第32景:『未来を訪ねる出立』
朝の詰所の窓に、灯りが滲む。
私は、ポータルと財布 (スヴェルカのやつ)を白衣のポケットに詰め込みながら、今日の行き先を検討していた。
インスティナ、この街における“流通”の管理者。すなわち今を巡らせる血流の監者とは、既に対話した。ならば、次に向かうべきは“未来”だろう。
この街が、やがてどのように完成されるのか。その“行き着く先”を見据えている者がいる。
――この街の"設計図"を握る者、ルースカ。
街の構造と成長の指針を担う工業ギルドの長。そして、激情型のエモツェ。――つまり、ツッコミ必須の相手である。
スヴェルカの不在は、やはり痛い。致命的ですらある。
彼は現在、ギルドの臨時給与処理中。というより、昨日からずっとインスティナの下で“数字をいじる係”に回されている。これはもはや、“ツッコミの出向”である。
ブジホ区で地図は入手し、既に全て記憶済みだ。道に迷うことはない。――だが問題は、構文上のテンポである。
“ちょっと捻る系のボケ”と、“生真面目な職人気質”。この二者がツッコミ不在のまま並ぶと、そこには一拍の沈黙が生まれる。スヴェルカの「それ、おかしいですよ!」が間に入らないだけで、読者は「ん?ここ笑うところか?」と一瞬、思考を停止する。
その一瞬……。その“わずかな思考の遅延”が、呼吸を殺すのだ。
ボケと真面目な会話が、ツッコミのバッファなしで直結したときの文脈の淀みを、
私は昨日、インスティナとの会話で痛感した。――あれは……もう、事故だった。
捻り出したの“Amazonボケ”も、あろうことか自然な会話に吸収されてしまった。結果、“物語の核心に迫る情報だけが、スムーズに開示されていく”という地獄絵図が描かれた。
インスティナが「なんやそれ!」と一言添えるだけで違ったはずなのに……。
――あれを、再び繰り返すわけにはいかない。
「せんせい……」
不意に、服の袖が小さく引かれる。振り返ると、少女が毛布をたたみ終えたばかりの手で、こちらをじっと見ていた。
「きょう、わたしも連れていってほしいの」
「……ふむ」
私は鼻に指を当て、真剣に沈思した。
体調は快方に向かっている。昨日は問題なく歩行もできていた。昨日の様子を見る限り、回復は順調だ。だが、街歩きには相応の負荷がある。気温や湿度の変化、体を揺らす振動。そして、なにより情報の奔流。感覚の過負荷が、自律神経に与える影響は大きい。
「いや、まだキミを外に出すべきではない。回復途上とはいえ、君の病は重篤だった。判断は慎重にすべきだ」
「でも、せんせいの隣にいると、いちばん元気になるの」
少女は、ぽすんと膝に額を預けてきた。
勝手に身体が弛緩し、じんわりと多幸感が滲む。脳がオキシトキシンに満たされ、扁桃体の活動を抑制し、ストレス反応が緩和される。
……この距離。これは、甘えではない。医療である。心拍と体温を同時に安定させる身体的接触。現代医学において最も非科学的で、かつ最も効く手法のひとつだ。
――たぶん、既に癌にも効く。
「ふむ……」
私は額に手を当てた。思考は混乱し、判断は揺れる
オルローグが、少女の寝具を整える手を止め、口を開いた。
「……私も、心配ではあります」
「む?」
「ですが……この子の意思を、否定したくはない。とても静かで、強い目をしている」
私は彼のほうを振り向く。彼女の“守人”たる存在の判断は重い。だが、私はパパである。病み上がりの少女を連れ回すのは、信念に悖る。
遠足の当日。頬を赤くしながら「お熱なかったよ!」と言う娘の、後ろ手に隠した体温計を検めないわけには、いかないのである。
――だが、しかし……。
「わかった。だが条件がある」
私は椅子を引き、少女の前にしゃがんだ。
「歩行中、常に私の右手側に。息切れや立ち止まりがあれば即申告。異常を感知した場合、探索は即打ち切る。反論は認めない。以上だ」
少女は、小さくコクンと頷いた。
「がんばりすぎないよう、がんばるね」
「それでいい。ついでにひとつ訊こう」
私は立ち上がり、口元に手を添えた。
「キミの写真をSNSにアップする際のハッシュタグは、"#わが家に降り立った奇跡”か、"#今日も尊いしか勝たん"どちらが良いかね?」
「わぁ! 『そもそも勝手にアップするな』って言う権利がないなんて……。私信を論文化される文豪みたいで、わたし……なんだか偉人になっちゃったみたい!」
「うむ、完璧だ!」
少女はくすっと笑った。
「では、出発の準備だ。ふたりで行く以上は、抗菌薬や最低限の診断器具。虫よけスプレーと防犯ブザーも必要だ。念の為、毛布もあった方が良いな」
「うん!ふたりでお出かけだね!」
「残念ながら、スヴェルカくんは居ないからな。まあ、彼は彼で、今頃“精算の妖精”としてギルドで楽しく過ごしているだろう。
オルローグくん、鞄を借りても?」
「かまいません。お持ちください」
朝の光が、塔の階段に差し込んでいた。その奥からは、相変わらずの潮騒のような音が、静かに響いている。
私は、少女の手をとった。まだ、すこし冷たい。
――だが、それでも。“娘とおててを繋いで街を歩く”。私にとって――抗いがたい誘惑である。
「では、父娘の尊い家族デートだ。ともにボケツッコミの均衡を取り戻しに行こうではないか。ついでに、この街の謎も解き明かそう」
「うん!」
そして、私は鞄を背負い、詰所の扉を開く。
――第33景へ……




