第35景:『火花と羊と、現場の流儀』
鉄骨の骨組みの中で、火花が散っていた。その中心にしゃがむ影がある。逆光に揺れる溶接面体。ラインに沿って走る火花の先で、鈍く赤く、鉄が融けていた。
建設途中の施設の屋上――そこに“彼女”はいた。
現場詰所の作業員に案内され、我々がその姿を認めたのは、その溶接がちょうど終わった瞬間だった。
遮光面を外した女性が、汗をぬぐう。ショートジャケットの袖をまくった腕には、煤と火傷痕。膝をついた作業ズボンには、飛び散ったスパッタと古いオイルの跡。金属片とオゾンの匂いが、潮騒の気配をかき消していた。
「ルースカさーん、お客さんっすー! スルドツェの時計守の、オルローグさんって人」
陽気な声に、彼女の肩がびくりと動いた。
「おらぁ!作業中って言ってたのに! なんで人入れてんの!? 火の粉かかったらどうすんの!?」
――火の粉よりも鋭い怒声。だが、不思議と、不快ではない。
怒鳴っている声には、爽やかさと快活さを感じさせる響きがあり、作業員を案じる優しさもある。
少女はぴくりと肩をすくめたが、そのあと――ぽかんと、口を開けたまま、怒鳴った方角をじっと見つめていた。
そして、ぽそりと呟く。
「この声……ちょっと好きかも」
……うむ、なんかわかる。
「ったく……溶接中に近寄んじゃないわよ。アーク光で眼が焼かれたら大変……ん?」
こちらを振り返る。鋭い目元に、横長の瞳孔が覗いた。
「……アンタ。オルローグじゃないよね? ……代理かなにか?」
声は低く、鋭く。完全に警戒モードだ。
「彼の代行的何かしら、と言っても差し支えは少しあるか無いか的な者だ」
私は堂々と嘘をつきながら、白衣の裾を払った。
――嘘のコツは、返答に迷わないことと、“真実とのギリギリの境界線”を突くことだ。
つまり、“真実と嘘の絶妙なハーフアンドハーフ”。父性と詐術は、紙一重なのである。
「彼と面識があるとは初耳だ。それならば、オルローグ氏に同行を頼んだ方がよかったかね?」
「いや、時計塔の修理に行ったときに一度顔を見ただけ。向こうは覚えちゃないでしょ。……でもまあ、アンタ。オルローグと知り合いのようだし、いいか」
だが、警戒の色は緩まない。当然だ、部外者を職場に入れるのだ。現場監督者としては慎重であるべきだ。
しかし――彼女の視線が、私の右隣に動いた。少女の存在に気づいた途端、その態度が変わる。
「……は?」
まばたきひとつぶんの沈黙。次の瞬間、彼女はバチバチだった溶接面を脇に抱え、軽やかに走り寄って前屈みになった。
「ちょっと!? あなた……誰!?」
「……あの、せんせいの、むすめの……」
少女は突然の接近に、ちょっとだけ腰を引いた。上目遣いで視線だけ動かし、ぎこちなく笑う。
「……な、なによぉ……なにその仕草……かっわいい……」
「うわ〜〜〜……何この子……マジ可愛い……。
え、どうしよ。え? 抱いていい? いや、手だけでもいい?」
彼女は手袋を外しかけたが、はっとして止めた。そのまま、自分の手を見る。
「……あっぶね。現場の油でベタベタだったわ……いやでも……でもぉ……」
――完全に、崩壊していた。
ここに来て、私は確信した。この街における“父性のバフ”は、想像以上に強力である。
少女が一歩下がり、私の袖をぎゅっとつかむ。私は、彼女の後ろに立って、軽く一礼した。
「失礼。娘がちょっと天使すぎるもので」
「認める。これは天使……。いやむしろ……天災……」
女は額に手を当て、ぐらつく膝を踏みしめた。……これはもう、全身で“推している”。つい先ほどまでの警戒は、どこかに吹き飛んだ。
「で?」
ようやく、私の方へ向き直る。表情は戻っているが、頬がまだゆるい。
「何の用?」
………む……?
そこで、私はようやく気づいた。私は、用事の内容を……。
いや、正確には――“どういう切り口で話題を切り出すか”、一切考えていなかった。
無警戒なままトラムに乗り、娘と手を繋ぎ、駅に降り立ち、現場に来て……
……今、ここにいる。
私の思考は、少女の容態、そして“おてて”に99%を割いていた。残り1%で"今日のお昼はカレー"の方針を固めていた。――完全に盲点だった。
選択肢はある。
『オレはこの世界の外からやって来た。アンタに、確かめたいことがある』――それ系のアレだ。
だが、そこからシームレスな会話は進むまい。……いや、ワンチャンいけるか?
ここまで、そのテンプレでやってきたのだ。そのまま流れで……。
しかし…いや、まて。落ち着け。そもそも優先すべきは、話の切り出しではない。
“おてて”である。
考えるべきは、どちらに重きを置くべきか。――答えは明白だ。
だが、そろそろ進行も意識すべきだろう。
私はひとつ息を吐き、鞄を背負い直した。少女の容態と“おてて”に99%を割いている思考のうち、1%をストーリーへ向ける。
なぜなら、お昼はカレーと決まったのだ。これ以上そこに脳のリソースを割いても、ルーの濃度と具材にしか行きつかない。もはや思考の徒労である。
自分で言うのもなんだが、我が頭脳は優秀だ。たとえ1%でも、"ぴゅう太"くらいの演算能力を発揮する。
あの、8bitの伝説的マイコンだ。起動音に感動し、BASICで「おっぱい」と打ち込んだあの感動を少年たちの心に刻んだ、偉大なるマシンである。
――我が心のぴゅう太は、今、確かに目を覚ました。
さて、である。何から話を切り出すべきか。いや、何を話すべきかすら、実はまだ――
「……なんか、言いにくそうだね」
私は、すっと顔を上げる。ルースカが、こちらを見ていた。
「ま、いいよ。ちょうど休憩入れるつもりだった。場所、変えよっか。事務所、使っていいよ」
その言葉に、少女がこちらを見上げた。ほんの少しだけ、不安と嬉しさが混じった瞳。私は彼女の視線に、そっと頷いて応えた。
彼女の手を、もう少しだけ強く握る。
――さて。物語進行はグダグダだが、同行者は最高だ。
ならば、今この瞬間も、旅の一歩である。
――第36景……




