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第6話 九条邸まで

 

 リリが階段を降りると、そこに少女が待っていた。


 服はビリビリに引き裂かれ、肩は露わになっている。


 裸足。


 足の裏は汚れ、踵には擦り傷まで出来ていた。


 少女は肩を震わせながら、怯えた目で周囲を見回している。



 リリは少女を一瞥すると、何も言わずにその手を取った。


 冷たい。


 しかも、小刻みに震えていた。



『歩ける?』


『……う、うん』



 少女は必死に頷く。


 リリはすぐに周囲へ視線を巡らせた。



「(まだ追ってきてない……でも時間の問題)」 



 上ではまだ男達の怒鳴り声が響いている。


 完全に制圧した訳じゃない。


 長居は危険だった。



 リリは少女の手を引き、大通りへ向かう。


 異国の少女が二人。


 しかも一人は絶世の美少女で、もう一人はまるで乱暴された直後のような格好で、しかも裸足。


 人目を惹かない方がおかしい。



 通行人たちの視線が次々と突き刺さる。


 何事かと振り返る者。


 露骨に顔をしかめる者。


 そして……。



 既にスマートフォンを片手に、何か撮影している輩まで現れていた。



「(ちっ)」 



 リリは小さく舌打ちする。


 本能的に嫌だった。


 撮影。


 記録。


 位置情報。



 戦場では、それが命取りになる事もある。


 少女も周囲の視線に気付き、怯えたようにリリへ身体を寄せた。



『だ、大丈夫……?』


『大丈夫じゃなくなる前に移動する』



 リリは短く答える。


 その時、通りの端にカラフルな色の車が見えた。



 客待ちのタクシー。



「(あれ)」



 リリは少女を連れたまま、早足で車へ向かう。



 運転席では、中年の男が新聞を読んでいた。


 リリは窓ガラスをコンコンと叩く。


 少し強めに。



「おいおい、乱暴だなっ!!」



 運転手が眉をひそめながら窓を下げる。


 その瞬間、運転手の表情が変わった。



 ボロボロの少女。


 外国人。


 緊張した空気。


 明らかに普通じゃない。



「九条邸まで。急ぎ」



 リリは昨晩教わった言葉をそのまま口にする。



『困ったときはタクシーを捕まえて、『九条邸まで』と言えば帰ってこれますわ』



 麗華が胸を張って言っていたのを思い出す。


 だが、運転手はすぐには反応できなかった。



「……は?」



 九条。


 その名前くらい知っている。



 だが。


 外国人の少女二人。


 しかも一人は裸足。


 どう見てもトラブルの真っ最中。



「いやいやいや……ちょっと待ってくれ嬢ちゃん達。何があったんだ?」



 運転手の目が警戒色に変わる。



 リリは周囲を見る。


 遠くで誰かが騒いでいる。


 男の怒鳴り声も聞こえた気がした。



「(まずい)」 



 麗華の『魔法の言葉』は万能ではなかったらしい。


 リリは少女を見る。


 少女は今にも泣き出しそうだった。



 周囲ではまだスマートフォンがこちらへ向けられている。


 誰も助けない。


 ただ見ているだけ。



「(……時間切れ)」 



 リリは静かに腰の後ろへ手を伸ばした。


 運転手はその動きに眉をひそめる。


 次の瞬間。


 黒い拳銃が引き抜かれる。



「……っ!?」



 運転手の顔から血の気が引いた。


 リリは迷いなく、拳銃の銃口を運転手のこめかみに押し付ける。



「乗せろと言っている。『九条邸まで』」



 声に感情は無い。


 だが、その目だけで分かった。


 この少女は本気だ。


 冗談でも、脅しでもない。


 本当に撃てる人間の目だった。


 ◆


 タクシーの中は異様な緊張に包まれていた。


 エアコンの風だけが静かに流れている。



 だが、その冷気すら生温く感じるほど空気が重い。


 リアシートでは、ボロボロの服を着た少女と、物騒なものを押し付けてきた美少女が背中を預け合うように座っていた。


 少女は裸足のまま膝を抱えて震えている。



 リリはそんな少女を庇うように、窓側に座っていた。


 右手には拳銃。


 黒いリボルバー。


 銃口は運転手の背中へ向けられたままだ。



 運転手は何度も警察へ通報しようと考えた。


 タクシーの行燈を点滅させるだけでいい。


 それだけで異常事態を知らせる事が出来る。



 だが……。


 バックミラーに映る少女の目を見る度に、その指が止まる。


 感情が薄い。


 怒っている訳でもない。


 興奮している訳でもない。


 なのに分かる。


 この少女は必要なら躊躇なく引き金を引く。


 そんな確信だけがあった。



「(何なんだよ……この嬢ちゃん……)」 



 運転手の額を嫌な汗が流れる。


 しかも、問題はそれだけではない。



 九条。


 その名前が頭から離れない。



 あの九条家の関係者なら、なるべく問題は起こしたくない。


 下手をすれば、自分の人生が吹き飛ぶ。


 ならばむしろ、恩を売る形で終わらせた方が良いのではないか。


 そんな打算と恐怖が入り混じり、運転手は正常な判断を失っていた。



 車内にはカーナビの音声だけが淡々と流れている。


『次の交差点を右方向です』



 ウインカーが規則正しく点滅する。


 赤信号。


 車が停止する。



 その瞬間、運転手は反射的にルームミラーを見る。


 後ろの少女と目が合った。


 リリは瞬き一つしなかった。



「……っ」



 運転手は慌てて前を見る。


 背筋が寒い。


 あの目をした人間を、運転手は一度だけ見た事があった。


 昔、自衛隊上がりだという客を乗せた時だ。


 あれと同じ種類の目だった。


 ◆


 一方、リリは隣の少女から途切れ途切れに話を聞き出していた。



『……ダンサーの仕事があるって……言われた』



 少女の声は掠れている。



『日本なら安全で……お金も稼げるって……』


『ん』



 リリは短く返事をする。


 少女は涙を拭いながら続けた。



『でも……本当は違ったの……』



 来日後、連れて行かれた店。


 酒。


 男。


 知らない言葉。



 そして、パスポートを取り上げられたこと。


 逃げようとした少女は暴力で押さえつけられた。



『今日は……変なビデオ撮るって……』



 そこで少女の声が震えた。



『嫌だって言ったら……殴られて……』



 少女はそこで言葉を詰まらせる。


 リリは黙って聞いていた。


 だが、内心では少し違う事を考えている。



「(世間知らずの少女がマフィアに騙された……それだけ)」 



 南米では珍しくもない。


 むしろ、もっと酷い話をいくらでも見てきた。



 だから、リリの感覚では“よくある事件”の範囲だった。



 ただ……。



「(日本でも、こんな事あるんだ)」 



 その事実だけは少し意外だった。


 ユーリは言っていた。



『日本は安全だよ!』



 銃も無い。


 戦争も無い。


 平和な国。


 そう聞かされていた。



 なのに。



 拳銃を持った男。


 人身売買まがいの組織。


 助けを求める少女。



 リリは窓の外を見る。


 ネオンが流れていく。



「(ユーリの話、半分くらい嘘)」 



 脳内のユーリが慌てて抗議してくる。



『違うって! 普通はこんなの遭遇しないんだって!』


「(でも遭遇した)」


『うっ……』



 脳内ユーリが黙り込む。


 リリは小さく息を吐いた。


 そして改めて考える。



「(……本当にこれで良かったのか?)」 



 助けた。


 逃がした。


 銃も使った。



「(でも……)」



 これが『日本の普通』として正しかったのかは分からない。


 リリの脳内で、ユーリが再び親指を立てる。



『細かいことは気にしない!』


「(……適当)」 



 リリは呆れたように窓へ額を預けるのだった。



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