた。にも関わらず、世界構造が私のキャラをブレさせてくる。マジに迷惑しているのだよ」
「……へぇ〜……なるほどねぇ……」
ルースカが、感心したように腕を組む。
「でも、それなら三人ってことじゃん? ラスカヴァと、インスティナと……よかったね、スリーカードだ」
そう言いながら、こちらに視線を戻した彼女の目が、一瞬、ふと止まる。そして、何かを測るような視線で私を見つめる。
「私が目指すのは、フルハウスだ。これに尽きる」
私は腕を組み、遥かなる家庭の理想像を思い描く。
「『ごめんよD.J、パパが悪かった』『もういいの…パパ、私の方こそごめんなさい」』『愛してるよ、D.J』からの『私もよ、パパ…』。そして、ここでハグ。誰の声か一切不明な、謎の《Fuuu……》……これだ」
「うん、意味不明」
そこに割って入るように、少女がそっと私の袖を引っ張った。
「でも、せんせい。わたしも居るから……フォーカード、だね?」
「……いや、キミは我が娘だ」
私は首を振り、断固として原理原則を貫く。
「つまり、万歩譲って子連れ夫婦だ」
「…………"フウフ"…?」
ルースカがわずかに目を細める。
「いや、なんでもない」
――そう、この世界には"夫婦"という概念もない。
風が静かだった。羽根の止まった風車の先で、どこまでも高く、空は広がっていた。
街が出来れば、人は消える。そして、“子孫”という概念は、存在しない。――なのに、“恋”はある。
終焉へと進む街に、どこか継続を望む構造がある。あまりにも、チグハグな世界だ。
この街の謎は、まだ全容を見せてはくれない。
――第40景へ……




