第33景:『駅長と、ほんの少しの寄り道』
朝の街は、まだ夢の続きの中にあった。
澄んだ空気には、どこか甘く柔らかな香りが混じっている。石畳の水気は引ききらず、木々の葉もまだ眠たそうに揺れている。
私は、デイパックの重みに背を押されながら、ゆっくりと歩いていた。歩幅を落とし、歩くリズムも緩やかに。そして、右手には、柔らかな感触。
――そう、可憐なる我が娘の、“おてて”である。
尊い。
実に、尊い。
――涙腺が決壊しそうである。
小さき命の象徴であり、信頼と愛の物理的証明。その指が、私の指を包む――ただそれだけで、我が内なるホルモンバランスは父性に全振りされる。
だが私は耐える。私は父であり、科学者であり、今この瞬間において優先すべきは、彼女の主治医であることだ。
娘の体調を気にかけ、おてての感触を噛みしめつつ、この街の謎への思索を並列処理する。
思考配分としては、体調5割、おてて4割、謎1分、本日のお昼ご飯0.9割といったところだ。
しばらく進み――。石畳を降りていく先に、駅のホームが見えてきた。そのベンチに座るひとつの制服姿。滑らかに整えられた桃色の横分け髪から、真珠のような羊角が覗く。――ラスカヴァだ。
駅の片隅で、タイトスカートから伸びた黒タイツの脚を組みながら、静かに腰かけていた。その姿が、朝の駅の一角に艶やかさを添えている。
「……おや、奇遇だな。ラスカヴァ駅長」
私が声をかけると、彼女はゆっくりと、視線だけをこちらに向けた。
横長の瞳孔が微かに揺れる。その目には相変わらず、笑みとも寂しさともつかない淡い光を宿している。
「奇遇じゃないわ」
彼女は静かに返す。
「“今日は先生と一緒にルースカのもとへ行く”って、その子が強く思ってた。だから、その前に……あなたの顔を見たくなったの」
少女が、小さくぴくりと動いた。
少しだけ目を伏せたが、表情は柔らかい。怖がっている、という感じではないな。照れている、といった雰囲気。……ラスカヴァの顔は知っているようだ。
子供によくある"人見知り"の反応。詰所での彼女しか知らない私にとっては、少々意外ではあった。
「安心して。誘拐する気はないわ」
「む……誘拐したくなる愛らしさには全力で共感するが、私は父である。誘拐は全面戦争と心得たまえ」
ラスカヴァは何も答えず、ほんの少しだけ笑った。
「それで、こんな朝からスルドツェの駅に現れた理由とは? トラムが動いているということは、始業時間は過ぎているはずだ。本当に私の顔を見に来ただけと言うなら、光栄だがね」
「ルースカなら、パーテシュ区にはいないわ。街の東……建設中の区画で、陣頭指揮をとってる。あなたたちが、西向きのトラムに乗ってしまわないよう……そのことを伝えに来たの」
「ふむ……なるほど。それは助かった。キミがいなければ、かなりの徒労をしていた所だ」
私は軽く会釈し、礼を述べた。
「わざわざすまないな。感謝する」
「ありがとう、ラスカヴァさん……」
少女もそっと礼を言う。
ちょうどそのタイミングで、トラムが駅に滑り込んでくる。淡い水色の車体が、柔らかな朝の光に包まれている。
少女が手を引き、小さく首をかしげる。
「ラスカヴァさんも、一緒に来るの?」
「少しだけ。オブロークまで一緒に乗るわ。出勤の途中だから」
三人は連れ立って、車両に乗り込んだ。
揺れる車内。光と音が混じる空間の中で、私はふと語りかけた。
「インスティナ女史と、昨日会った」
「……そう」
「君が“街の外”に疑問を抱いていたように。彼女は、“時計塔が無ければどうなるか”を考えていた。……エモツェたちは、やはり気づいているのだよ。街の構造は、どこか歪だと」
「……そう、彼女、そんなこと考えてたの」
ラスカヴァは、トラムの窓から差し込む光を手で遮るようにしながら、静かに続けた。
「この街の住人はみんな、“あの子”と繋がってる。……無意識にね。だから、変化があれば、自然に揺れる。……でも、それが何なのか、までは……分からない」
少女がそっと私の袖を引いた。私は、彼女の顔を見て、小さく微笑んだ。
「大丈夫だ。私は探るよ。君の正体も、街の構造も……すべて、私が解き明かそう」
「ええ、少しだけ期待して待ってるわ」
ラスカヴァは、私の右隣に小さく座っている少女の顔を見つめた。
「……あなた、本当に先生に懐いてるのね。それが、私にも……よく伝わってきて、困ってるのよ」
「ふむ、というと?」
「たとえば、ほら。今も“夜に私の自室へお招きしたら、どうなるのかな”なんて、うっかり思ってる程度に」
――ふむ、実に大人な誘惑である。
しかし私は即座に結論する。
駅長室の惨状を見た以上、ラスカヴァの“自室”なるものが、汚部屋の極みであることは明白である。招かれたが最後、彼女への好感度は爆散する。彼女と対峙するたび、微妙に顔を歪める羽目になるのは必至だ。
――そう、これは罠である。
「インスティナ女史にも言ったがね。残念ながら私はガールフレンドの募集はしていない。だが、もしキミが“娘になりたい”というのであれば、我が父性は全力で受け入れよう」
どうやら、この街に来てモテ期が来ているようだ。
しかし、私の物語はマルチ攻略のギャルゲーではない。全ての会話で"それっぽい"選択肢ばかり選んだ結果、最後に"約束のあの場所"で一人佇んでいた、などと言う結末はいらない。
あくまでも我が物語は、父と娘の物語である。
「……それは、遠慮しておくわ」
口元で笑い、瞳にだけ僅かに寂しさを滲ませて、彼女は微笑んだ。
「……おや。"娘"と言う言葉を知っていたのかね? この街にはない概念のはずだが」
「ええ、その子から伝わってるわ。
……よっぽど、そう呼ばれるのが嬉しいのね」
――この街には、"父娘"はない。
『なら、そのボケ成り立たないだろ』というツッコミはしても良いが、私は聞かない。
我が最大の持ちネタを、捨てるわけにはいかないのだ。
「本当なら、ルースカ宛の紹介状でも書いてあげたいけれど……この街の組織は、完璧な縦割り体制。エモツェ同士でも、管轄が違えば介入できない」
「ふむ、お役所仕事の理想型だな」
私は肩をすくめた。
「まあ、また自力でなんとかするさ。異邦人らしく、創意工夫でな」
トラムが減速し、ホームに滑り込む。ラスカヴァは立ち上がった。
「じゃあ、私はここまで」
ラスカヴァは静かに立ち上がり、扉の前で一言だけ振り返った。
「“この子”のそばに、居てくれてありがとう、先生」
私は言葉を返さず、軽く顎を引いた。
扉が開き、ラスカヴァの姿が駅舎の中へ消える。少し間を置いて扉が閉まり。私たち二人は、トラムに乗ったまま彼女の背を見送った。
街の中心、オブローク・ターミナル駅。ここから、再び旅は始まる。
――次なる地は、街の東。工業ギルドの長、ルースカの元へ。
潮騒の音が、車窓の向こうから、静かに、静かに、響いていた。
――第34景へ……




