第16景:『パムェトナへの道(とスヴェルカの心)』
駅を降り、しばらく歩いたところで、私は立ち止まった。
前方、石畳のゆるやかな坂の先。その突き当たりに、巨大な建物が聳えていた。
『Knihovna』
つまり『図書館』と記された、白い装飾文字の看板。
その建物へ向けて、行政・司法・議会・統計院といった施設名を記した案内板の矢印が、ことごとく集約されている。
なるほど。図書館は“附属施設”などではない。この街では図書館こそが、議政堂の本体なのだ。まるで知識の海の中に、あらゆる機関が泳いでいるような構造。
――ふむ。これは興味深い。さて、とするならば。
「ところで、スヴェルカくん」
私は少しだけ考え込んだ後、唐突に問いかけた。すぐ横を跳ねていた頭が、くるりとこちらを向く。
「はい、先生っ!!なんでしょう?」
「時計塔の病床の少女。あの儚げで可憐な存在。キミにとって、彼女はどういう存在だ?」
スヴェルカは、一瞬きょとんとした。だが、すぐに目を細めて――いや、瞳が小さく震えて、こう答えた。
「……大切な子です。まさに先生のおっしゃる“娘”です」
「ふむ、キミがそう思うのもわかるよ」
私は頷き、やや遠い視線を建物の上層に投げた。
「彼女には、人の心を掴む不思議な魅力がある。思わず守りたくなるあの儚さ。……まさに、父性という本能を叩き起こす存在だ」
「そうですよね!ですよねっ!」
スヴェルカが嬉しそうに身体を小刻みに跳ねる。
「だが――」
私は急に声を低くした。
「そんな彼女が、病に倒れた。……キミもさぞ、身を切るような思いだったろう」
「……はい」
スヴェルカが、あからさまに肩を落とす。
「命を落とすことを想像すると――な?」
その瞬間、スヴェルカの目の光がすぅっと消えた。
言葉の意味が、感情として届いてしまったらしい。ぷるぷると震えながら、真っ青な顔でこちらを見上げてくる。
「……い、生きててよかった……!!」
泣いた。
普通に泣いた。
「いや、だからこそ私は身を尽くしたのだよ。頭脳をフル回転させ、素材集めに奔走し、我が知識の全てを結集して救ったのだ」
スヴェルカは、涙をキラキラ浮かべてこちらを見ていた。
「その通りです!先生には感謝してもしきれません!どんな恩返しでもさせてくださいっ!」
「うむ、私もキミの心まで救えたことが嬉しいよ」
私は満足げに腕を組んだ。
スヴェルカの目は今、完全に“救ってくれたヒーロー”を見上げる眼差しになっている。
――よし。焼きが入った。
「ところでだ」
「はいっ、なんでしょう!」
「……そういえば私が薬を作っている間、キミは何をしていたのだったか?」
「え……なにを、とは……」
「いや、私が必死に走り回り、脳を削り、我が化学と医学の知識を、全身全霊で結晶化していたときだ。あまりに夢中で、キミが何をしていたか……思い出せなくてな。確かオルローグくんは、傍で少女を懸命に看病していたが……」
「……えっと……あの……その…。……みてました」
「そうだったそうだった。思い出したよ。……つまり、見ていたのだったな」
スヴェルカが、少し不安げな顔をする。
「とすると、キミの存在意義は何だったのだろうか……」
「え?」
「いや、先程キミは“どんな恩返しでも”と言った。だから私は、キミに何か頼めることはないかと真剣に考えていたのだよ。……だが、なかなか思いつかなくてな。キミが役立ちそうな場面が……」
スヴェルカの顔から、さっきまでの感動の輝きがスーッと引いていった。表情というか、全身が硬直している。
喜び→悲しみ→感動→憧れ→不安→失意……。
あまりの感情のジェットコースターっぷりに、脳がノルアドレナリン・ドーパミン・コルチゾール・その他を同時に過剰分泌し、フリーズしているのだ。
「すまない。口が滑った。悪気はない。しかし、薬作りにも役に立たず、看病もせず、恩を返すような仕事もできない存在とは?……と、ふと……思ってしまってな」
「先生っ!!」
突然、スヴェルカが吠えた。浮かんだ頭がビリビリと震え、胴体が地面を滑り寄ってくる。
「私は!先生が故郷に帰れるよう、命をかけます!!」
「……なんと……!」
私は胸に手を当て、言葉を失った。感動的だ。あまりに献身的だ。
――いや、私がそう答えるよう誘導したのだが、それでも私は震えていた。
「……キミのその献身、その言葉だけで嬉しい。ありがとう、スヴェルカ」
スヴェルカの顔が、パァッと晴れる。
「よかったぁ……!」
――よし、ここだ。ここで仕上げだ。
「では、キミに簡単な用事を頼みたい」
「はい!なんなりと!」
「……私は所詮、部外者だ。だから、この図書館の司書パムェトナ氏に、キミがアポイントメントを取っておいてくれ。私はその間、他の施設を回ってくる」
「わかりましたっ!!わたしにお任せください!!」
――よし、完了だ。
「終わったら、そこのベンチで合流しよう」
私は手を振り、別の方向へ歩き去る。角を曲がったところで即座に身を翻し、物陰に身を隠した。
――そして、図書館の入り口を静かに見守る。
スヴェルカは、意気揚々と図書館の正面玄関に向かった。跳ねるような足取りだった。浮かんだ頭が、宙に明るく弾む。鼻歌さえ、出ていたかもしれない。それはもう、使命を与えられた子犬のように。
――だが、当然のように止められた。
角のある獣人の警備員が、無言でスヴェルカの進行を遮る。表情は一切変えず、腕も組んだままだった。
スヴェルカは、笑顔で挨拶した。
「こんにちはっ! えっと、あの、パムェトナさんにお会いしたく――」
――却下。
「いえ、あの、中に入らせてほしいわけではなくて……!ほんの少し、お話だけでも……!」
――却下。
「せ、先生が……その、恩人が……!」
――ノー。
最初は笑顔だったスヴェルカの顔が、みるみるうちに曇っていく。耳が垂れ、眉が困ったように下がり、瞳の揺れが大きくなる。
まるで、すべてのパーツが「うまくいってません」と訴えているようだった。
――それでも、諦めなかった。
彼は、何度も話しかけた。丁寧に頭を下げ、敬語を変え、声色を変え、時に感情的に訴えた。だが、すべては同じ無表情の獣人によって、無言のうちに退けられる。
私は、少し離れた茂みの中から、温かい紅茶(持参)を飲みながら眺めていた。
――予想以上だった。ここまで健気に粘るとは。
それから、数時間。
スヴェルカは、少し引いては再びトライ。ベンチに戻って意気消沈。しかし、意を決してまたトライ。そして、最後の試みとばかりに、何かを必死に訴える。
浮かんだ頭が、だんだんと沈んでいく。尾も垂れ、浮遊高度が明らかに低い。それはもう、沈んだ風船のようだった。
……最終的に、ベンチで沈んだ。
――目が死んでいた。
身体の浮遊高度が明らかに低い。尾も力なく垂れている。頭が空を仰ぎ、「……せんせい……」と何かを呟いた。
まあ、当然だ。図書館とは、知識と文化の象徴的施設である。確かに一部の国や都市では、無償で開放される公共財としての姿を見せているが、それは稀な例外だ。
特にここは、“知識によって街を統治する”都市である。
行政、議会、統計院、裁判所――それらがすべて“図書館”という構造体の内部に収められているのだ。
知識とはすなわち権力であり、立ち入れる者は厳密に選ばれる。部外者はもちろん、住民ですら無条件で入れるわけがない。
それでも、私はスヴェルカに任せることにした。……そう、そして。
まず恩を売り、優しく接し、信頼を得る。小さなダメ出しで自尊心を削る。その直後に称賛を与え、削れた自尊心を満たす。再び報酬系を活性化させる。それにより、精神的にドップリと依存させる。
そして、“簡単な仕事”と称して、到底不可能な任務を与える。報告も、相談も許さない状況で、試行錯誤させる。
結果、時間だけが無駄に過ぎ、達成感の得られない労力が積み上がり、自責と焦燥だけが脳を焼いていく。
――他人の心を折る最短コンボである。
「ふむ、実に尊い……」
私は紅茶をすする。若干冷めてはいたが、余韻は悪くない。
——第17景へ……




