第23景:『目覚めの呼吸』
静かだった。
……いや、音はしている。歯車の回転音と、波の音。どちらも確かに響いているはずなのに、それはただ、背景のように身体を包むだけだ。
私は、目を開けた。ベッド代わりに並べた椅子の上で、ゆっくりと身を起こす。
塔の天井から伝わる、規則正しい歯車の音。木材の噛み合う音と空気の軋みが連なり、どこか遠くで心臓が動いているようだった。
その向こう、外から――微かに、波の音が聞こえてくる。
――塔の上から、海は見えない。それでも街には、静かでやさしい波音が満ちていた。
椅子に座りなおして、上背を伸ばし、木の床に足を下ろす。そのまま、右手を伸ばした先。
そこに――いた。
ベッドの上で毛布にくるまった、小さな寝息。あの少女は、穏やかな顔で眠っていた。
昨日よりも、呼吸が安定している。皮膚の色も、脈の感触も、視診上の状態もすこぶる良好。
――この子は、確実に回復している。ならば……この街は?
私は立ち上がり、詰所の扉をそっと開いた。斜め上に浮かぶ歯車の連なりに、ふと目をやる。梁の合間を抜けて、ビーチ材の歯が静かに噛み合っていた。
ひと歯ずつ、木目に光がなぞられ、その隙間から表面をなめるように朝の光が差し込んでいる。
わずかな間を置きながら、
――ゴ……ン、と、低い音が響く。
そのどこか湿った音は、空気に染みこみ、しばらく遅れて、耳に届く。
足元には、石造りの片持ち階段が階下に続いている。熱膨張の緩衝、あるいは排熱のためだろうか。壁には所々、真鍮の線が埋め込まれ、脈絡もなく迂回している。
それはまるで、血流を模したような――いや、神経配線のような――。
階段を数段下ると、塔の窓から、街が見えた。昨日の朝までは、まるで死んだように静まり返っていたはずの街並み。
けれど今――建設中の市場に、小さな人影が見える。
屋台の屋根を組み立てる者。トラムのレールに何かを注いでいる者。店先に煉瓦を並べている者――。
それぞれの動きは緩やかで、統制もない。だが、確かに“動き出して”いた。
私は手すりを握り、しばしその光景に見入る。――やはり、あの子の容態とこの街は、リンクしている。
「おはようございます!!先生!!」
階段の下から、ぱたぱたと軽い声が響いく。スヴェルカだった。
「今朝の、先生の分のお湯も沸かしておきました! あと、階段の埃もちょっとだけ……」
頭が斜めに傾いたまま、胴体からふわりと滑るように浮かび上がっている。
「朝早くからずいぶんと張り切っているな。ナチュラルにテンション高いのは、非常に教育的だ」
「へへっ!あの子が目覚めたのが、うれしくてですね!」
私は目を細めながら、ピコピコと尾を振るスヴェルカの背後に目を向けた。まだ薄暗い塔の通路を、かすかに靴音が響いてくる。通路の奥、背筋を伸ばしたその人影が、静かに歩いてきた。
「おや、オルローグくんも早いな。というか、キミは睡眠を必要としないのだったな」
金属の足音。左目に嵌め込まれた懐中時計が、かすかに光を返している。
「おはようございます、先生……あの子の容体は?」
「うむ。視診、脈拍、皮膚色、呼吸音、全て良好。この回復速度なら、明日には動けるかもしれないな」
私はそっと、背後の部屋を振り返った。
静かな寝息。白い毛布にくるまれて、あの少女は、穏やかな夢の中にいる。
「先生は、今日もお出かけですか?」
スヴェルカが箒で階段を掃きながら、こちらに顔を向ける。
「ああ、今日は他の調律者……エモツェの誰かを訪ねよう。……街と繋がる少女、少女と繋がるエモツェ達。最優先で情報を聞き出したい相手だ」
「なら!わたしがご案内します!他にもできることがあれば、なんなりと!」
「ふむ……なら出納係を任せよう。キミの待遇を削って育児予算に回してくれ」
「はい! がんばって、変動費を固定費名目で計上しますっ!」
「よろしい。見事な経営者マインドだ。私も見習おう」
私は笑みを浮かべ、階段を下りながらスヴェルカの頭をぽんと軽く叩いた。しかし、私が言っておいてなんだが、それで良いのかスヴェルカ。
私は階下で身支度を整え、朝の空気を吸い込みながら、塔を出た。
「では、今回の旅路も、優雅かつ理知的にスタートしようか」
ふと、塔の最上階の窓を見上げると、少女が手を振っていた。白い毛布を肩にかけたまま、あたたかい笑顔で。
時計塔を背に、ゆったりと歩きながら、大通りを挟んで並ぶ建物を見回す。街も、ゆっくりと目を覚ましている。
「――先生!トラム!!来てますっ!」
しばらく道を進み、スルドツェ駅に向かう坂道の中腹。スヴェルカが、こちらに近づいてくる車両を指さして叫ぶ。
フワフワ浮かぶ丸っこい手。相変わらず構造不明だ。
スヴェルカは相変わらずの全力疾走。私はやや早足で駅に向かう。
駅に到着し、スヴェルカがピョンピョンと跳ねてアピール。
私は満足げに頷き、我々の目前にゆっくりと停車したトラムの扉を開けた。
動き出した街。動き出した心臓。動き出した物語。であれば、この街の深部に踏み込む時だ。
「スヴェルカくん、切符は買ったか?」
「もちろんです!出納係ですから!」
「それはそれは。財布はどこに?」
「すでに、先生の白衣のポケットにです!」
「すばらしい。見事な手際だ」
私はここでは無一文なのだ。
財布を貸して欲しいと言ったのは私だが、それで良いのかスヴェルカ。
私はトラムの座席に腰を下ろした。車内は昨日と異なり、乗客がチラホラ。しかし、みな人の姿はしていない。座席の布地にはレースのような文様が編み込まれ、天井には植物のツルを模した装飾が揺れていた。
短く笛が鳴り、車両がなめらかに走り出した。
「で、先生!今日はどこに行くんですか?」
スヴェルカが対面に腰かけながら尋ねてくる。
「そうだな……ブジホ区、商業ギルドの代表“インスティナ”を訪ねよう」
「インスティナさんって、ちょっと怖いんですよね。“商魂の擬人化”って言われててですね……」
「ふむ。面識は?」
「ありません!またもや噂だけです!」
「素直でよろしい」
私は苦笑しながら窓の外に目を向けた。
街の風景が流れていく。街並みは、ゆっくりと動き出している。舗道には清掃用の水がまかれ、細い排水路をさらさらと音が流れる。開いたシャッターの奥では、棚を拭く店主の姿。
――――――
しばらくトラムに揺られていると、降車駅が見えてきた。プラットフォームには、犬顔のスーツ姿が数人。鼻を鳴らしている。
トラムが減速し、車体がわずかに傾く。
「さて、降車だ。ブジホ区に到着だな」
「はいっ!」
スヴェルカは勢いよく飛び降り……車止めに足を引っかけて転んだ。
「い、いたたたた……でも大丈夫です!今日は着地しました!」
「それを“大丈夫”と定義するあたり、キミのメンタルは尊敬に値する」
さて、次はこの街の経済の中枢への面会だ。
商業ギルド代表、インスティナ……。果たして、何を知っているのか。
――第24景へ……




