第36景:『現場感とリンゴジュース』
仮設の二階建てプレハブ棟。その一階にある応接室に通された。
部屋の中は、実用一辺倒という感じではない。組まれた金属フレームの内側に、仮設の壁材。音はやや響くが、空気は落ち着いていた。
仮の会議室にしては、随分と整っている。テーブルを挟んで、二人掛けソファが向かい合わせに。
「まぁ、座んなよ」
ルースカは、そう言ってから応接ソファに腰を落ち着けると、両手を上げ、少し背伸びするようにしてヘルメットを外した。ゆっくりと背中を預けた背もたれにはまだ余白がある。
ぱさり、と汗を含んだ前髪が額に落ち、その下から、頭の両端には、小さな羊の角がぴたりと張りつくように現れる。
さらに、テーブルの端には、スツールが一つ。そこが、あの子の指定席となった。
少女は小さく腰を下ろす。スツールの座面が少し高く、足が床に届かないようで、ぶらぶらと揺れている。その脚の動きが、ただそれだけで部屋の重力を軽くした。
タイミングを見計らったように、応接室の扉が開く。
「し、失礼しま〜す……」
作業着のまま、サングラスの男が入ってきた。がっしりとした胴体、短く太い腕、厚くて丸い指と長い爪。ビー玉のような小さな目と、盆皿より大きな掌に生えた鎌状骨が目を惹く。
彼は片手で扉を押さえ、もう一方の手のひらの上に銀盆を乗せてテーブルへ。白いコーヒーカップが二つ。そして、リンゴジュースの紙パック。
作業員は、カップとパックを、太く鋭い爪の先で器用につまんで、それぞれの前に配置。少女の前にだけ、ほんのり優しい所作で、クッキーの2枚乗った皿をそっと添えた。
「……んふ」
カップを並べ終えた後、照れたように肩をすぼめ、少女に向かってヒラヒラと小さく片手を振る。少女はそれに応じ、照れながら僅かに手を振りかえす。
一連を終えると、爪の先でドアノブを回し、彼は満足げに退出した。
出発から、およそ二時間。だが、少女の顔色は良く、足取りもしっかりしている。今も、リンゴジュースのストローを、目をきょろきょろさせながら探していた。
ただの回復傾向と断ずるには早計だが、ここは静かで落ち着いている。身体への負荷も少ない。ならば、多少は気を緩めてもいいだろう。
――私は、改めて状況に思考を振り分けていく。
まず、3割程度は、少女の健康状態の観察に確保しておこう。症状としては安定しているように見える。しかし、重篤な心内膜炎であったはずが、この数日でここまでの回復。常識的にはあり得ない。
状況が非常識的ならば、別のイレギュラーも警戒すべきだ。
私は、ソファの背にもたれ直しつつ、4割をルースカに振り向ける。目の前にいるのは、街の“未来”を背負うギルド長。その意識と視点が、この街の構造を物語る鍵になる。
一旦は、思考の重きを彼女に置いていいだろう。
そして2割は、もちろん。先ほどまで握っていた、あの“おてて”の感触だ。
指先の余韻は、離れがたく思考に留まっている。小さく、温かくて、頼りなくて。たまにきゅっと握り返してきて。全ての感情を一言にするなら、
――尊い。
この二音以外にはあるまい。
手を離して数分しか経っていないのに、もう“禁断症状”が出ている。
禁断おてて依存症候群。略して、O.D.S.……新たな精神疾患として論文化する価値がある。
さらに最後の1割で、昼食のメニューを再考する。やはり、病み上がりにカレーは重すぎるか?甘口にしたとしても、スパイスは内臓に負担がかかる。
――よし、決まりだ。
私は再び目の前のギルド長へと視線を戻し、思考の配分の構成を決断した。
少女の経過観察3割、街の構造と未来に4割、おてて2割、うどん1割。
完璧な配分である。
私はカップに指をかけながら、視線をルースカへと移す。彼女は、まだ少女をちらちらと見ている。表情は緩く、目尻に笑い皺すらある。
――完全に、デレている。
だが、やがて表情を整え、こちらへと視線を戻した。
「で。あんたの用って……」
姿勢を正して、頬杖をほどく。
「まず、“工業ギルド長”に対するビジネスの話? それとも、“アタシ個人”への用事?」
「半々だ。今回は、エモツェとしての君に用がある」
「……あー、そっちか」
ルースカは少しだけ眉をしかめた。
「ふむ、不満そうだな」
「そりゃそうよ。うちのギルドに不利な話にならないよう、集まりには毎回顔出してるけどさ。ああいうややこしい話、正直苦手ぇー」
そう言って、ほどいていた頬杖を戻した。
「やっぱ、書類の山とにらめっこするより、現場のほうが性に合ってるんだよね」
「なるほど。だから、さっきのような作業姿か」
「そ。半分は趣味よ。もちろん、ちゃんとギルド長の仕事もキッチリこなしてるけどね。でも、手を動かしてる方が、考えも回る」
「意欲的なのは結構だが」
私は口元にカップを運び、香りだけで満足して一口も飲まずに置く。
「プレイングマネージャーはおすすめしない。過重労働の温床だし、組織のスケーラビリティを著しく損なう」
「ご高説、どうも」
「事実だよ。マネージャーが“手が早い職人”として現場に入ると、他の人間が成長しない。結果、離れてみたら誰も何もできないという、典型的な属人化崩壊パターンになる」
「はは、アンタ口だけは達者だね」
ルースカは笑いながらも、しっかり受け止めている様子だった。
小さな指で、カップの縁をなぞる。工業作業で鍛えられたその手は細くしなやかで、どこか幼さも残していた。
「でもさ」
彼女はストローを探していた少女に視線をやる。
「現場の肌感ってのは、現場に出ないと分かんないもんよ。課題の根っこがどこにあるのかとか、それは実際に触れてないと見えてこない」
「……ふむ」
「机で書類とにらめっこしてりゃ、“ここはダメ”ってことくらいは言えるわ。でも、“じゃあどうしたら良くなるか”ってのは、結局手を動かしてる奴にしか分かんない」
言葉に滲む説得力は、理論では補えない温度を持っていた。
少し迷ってから、私は頷いた。
……この街の住人に、私は何か“全体性”のようなものを感じていた。宗教ではない。しかし全員が"同じものを暗黙で信じている"気配。だが、彼女は明らかに“個”の強い思考で動いている。
ギルドの利益、現場の感覚、自分の手で作るという喜び。そして……目の前の少女への、隠しきれない甘さ。
ふむ。やはり、この街の謎に迫るには、彼女との対話が必要だ。
私は再びカップを手に取った。この部屋は、落ち着いている。騒音もないし、温度も適温。ここでなら、少しは核心に近づけるかもしれない。
だが、まずは……。
目の端で、スツールにちょこんと座る少女が、クッキーを口に運び、頬をふくらませていた。
――うむ。可愛い。
まずは、この光景の保存と鑑賞が最優先である。
――第37景へ……




