第6話 名前
Your name?
床に書かれたその文字をしばらく見ていた。
(……待って)
(これ、名前聞いたんだよね?)
(この人の)
犬や猫を飼うとき、名前を聞く人間はいない。向こうが名乗るわけがないからだ。だから、飼う側が勝手に決める。ポチとかタマとか。
でも、こいつは聞いた。
(聞く必要ある?)
ペットに名前を聞く人間はいない。でも人間同士なら聞く。
(……どういうつもりなの、それ)
なんとなく気味が悪かった。同時に妙な安心もあった。
(……飼い主ガチャ、外れてはいないかも?)
少なくとも、コミュニケーションをとろうとしていたらしい。虐待してきそうな気配もない。
(最悪ではない……かもしれない)
信子は男のほうを見た。
男は相変わらずソファに座って、こっちを見ていた。表情が何も動かない。
最初に見たときはとにかく怖かった。何を考えているのか分からない。無表情で、ただじっとこっちを見てくる人間。ホラーだと思った。
でもよく考えたら。
(……この人も、びっくりしてたのかも)
見知らぬ女がいきなり運ばれてきて、目の前に降ろされたのだ。記憶喪失で、この部屋にずっと一人でいたら。
(そりゃ固まるよな)
(表情が動かないんじゃなくて、動かし方忘れてるだけかもしれないし)
そう思うと、さっきまでの怖さが少し和らいだ。
「あの」
信子はもう一度男のほうを向いた。
「名前、ないんですよね」
「ない」
「不便じゃないですか? それ」
「不便か」
「不便でしょ だって私、これから何て呼べばいいんですか」
男は少し考えるように黙った。
「考えたことなかった」
「え、なんで」
「呼ぶ相手がいなかった」
(あ)
信子は少し黙った。呼ぶ相手がいなかった。
急にちょっと嫌な気持ちになった。
「じゃあ、つける」
「つける?」
「名前。ないと困るし、私が」
「そうか」
男は断らなかった。賛成もしなかった。ただ、そうかと言った。
信子は男を見た。
太ってないが細身というほどでもない。顔は悪くはないが特に何とも言えない。表情があまり動かないせいで、余計にそう見えるのかもしれない。
(うーん)
(何がいいかな)
(何でもいいんだけど)
何でもいいと思った瞬間、口が先に動いた。
「太郎」
「太郎」
「うん。太郎」
男はちょっとだけ黙った。
「なんで太郎」
「なんとなく」
「そうか」
「聞かないの、そこ」
「聞いたほうがいいのか」
「……いや、いい」
信子は諦めた。
「じゃあ太郎ね」
「うん」
「太郎」
「なんだ」
「呼んだだけ」
「そうか」
太郎は視線を落とした。
信子は立ったまま、しばらく太郎を見ていたがその場に座って壁にもたれた。
どれくらい経ったか分からない。男は相変わらずソファに座って動かなかった。
(……石膏かよ)
(まぁ、私も動いてないけど)
なんとなく上を見ると、いつの間にか目玉がいなくなっていた。
(あれ?)
そのまま壁の上を眺めていた。
(……そういえばお腹空いた)
色んな意味で疲れた。通用しなかった死んだふりほどではないが、少し力が抜けた気がした。
部屋が陰って上を見ると、目玉が戻って来ていた。覗くだけでなく手を出している。その手が伸びてきた。
(うわ)
見ると、指で何かをつまんでいる。ゆっくりゆっくりテーブルに降りていった。つままれている物が置かれると、太郎がソファから降りてきて、テーブルの前に座った。
(う、動いた)
太郎に気を取られていると、手が再び降りてきた。同じ物がテーブルに並んだ。お盆が二膳、それぞれに皿が一枚、お椀が一個、箸が一膳乗っていた。
(……飯!!)
信子はテーブルに近づいてあらためてそれを見た。たぶん焼いたようなもの、煮たようなもの、緑の何か、味噌汁と言いたげな汁。
(これでご飯あったら定食じゃん)
信子は床のあの文字を見た。それから壁の上を見た。
(こいつ、ほんとになんなん……)
テーブルに向き直ると太郎がこちらを見ていた。目が合って、すぐに視線を食事に向けると箸を手に取った。
「……食べるの、それ」
「食べる」
「大丈夫なの、それ」
「今のところ大丈夫」
太郎は食べ始めた。信子はしばらく眺めてから、箸を手に取った。
「いただきます」
口から出た言葉に自分でも驚いた。
(……こっち来てから初めて言ったな)
---
第402日
個体Bは自らを「ノブコ」と称し、個体Aに「タロウ」と命名した。
以後、本記録でも両名をそのように表記する。
食事を二名分、供与。
ノブコは摂食前に「いただきます」と発声した。タロウは依然としてしていない。




