第5話 はじめまして
男はただ静かにこちらを見ていた。
(……何こいつ)
まずそこからだった。
人間だ。それは分かる。服を着ている。座っている。呼吸もしている。ここまでは問題ない。
問題は何もしないことだった。
人間が入ってきた。この状況で。それなのに、立ち上がりもしない。声も出さない。驚いた顔すらしていない。ただ座って、こちらを見ている。
瞬きはしていた。生きてはいる。
(うわ、やば)
(頭やられてる?)
じりじりと壁際に移動した。距離を取る。取ってから、無意味だと気づいた。おそらく、六畳くらいのこの部屋に逃げ場はない。
男は微動だにせず、視線だけこちらに動かした。
(……こわ)
外にいた頃、覚えたことがある。
近づいて来ないやつは大抵大丈夫。
やばいのは大抵距離を詰めてくる。じっとしているやつは、じっとしているだけ。腹が減っていないか、こっちに興味がないか、そのどっちか。
いや、目の前にいるのは人間だけど。この人はなんかやばいけど今のところ無害。
(で、どうすんの、これ)
状況を整理してみた。
私は買われた。この部屋に入れられた。天井はない。上には目玉がある。壁は登れない。扉の先は便所と風呂だけ。
つまり出られない。
部屋にはこの男がいる。
いつからいるのかは分からない。隅に布団が畳まれずに置いてある。
たぶん今日来たわけじゃない。
(……ずっといるの?この人)
ということはこの先、ここにいる。この人と。
(どれくらい?)
答えは出なかった。出なかったが、たぶん短くはない。買われたのだから。買った側が飽きるか、こっちが死ぬかするまで。
(……一生?)
(一生この人と?)
背中にすうっと冷たいものが走った。
(いや無理。無理でしょ)
相変わらず男はソファから動かない。少し横に動いてみた。やっぱり視線だけが動く。目では追ってくる。
(……さすがに、気になってはいる?)
(ホラーなんだけど……表情筋母の胎内に置いてきたんか?)
壁際で動けずにいたが、このままでは何も変わらないことは分かった。
(とりあえず、話しかけてみる……?)
そう思ったものの、どうしていいか分からなかった。床の傷をちらっと見た。そういえばこの人は何人だろう。日本人っぽく見えるけど、日本語は通じるだろうか。
男はまだ座っていた。こっちを見ている。
(……こっち見んな)
(いや、見てもいいけど)
(何か言えよ)
(せめて真顔やめて)
(……よし)
腹を括った。
この先どのくらい一緒にいるのかは分からない。分からないなら、早いほうがいい。この恐怖の時間が短くて済む。話しかけたあとのことは話しかけたあとに考える。
思いっきり息を吸って、一歩前に出た。
「初めまして」
思ったよりちゃんと声が出た。
「私」
そこで一瞬詰まった。思い出すのにコンマ何秒かかかった。
「私、信子」
言えた。言ってから、少し息が上がった。
男は何も言わなかった。こっちを見ている。
(……え)
(あれ)
(無視?)
(無視された?)
たぶん三秒くらい待った。長かった。
「あの」
「ない」
(え?)
男が口を開いた。
「え? なに? ない?」
「名前、ない」
(……は?)
信子はしばらく黙った。
(名前、ない)
(名前がない)
(何それ。何それどういうこと)
(あ、カタコト??)
男は相変わらず動いていなかった。こっちを見ているだけだ。嘘をついている顔でもないし、ふざけている顔でもない。そもそも顔にあんまり何も出ていない。
「……ないって、どういう」
「覚えてない」
「え」
「何も覚えてない。ここに来る前のこと」
(記憶喪失)
言葉としては知っていた。ドラマとかで見たことがある。実物を見たのは初めてだった。
(記憶喪失。記憶喪失か)
(そんなことある?)
(……いや、あるか)
元の世界で見たことがないのに、ここで遭遇するのか。
「へえ」
それ以上、言葉が出てこなかった。記憶を失くすということは、何かやばいことがあったのかもしれない。事故にあったとか、虐待とか何か散々な目に遭ったとか。
「なんにもないの?覚えてること」
口に出てしまっていた。
「……アパート」
「アパート?」
「狭い部屋。ドアがひとつ。台所が同じ部屋にある。窓の外に手すりがあって、その向こうに建物」
「うん」
「それだけ」
「それだけ?」
「それだけ」
それ以上は掘れなかった。男はまた黙った。
記憶喪失なんて想像が追いつかない。自分の名前すら覚えてないなんて、どういう感覚なんだろうか。なぜか覚えているのはアパートだけ。この人が住んでいたアパートだろうか。そこまで考えて、ふと気がついた。
ここに来る前のことを覚えてない。ここって、この部屋のことだろうか。この世界のことだろうか。
「あの」
男は視線をこちらに向けた。
「ここに来る前の記憶ないって、この部屋に来る前の記憶ないってこと?ですか」
少し間があって、男は語りだした。何かの死骸の山で目覚めたこと、あの虫っぽい化け物に襲われかけたこと、それを目玉スーツが食べたこと、そのまま拾われてここに来たこと。
(……食べたんだ、あれ)
信子は壁の上を見ようとしてやめた。
(あれだあれ。人間がイナゴ食べる的な。なんとかの踊り食い的なあれよ。だってそういう世界じゃんここ。何を今さら……やめよ考えるの)
(っていうか……え?この人、ここに来てからの記憶、ほぼこの部屋での記憶ってこと?)
「あの、もしかして私以外の人間見たことない?」
「ここに来てからは……その前は分からん」
(そんなとある??)
この世界に来てから、漫画みたいなことしか経験していない。
(じゃあこの人にとって、私がはじめまして人間ってこと?)
人間誰しも、職場や学校で一人くらいは苦手な人とか、何を考えているのか分からないような人と出会うものだろう。この人はこれまで出会った誰とも違う。
何を話せばいいのか分からず、男から視線をそらした。そらした先に床の文字があった。
(……そういえばこの人、文字は覚えてるのかな)
あらためて床の文字を見た。最初はこの人が書いたのかとも思ったけど、たぶん違う。だとすると、書いたのは……。振り返って壁の向こうを見上げた。目玉は相変わらずこちらを見ていた。
(うわ)
信子は男に向き直り、聞いてみた。
「あの、これなに」
男は信子の指がさす方を見て言った。
「分からん」
(え)
「文字だと思ったけど、読めなかった」
読めなかった。読もうとして、読めなかったってことだろうか。
(あ、こっちが文字っていう前に文字って言ったよね?分かるけど読めないってこと?)
(……どういう状態?)
(そんなことある??)
「これ書いたのって……」
男は視線を上げて、信子の後ろの上の方を指さした。
(やっぱそうなんだ)
テーブルで少し隠れているが、英語が分からない信子にも読めた。
Your name?
そう書かれていた。
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第402日
個体Bが発語した。
これに対し、個体Aが初めて発語した。
個体Bの名前はノブコ。自称である。
以後、この記録では個体Bをそのように表記する。
両個体は運よく同じ言語を用いる。日本語である。会話は成立している。内容も理解できる。
私が床面に記した問いは、人間界で最も汎用性が高いとされる言語(英語)を選択した。
彼らが日本語話者であったとすれば、タロウが応答しなかった理由の一つは、言語の不一致であった可能性もある。
いずれにせよ、ノブコは文字を判読した。
本日はノブコとの接触により、複数の事実が判明した。




