第5話 戦場の匂い
リリはあまりの騒音と人混みに、段々と人の少ない方へと歩みを進める。
最初は巨大な通り沿いを歩いていた。
大型ビジョン。
絶え間なく流れる音楽。
信号待ちをする大量の人間。
まるで都市そのものが巨大な機械みたいだった。
だが一本、また一本と通りを外れていくにつれ、街の空気が少しずつ変わっていく。
低層の雑居ビルが目立ち始め、街の明るさもギラギラしたものではなくなってきた。
道幅も少し狭い。
人通りも減る。
「(この位なら、我慢できる)」
リリはやっと大きく深呼吸する。
排気ガスのにおい。
なんだかよく分からない料理の匂い。
そして日本独特の空気の匂い。
湿度。
熱。
街の生活臭。
南米ともアメリカとも違う。
でも、不思議と嫌ではなかった。
リリは自分でもわからずに微笑んでいた。
ユーリにしてやられたことが、なんだか凄く楽しかった。
「(絶対仕返ししてやる)」
リリが秘かに決意を固めた時、耳に聞き覚えのある言葉が聞こえた。
「スペイン語……」
その瞬間、リリの意識が切り替わる。
周囲の雑音の中から、聞き慣れた言葉だけを自然と拾い上げる。
リリは辺りに注意を向ける。
その言葉は、リリのいる左側のビルとビルの間の道路から聞こえてきた。
細い路地。
大通りの喧騒が嘘みたいに遠い。
『放して、いや、約束が違うっ!!』
それは女性の……しかも若い女性の声だった。
「ウルセエな。さっさと黙らせろ」
今度は日本語。
短い言葉だったが、その声音だけで十分だった。
リリの目が細くなる。
「(……似てる)」
国は違っても、こういう声を出す人間はどこにでもいる。
リリは立ち止まって考える。
「(どうすべき……スペイン語を話すからと言って善人とは限らない)」
旅行者同士の揉め事かもしれない。
犯罪者同士かもしれない。
下手に介入すれば、自分が面倒に巻き込まれる。
「(でも、日本語を話す連中の語感は、ギャングのそれに近い)」
威圧。
命令。
支配。
リリの経験が危険信号を告げていた。
リリはあくまで観光で日本に来ているので、厄介ごとに巻き込まれる気は更々無かった。
しかし。
『女の子が困ってたら、助けるのが当たり前でしょ!!』
脳内のユーリが怒り顔でリリを叱る。
『リリはそういう時、変に考えすぎなんだよ!』
「ユーリ……わかった」
リリは小さくため息を吐く。
そして無意識に周囲を確認する。
路地の幅。
人数。
逃走経路。
監視カメラ。
それからウェストバッグの位置を軽く直す。
「(観光中なのに……)」
そう呟いて肩を竦める。
だが、その口元はほんの少しだけ笑っていた。
リリは静かに、ビルとビルの間の路地へ歩みを進めるのだった。
◆
雑居ビルの階段。
階段の両脇には、雑多なものが積み上げられていて、人一人通るのがやっとだ。
空の段ボール。
潰れた缶。
古雑誌。
どこかの店のゴミ袋からは、油と腐敗臭が混じった嫌な匂いが漂っている。
階段の天井に着いている蛍光灯は、既に切れてから久しく交換された気配すらない。
そのせいで階段は薄暗く、外のネオンの明かりだけが細く差し込んでいた。
そしてビル全体から醸し出される、饐えた匂い。
湿気。
酒。
タバコ。
汗。
「(……なんかスラムを思い出す)」
リリは脇に積み上げられていたビールケースから、空のビール瓶を取り出す。
軽く振る。
中身はない。
使える。
リリは自然な動作で腰の後ろに隠した。
階段を上り、一回折り返してから二階へ。
金属製の扉が固く閉ざされている。
だが、中に人の気配がする。
複数。
そして女性の怯えた呼吸。
「(……ユーリ、本当に正しいの?)」
脳内のユーリと会話するが、脳内のユーリは親指を立てるだけだった。
『いけっ、リリ!』
「(……適当)」
リリは小さく息を吐く。
「(まあ、いいか。大変だったら、逃げよう)」
そう考えると少し気が楽になった。
リリは金属製のドアをノックした。
室内の気配が止まる。
空気が変わった。
リリはもう一度ノックして、ドアノブを回す。
幸い、鍵は掛かっていない。
だが、まだ扉を開けない。
瞬間、リリの意識が静かに切り替わる。
距離。
人数。
遮蔽物。
逃走経路。
数パターンのアクションを瞬間的に組み立てる。
そして、ドアを引く寸前に後方へ飛びのいた。
同時にドアが勢い良く開けられ、男が顔を出す。
「誰だ……」
最後まで言わせない。
リリはすぐにドアへ肩から体当たりをした。
「がっ!?」
金属製のドアに男の身体が挟まれ、鈍い悲鳴が響く。
リリはそのままドアを引き開け、倒れ込む男の襟首をつかんで引きずり出す。
無防備になった首筋へ前蹴り。
男の頭が床へ叩きつけられる。
ガクッと力が抜けた。
リリは一切足を止めず、すぐに室内を観察する。
狭いワンルーム。
酒缶。
タバコ。
散乱した衣類。
部屋の奥には大きなマットレス。
そこに一人の少女が数人の男達に押さえつけられていた。
少女の服は酷く乱れている。
涙で顔がぐしゃぐしゃだった。
「なんだ、てめえはっ!!」
男の一人が怒鳴る。
それを無視してリリは少女に声を掛けた。
『助けが必要?』
少女が目を見開く。
『え、……た、助けてっ!!お願いっ!!』
必死だった。
その瞬間、リリの中で状況が確定する。
「その子が嫌がっている……放した方が良い」
リリは土足のまま室内へ入る。
男達が一瞬たじろぐ。
小柄な少女。
だが、その目がおかしかった。
まるで感情が無い。
「てめえも此奴の仲間かっ!!」
「一緒に、ビデオの素材にしてやるぜ」
リリは早口の日本語は理解できない。
だが悪意は理解できる。
男の一人が折り畳み式のナイフを取り出した。
チャキッという金属音。
リリの視線が動く。
「(男三人……武器は小さいナイフ……罠の類はなさそう)」
呼吸。
立ち位置。
利き手。
全てを一瞬で観察する。
ナイフを持った男が突っ込んできた。
リリは素早く腰の後ろからビール瓶を引き抜く。
そして突き出されたナイフごと、男の手首へ叩きつけた。
ガチャッ!!
バギッ!!
ガラスが砕ける音と、男の手首が砕ける音が同時に響く。
「ぎゃああああっ!!」
男が絶叫する。
リリは割れて凶器となったビール瓶を構えたまま、更に前へ出る。
怯まない。
暴れている男の鳩尾へ爪先を蹴り込む。
「おげっ!!」
男が胃液を吐きながら崩れ落ちた。
「(残り二人)」
まるで人数確認みたいな思考だった。
「何だよ、てめえはっ!!」
「何でもいい。さっさとその女を放せ」
「ふざけんなっ!!」
男が掴みかかってくる。
リリは割れたビール瓶を男の太腿へ投げつけた。
「ぎゃあっ!!」
ガラス片が肉へ食い込み、男が転倒する。
その瞬間には、もうリリは動いていた。
倒れた男の首へ膝を落とす。
鈍い音。
男の悲鳴が止まる。
部屋の空気が変わった。
最後の男が初めて恐怖の表情を浮かべる。
「て、てめえ……」
部屋の中には男一人と、捕らわれた少女が一人。
「その女を放せ」
「てめえ、俺達を玄武会の者と知ってんのかっ!?」
「しらないし、知りたくもない」
リリは淡々と答える。
その時だった。
男の上着の胸が、不自然に膨らんでいる。
「(……っ)」
リリの目が細くなる。
「(ユーリの嘘つきっ!!)」
日本は安全。
銃なんてない。
そう聞いていた。
リリは即座に行動を変える。
低い姿勢で床を滑るように飛び込み、男へタックルする。
「うわあっ!!」
男が派手にひっくり返る。
リリはそのまま馬乗りになり、上着の内側へ手を突っ込む。
硬い感触。
引き抜く。
「(38SP……)」
リボルバー。
リリはちらっと見るだけで確認を終える。
撃鉄を起こす。
シリンダーが回転して止まる。
男の顔色が変わった。
この少女は扱いに慣れている。
そう理解してしまった。
「女を放せ。……撃つ」
冷たい銃口が男の額へ押し付けられる。
その動きに、男も尋常ならざるものを感じた。
この女は本気で撃つ。
脅しではない。
男の身体から力が抜ける。
リリは男へ銃口を向けたまま、片手で少女を呼ぶ。
『逃げる。こっちへ』
少女が涙目のまま頷く。
リリは少女へ先に部屋を出るよう親指で合図する。
少女が転ぶように部屋を飛び出していく。
リリは拳銃を構えたまま、ゆっくり立ち上がった。
「追いかけてきたら撃つ」
感情のこもらない言葉だった。




