第31景:『静かな揺れと、胎内の音』
夜のトラムは、静かに走っていた。
ガラス越しに見る街は、昼間の賑わいとは違っている。
化粧漆喰で飾られた曲線窓――そのひとつひとつに、琥珀色の灯りがともっている。手前の窓から奥へ進むほどに、光はぼんやりと滲んで、細く、小さく、やがてただの光点となって消えていく。
街灯に照らされた石造りの路。その向こう、曲がりくねった建物の合間に、いくつも明かりが浮かんでは沈む。まるで、闇に沈む川底を照らす、魚の群れのように。
空気は冷えてきているはずなのに、車内はぬるく、眠たげな暖かさがあった。誰もいない夜の車両で、私はひとり、座席の背に身を預けていた。
「そういえば……聞き忘れていたことがあったな」
そっと、そう呟く。
車輪が軋み、ゆっくりと軌条をなぞっていく音にかぶさるように、“それ”はずっと聞こえている。
――波の音だ。
この街には、常に潮騒のような“音”が満ちている。だが、港はない。海も見えない。皆、それを“そういうもの”としか認識していないようだった。
――いや、もしかすると、この音が“聞こえている”のは、私だけなのかもしれない。
我々の耳には、本来もっと多くの音が届いている。心臓の鼓動、外顎動脈を流れる血流……。鼓膜はそれらの振動を確かに捉えているはずなのに――だが、意識はそれを“音”として扱っていない。
聞いていながら、聞いていない。この波音もまた、その種の“沈められた音”なのではないか。
ならば、これは潮の音ではないのかもしれない。どこか異質でありながら、あまりにも自然な“響き”。
――あるいはこれは、“胎内音”。
血流と、鼓動と、内臓の動きが共鳴し、羊水を震わせる音。胎児にとっての世界。
この街の構造は、どこまでも“人体”を模している。これだけヒントが揃って気づかないのなら、アホだ。
南には、知識と意思決定の中枢――円形に広がる行政区。その対角に、流入する全ての物資の搬入口たる、商業区。西には、脊椎のように街を支える工業区。
そして極めつけは、中央にそびえる”Srdce"――“心臓”の名を冠した時計塔……。
……これでピンと来ない方がどうかしている。
そして、より正確には、“胎児”。
街の人々にとって、資源とは“自然に流れ込んでくるもの”だった。努力も、労働も、収穫もない。必要なものは、必要なときに“入ってくる”。
それはまるで、母からへその緒を介して運ばれてくる養分や酸素のように。――つまり、彼らはまだ“母の内側”にいるのだ。
ならば、その母体こそ……あの少女。あるいは――
私は、窓の外を流れる光をぼんやりと眺めながら、額に指を当てて思索の波に揺られていた。
しかし、私はもうひとつ思案せねばならぬことがある。いや、むしろこちらの方が……重要だ。
――それは、ツッコミの喪失である。
スヴェルカは、臨時従業員としてインスティナに取られてしまった。これは、極めて遺憾である。そして、由々しき事態でもある。
――思えば、今日の私はだいぶ“泳がされていた”。あのインスティナという女。容姿端麗、頭脳明晰、そして口が達者。……ただ、それだけだった。
凛としたスーツを着こなす長身美女が、関西弁で喋る……。一人称はまさかの"ワイ"。私は、大いに期待した。"これはっ!!"と震えた。
だが現実はどうだ……。ボケを拾わない、間を殺す、反応が理知的すぎる。
――我が娘たちは、全員が美しい。そして、その美しさを“魅せる”術を持っている。
ツッコミで世界を斬る理詰め系から、すべてを黙ってケリで落とす暴力系、気品でボケを刺す令嬢系まで。美しき名手たちだ。
更には、見た目は神聖な精霊なのに中身はポヤポヤ。無垢な微笑みで殺しに来る可憐なサイコチルドレン――等々
だが、彼女は違った。美しさが全て、マイナスに作用していた。言動は理屈っぽく、反応は大人びていて、“熱”を打ち消してしまう。なんというか、無言で茶を濁される空気が続いていた。
誰も“正気かよ!?”と叫ばない世界。そんな街は、息苦しいことこの上ない。
「やはり私は……父として、腹を括らねばならんのか……」
私は、拳を握った。
今頃は、時計塔のベッドで眠っているであろう、あの少女。彼女には、才能がある。“未来”がある。新たな境地を目指して、奥深く進むツッコミだ。
スヴェルカ亡きいま、私に残された最後の希望…….。いや、彼はまだ死んでなかったな。
だが、それだけでは回らぬのだ。
ギャグとは、掛け合いの“合奏”である。間の取り方、タイミング、次のボケへの伏線。彼女のツッコミは高度であるが故に、チューニングが難しい。ボケにも、相応のテクニックが求められる。ある程度は"お迎え"にいかねばならない。
"何ゆうてんねん!!"や"アホか!"だけでオチが付くような単純なボケでは、その良さを十全に活かしきれないのだ。
しかし、文脈のリズムを保つためには、やはり時には、短く切って捨てることができるボケも必要だ。長いボケツッコミを挟んでしまっては、ストーリーの流れが寸断してしまう場面もある。――それを、私はコントロールせねばならない。
ロートルなお笑いに浸かりきってしまっている私は、はたして彼女に付いて行けるだろうか……。
私の覚悟が固まらぬなか、トラムが緩やかに減速した。窓の外に、時計塔の影が見えてくる。扉が開き、冷たい夜気が流れ込んだ。
私は白衣の裾を払って立ち上がる。
階段をのぼる足音が、時計塔の内壁に反響する。やがて、詰所の前にたどり着いた。木の扉が、軽く軋んだ音を立てて開く。
「……お戻りになりましたか、先生」
出迎えたのは、オルローグだった。
いつものように、姿勢は正しく、左目の懐中時計だけが控えめに瞬いている。
「おかえりなさい、先生!」
その声に、私ははっと顔を上げる。
ベッドの上から、白い毛布を巻きつけた少女が、こちらに手を振っていた。
頬は赤く、目はしっかりと見開かれている。小さく笑っているその姿は、もはや“病み上がり”ではなかった。
「もう起きていても、だいじょうぶ」
彼女は、はにかむように笑った。――私は、黙って頷いた。
そう。街は、少しずつ動き始めている。そして、この子もまた、静かに、目を覚ましているのだ。
トン、と、どこか遠くで歯車が鳴った。時計塔は、ゆっくりと、確かに動いていた。
――第四旅程『Růstka』へ……




