第4話 純粋な親切
リリは九条邸から最寄りの駅……地下鉄に向かう。
朝の空気は少しひんやりしていた。
通勤中の会社員。
通学する学生達。
スーツ姿の男と、制服姿の少女が同じ歩道を自然に歩いている。
誰も銃を持っていない。
怒鳴り声も聞こえない。
「(……変な国)」
リリはそんな事を思いながら歩く。
大通りに面した場所に、地下へと階段が続いている。
リリは階段を下りて、改札の横の券売機の前に立つ。
「(……何これ。迷路?)」
地下鉄の乗り換え路線図を見て固まる。
色分けされた無数の線。
駅名。
矢印。
正直、今自分がいる駅が何線なのかも危うい。
「(敵のアジトの方がまだ分かりやすい……)」
リリが真顔でそんな事を考えていると、隣にスーツ姿の男が近づく。
咄嗟にウェストバッグへ手が伸びる。
だが男は一定の距離を保ったまま立ち止まった。
『お困りの様ですね。わたしで良ければ聞いてください』
男は流ちょうな英語でリリに話し掛ける。
『新宿……どうやって行けばいい?』
リリは警戒しながら男に尋ねる。
男は路線図を指し示しながら経路を教えてきた。
『此処で乗り換えて、赤い線の地下鉄に乗れば新宿に行きますよ』
そして、ついでとばかりに料金も教えてくれた。
『……ありがとう』
『いいえ。良いご旅行を』
男はそう言って改札をくぐって行ってしまった。
リリはその背中を少しだけ目で追う。
追ってこない。
見返りも求めない。
「(……純粋な親切?)」
まだ少し信じられなかった。
リリは券売機で切符を買う。
だが今度は、自動改札の前で固まった。
「(……食べられる?)」
恐る恐る切符を差し込む。
すると切符が凄まじい勢いで吸い込まれ、再び前方から飛び出してきた。
リリの肩がぴくりと震える。
「(ユーリはこんな事言ってなかった……)」
リリはそう呟いてホームに向かう。
◆
地下鉄に乗ると後は思いの外スムーズだった。
時間帯が良かったせいか、そんなに混雑もしていない。
車内は驚くほど静かだった。
誰も騒がない。
大声で電話もしない。
皆、スマートフォンを見たり、眠ったりしている。
「(……本当に平和な国?)」
唯一の不満は、窓の外が真っ暗な事だ。
「(まあ、地下鉄だから仕方ないか)」
リリは乗換駅で下車し、赤い目印に従って進む。
すると男の言う通り、赤いラインの入った地下鉄がやってきた。
「(純粋な親切だったのか……)」
そう呟きながら、自然とウェストバッグから手が離れる。
リリはそんな事にも気付かないまま、再び地下鉄へ乗り込むのだった。
◆
「リリさん。大丈夫かしら」
休み時間に、麗華が陸に尋ねる。
「大丈夫だよ。それに多少迷ったりする方が楽しかったりするじゃない?」
「そんなことありませんわ。リリさんは若い女性なんですわよ。何かあってからじゃ遅いんですわよ」
麗華は陸に食って掛かる。
そんな麗華を見ながら、陸は思う。
「(なんだか、リリとお嬢様が急に仲良しになってる気がする……)」
陸は何となく居心地の悪さを感じる。
教室の周囲では、そんな二人の様子をちらちら見る生徒達がいた。
最近、九条麗華と佐伯陸の距離が近い。
そう噂になり始めていたのだ。
「……そう言えば、リリさんってお幾つなのかしら。わたくし達とあまり変わらない年齢に見えるんですけど」
「そうだね。でも、ユーリ……従妹の同僚って言ってたから18か19位かも」
「ユーリさんは何のお仕事をされていらっしゃるの?」
「すまん。俺知らないんだよ。あいつ、高校卒業と同時に海外に行っちゃったんで」
「……少し気になりますわね」
そんな話をしていると、詩織が近づいてきた。
「あらあらあら、何を楽しそうにお話しているのかしらぁ……うふふ」
「べ、別に。大した事じゃありませんわ」
麗華はプイッと横を向く。
「あらあらあら……ますます怪しいですねぇ……いつの間にそんなに仲良しさんになったんですか?」
詩織はニコニコと笑いながら麗華の顔を覗き込む。
「(あー、これは絶対に遊んでる奴だ……うちの猫も良くやってた……)」
陸は何も見ない事にした。
こういう時に下手に口を挟むとろくでもない事になるのは、身を持って学んでいたからだ。
◆
地下鉄のドアが開いた瞬間、リリは思わず一歩、あとずさった。
「……人、多すぎ」
ホームに溢れる人の波が、まるで生き物みたいにうねっている。
誰もが急いでいて、誰もがぶつかりそうになる。
だが、不思議と本当にぶつかる者は少ない。
人の流れが、巨大な群れのように自然に分かれ、交差し、また合流していく。
「(……統率されてる?)」
リリは思わずそんな事を考える。
すれ違う人々を観察する。
学生。
会社員。
観光客。
誰も武器を持っていない。
なのに、この人数。
もしここで爆発でも起きたら。
もし銃撃戦になったら。
リリの頭の中では、無意識に被害予測が始まっていた。
「(逃げ道……)」
自然と視線が非常口を探す。
だが案内表示が多すぎて逆に分からない。
リリは肩をすくめながら、案内板を見上げた。
「出口……A1、A2、B1……え、まだあるの……?」
数字とアルファベットが並ぶ看板を前に、戦場帰りの少女が初めて『完全に固まった』。
「……こんなに出口いらない」
小さく文句を言いながら、人の流れに押されるように歩き出す。
すれ違う人の声、足音、アナウンス、広告の音楽。
全部が一度に耳に飛び込んできて、少女は思わず耳を押さえた。
香水の匂い。
食べ物の匂い。
地下特有の空気。
情報量が多すぎる。
「……音、多すぎ」
戦場の銃声より、この雑踏のほうがよっぽど怖かった。
戦場では敵の位置が分かる。
だが此処では、誰が何を考えているのか全く分からない。
「よくこんな状況で平然としてる」
リリは自然と壁際に移動する。
背後を取られない位置。
無意識だった。
◆
新宿に来たのは特に目的があった訳では無かった。
ユーリが東京に行くなら、「新宿」「渋谷」「原宿」をお勧めしてきたからだ。
『まあ、最初は新宿が良いと思うよ。そこで色々ビックリしてくるがいい!』
ユーリが笑いながら言う顔が脳裏に浮かぶ。
「(くっ、騙された……)」
そして本当に驚くのは、南口を出てからだった。
地上へ出た瞬間、リリは足を止める。
「……っ」
視界いっぱいに広がる巨大都市。
通路を埋め尽くすような広告。
信じられないほどの人の数。
巨大なスクリーン。
空へ伸びる高層ビル。
そして信じられないほど明るい照明。
昼なのに、街そのものが発光しているみたいだった。
しかも人々は、その巨大な人の流れの中を、ぶつかる事もなく自然にすれ違っていく。
「(……なんでぶつからない?)」
リリは本気で不思議そうに周囲を見回す。
空を見上げる。
だが高層ビルが空を切り取っていて、酷く狭く感じた。
「(……空が遠い)」
南米の広い空とは全く違う。
圧迫感すら覚える。
なのに、周囲の日本人達は平然としていた。
笑いながら歩く学生達。
スマホを見ながら歩く会社員。
買い物を楽しむ観光客。
誰も警戒していない。
「(……ユーリの奴、よくこんな所で暮らしてた)」
リリは改めて思う。
日本人がますます理解できなくなった。




