第51話 戻ってきた機体が、次も飛べるか
最初に飛び立った機が戻ってきた時、飛行隊の待機所の空気はまた少し変わった。
緊張が解けたわけではない。
むしろ逆だった。
一度動き始めた流れは、そこで終わりではなく、その先を要求してくる。
戻ってきた機体を、次も飛べる状態へ戻せるか。
今度はそこが問われる。
滑走路寄りへ下ろされた機体の脚元へ、整備長が真っ先に寄った。
若い整備兵が工具箱を抱えて続く。
「温度は」
「まだ高いです」
「いい。先に振れを見る」
「はい」
榊は少し離れた位置から、その動きを見ていた。
最初の出撃を通した流れが、いま別の形で現れている。
発進の段階を分けたことで、全機が無駄に疲れてはいない。
暖機対象も、前へ出した機も、ちゃんと切れている。
だからこそ今、整備側は“戻った一機”へ集中できる。
整備長が低く言う。
「支持部」
「異常なし」
「接点」
「軽い焼け、でも範囲内」
「記録つけろ。次、電源」
若い整備兵の手つきに、前より迷いが少なかった。
確認順がもう体へ入っている。
飛行長の少佐が、戻った搭乗員から短く話を聞いていた。
無線の入り。
誘導の感じ。
視認。
機体の癖。
どれも長い報告ではない。
だが、そこに今まで作ってきた“短くても切れない流れ”がそのまま残っている。
若い中尉が榊の横へ来た。
「見ていますか」
「はい」
「どう見えます」
榊は戻った機体を見た。
「飛んだことより、次も飛べるかどうかが大きいです」
中尉は少しだけ口元を動かした。
「やっぱり、そこへ行きますか」
「行きますね」
「うちの整備長と同じことを言う」
「たぶん正しいので」
中尉はその返しに、今度は少しだけはっきり笑った。
最初に会った時の棘は、まだ完全には消えていない。
だが少なくとも今は、同じものを見て話している感じがあった。
試験棟へ戻ると、葛城が新しい報告束を並べていた。
「飛行隊から戻りの初報だ」
榊は受け取って目を通す。
発進後帰投機、機体状態概ね良好。
暖機対象限定のため、予備機側の疲労軽微。
再出動準備、従来より短時間化。
伊集院が低く言う。
「来たな」
村瀬少佐も頷いた。
「一次報告の段階で全部を動かさなかった効き目が、戻りで出た」
黒川が短く言う。
「だから段階を切った」
その通りだった。
最初の一報で全機を動かせば、反応は速く見える。
だが空振りや軽い接敵のたびに、整備も搭乗員も削れる。
そうなれば、次に本当に飛ばすべき時に飛べる数が減る。
いま起きているのは、その逆だった。
最初の一報では暖機だけ。
追認で前へ。
必要な数だけ発進。
その結果、戻ってきた後の再準備が軽くなる。
榊はその紙を見ながら、小さく息を吐いた。
「やっぱり、“飛べる数”って帰ってきた後で差が出ますね」
葛城が頷く。
「出る。発進の瞬間だけ見ていると分からんがな」
「そこが現場なんでしょうね」
「そうだ」
飛ぶ瞬間は派手だ。
だが強いかどうかは、次にも飛べるかで決まる。
それは工場でも同じだった。
一回直ったでは意味がない。
次の個体でも、次の搬送後でも、次の再設置でも再現するかが大事だった。
戦闘機隊も結局同じだった。
一方、第二監視所の流れを受けた飛行隊側では、別の報告が返ってきていた。
追認遅延により暖機開始遅れ。
初動対象の絞り込み不十分。
発進後、予備機側も含め整備負担増。
伊集院が紙を机へ置く。
「きれいに差が出るな」
村瀬少佐が静かに言う。
「一次報告を前へ置くか後ろへ置くかの差が、そのまま整備負担へ流れている」
榊はその文面を見て、妙に納得してしまった。
結局、全部が同じ流れの上にある。
電探の一報。
受理卓。
飛行隊。
整備。
どこか一つの遅れが、そのまま後ろの負担になる。
「これ、物量差の話そのものですね」
榊が言うと、葛城が目を上げる。
「どういう意味だ」
「数で勝てないなら、同じ数を何回使えるかで勝負するしかない」
黒川が短く頷く。
「そうだ」
「百機あるかじゃなくて、五十機を何度回せるか」
伊集院が低く笑う。
「だんだん嫌なほど現実的になってきたな」
「現実がそうなので」
その返しに、誰も反論しなかった。
夕方、飛行隊の整備長が試験棟へ顔を出した。
工場や試験棟の人間とはまた違う疲れ方をした顔だったが、目は前よりはっきりしていた。
「例の段階表、追加で欲しい」
葛城が聞き返す。
「足りないか」
「足りないというより、隣の分隊にも回したい」
榊は少しだけ驚いた。
整備長は続ける。
「あと、戻りの確認順も短い札にしたい」
「戻りの、ですか」
「暖機・前へ・発進までは切れた。なら次は、帰投後確認も同じように切った方が早い」
榊は思わず笑いそうになった。
「現場の方から来ましたね」
整備長は無表情のままだったが、声は少しだけ柔らかかった。
「使えるなら使います」
その一言が何よりだった。
押しつけではなく、現場の側から“欲しい”と言われた時、その流れは本物になる。
「どう切ります」
榊が紙を引くと、整備長は即答した。
「先に振れ。次に熱。次に接点。最後に電源」
伊集院が小さく息を吐く。
「きれいにつながったな」
本当にそうだった。
工場で作った確認順が、いま飛行隊の帰投後確認へ自然につながっている。
飛ぶ前だけではない。
戻った後も、同じ思想で流れを切る。
そうすれば次も飛べる。
榊はその場で短い札を書いた。
帰投後確認
先に振れ
次に熱
次に接点
最後に電源
整備長はそれを見て頷いた。
「いい」
「短すぎませんか」
「短い方が残る」
その答えに、榊はもう何も言えなかった。
長い説明より骨が残る。
それは結局、飛行隊でも同じなのだ。
夜、試験棟の机には新しい比較紙が加わっていた。
一次報告から発進まで早かった隊
帰投後再出動準備短時間
一次報告が遅れた隊
発進後整備負担増、予備機疲労増
葛城がそれを見ながら言う。
「きれいすぎて嫌になるな」
「はい」
榊も頷いた。
「でも、これでかなりはっきりしました」
「何がだ」
「一次報告を前へ置く価値です」
榊は紙を指で押さえた。
「発進が少し早くなるだけじゃない。
戻ってきた後の整備まで軽くなる。
つまり、一回の出撃じゃなく“次も飛べる数”が増える」
黒川が短く言う。
「それが物量差への抵抗だ」
その言葉は、知り合いから言われた助言ときれいにつながっていた。
超兵器ではない。
奇跡の逆転でもない。
歩留まり。
故障率。
反応速度。
稼働率。
そういう、戦後の技術者なら真っ先に見る数字で、戦争の負け筋を削っていく。
たぶん榊がこの時代に持ち込める“未来”とは、そういうものなのだ。
深夜、榊は一人で工場から持ってきた記録束と、飛行隊から新しく来た帰投後確認の札を並べていた。
真空管。
接点。
電源。
振れ。
熱。
一次報告。
追認。
暖機。
発進。
別々に見えたものが、もう別々には見えない。
全部、同じ流れの中の違う位置にあるだけだ。
戻ってきた機体が、次も飛べるか。
その一点に、工場も試験棟も飛行隊も全部つながる。
榊はその紙を見ながら、胸の奥に静かな確信が残っているのを感じた。
勝ち切れるかは分からない。
だが、無駄な負け方は減らせる。
同じ数を、少しでも長く、少しでも揃って使えるようにはできる。
それなら、まだやる意味はある。




