第4話 目玉
正直に言うとここは悪くない。そう思っている。
檻は狭い。横になって手を伸ばすと、伸ばしきれずに壁に当たるし、立つと頭がつかえる。でも床には布が敷いてあって、これがけっこうふかふかしている。奥に水の入った器があって、なくなると誰かが足しにくる。飯は日に二回。何でできているかは考えないことにしている。
襲われない。寒くない。痛くない。この三つが揃っている時点で、合格だった。
外にいた頃はそうではなかった。
思い出したくないので思い出さないが、たまに勝手に思い出す。走っていたこと、隠れていたこと、水を探していたこと、その間ずっと、身体のどこかが痛かったこと。あの頃、寝るというのは気を失うことだった。
だから、ここは気に入っている。気に入っていると認めるのは、なんとなく癪だったが、認めないほうが馬鹿らしい。
ただし、条件がある。
買われないこと。
客は四種類いる。
勝手に分類している。
一番多いのが通り過ぎるやつ。こっちなんか見ない。何しに来たのか知らないが、たぶん本命は他の生き物なのだろう。無害。
次が見るけど買わないやつ。檻の前で足を止めて、しばらく眺めて、それから連れの化け物と何か鳴き交わして、笑っているような雰囲気で去っていく。たぶん珍しがってるだけだ。三十秒。無害。
三つ目が檻を触り始めるやつ。これはやばい。明らかに興味を持ってる。散々覗き込んで何か鳴いたりする。檻の奥に貼りついて、ひたすらやり過ごす。
そして四つ目。店員を呼ぶやつ。
これが最悪だ。呼ばれた店員が来て、二人で長いこと鳴き交わす。すごく長い。何を言っているのかは分からない。分からないが、雰囲気で分かることもある。
途中で客が上を向く。檻の少し上のほうを。それから鳴き方が変わって、しばらくして、客は帰る。毎回帰る。
あるとき、客が上を向いてから帰る理由に気づいた。
檻の上に札がある。自分の檻の札は見えないが、他の檻にはすべて付いている。この世界の文字で何か書いてある。読めないがあれが何かは分かった。値札だ。
つまり、こういうことになる。
客が来る。店員を呼ぶ。値段を聞く。そして帰る。
(……もしかして私、高い?)
思いついたとき、檻の中で拳を握った。
(高い。高いんだ。ありがとう。ありがとう値札)
考えてみれば筋は通っていた。この店に人間は私ひとりしかいない。他の檻には毛の生えたやつとか、足がいっぱいあるやつとか、そういうのが何十匹もいるのに、人間だけが一体。この世界に来てから、自分以外の人間の姿を一度も見たことがない。
珍しいのだ。珍しいものは高い。高いから売れない。売れないからここにいられる。
(最高じゃん)
その日はやたら機嫌がよかった。
ひとつ、技を持っている。
きっかけは偶然だった。体調が悪かった日があった。腹が痛くて、一日中檻の隅で丸まっていた。その日手を伸ばすやつが来た。
動けなかった。動く気力がなかった。そいつは手を伸ばしてきて止めた。しばらくこっちを見て、それから帰った。
(……あれ)
いつもより早かった。
次の日、客が来たとき試してみた。丸まって目を半分閉じて、息を殺していた。
早く帰った。
そのあとも何度か試して確信した。
ぐったりしていると早く帰る。
理屈は分かる。売り物が弱っていたら、誰だって買わない。動物を買うとき、元気なやつを選ぶのは当たり前だ。人間だってそうする。
(じゃあ弱ってればいいじゃん)
以来、客が来るたびに死んだふりをするようになった。
完成度は上がった。最初はただ丸まるだけだったが、今では目と口は半開きで、目の焦点をずらすようにしている。呼吸もなるべく目立たないように、手はだらんとさせる。
もちろん飯はちゃんと食べる。店員が来たときは普通にしている。客のときだけ。
高くてしかも弱ってる。
(無敵じゃん)
自分の戦略にはそこそこ自信を持っていた。
その日は朝から少し変だった。
店員がやたら檻の前に来る。水を替える。布を直す。顔を覗き込んでくる。
(何。なんなの)
いつもは餌のときしか来ないくせに、その日は何度も来た。そのたびに何か鳴いていた。なんとなく、居心地が悪かった。
昼を過ぎたころ、店の入口のほうで音がした。
そいつが入ってきた瞬間、異様だった。
店員もそうだが、客たちは大抵人間のシルエットをして……しているが、フォルムが人間のそれじゃない。どこかちょっと熊っぽかったり、虫っぽかったり、手足がおかしかたったりする。こいつは違った。
(人型じゃん)
しかもなぜかスーツを着ていた。青紫の地に細いくすんだ金ストライプのダブルスーツだ。頭部はつるつるで下の方にドレッドっぽい太い管が付いている。顔の半分以上を占めるデカい目玉がひとつ、白目はなく赤紫で赤黒い瞳孔がある。それがアクリルっぽいドームで覆われていて、鼻はない。その下に口と顎がある。
口と顎は人間だった。
(何それ。何それ気持ち悪い。いや気持ち悪くない。いや気持ち悪い)
檻の奥に下がった。
そいつは店に入ってすぐ、店員と短く鳴き交わして、まっすぐこっちに来た。
(え)
途中に何十も檻がある。毛の生えたやつも、足がいっぱいあるやつも、丸っこいのもいる。ぜんぶ素通りだった。
(いやいやいやいや)
(他にもいっぱいいるじゃん! そっち見なよ! そっち!)
止まった。目の前だった。
目玉が下りてきた。
顔が近づいてくる。近い。近すぎる。赤黒い瞳孔に、自分の姿が映っていた。瞳孔が少しだけ動いた。
動けなかった。
(落ち着け。落ち着け。いつものやつだ。三番目のやつだ。手を伸ばしてくるパターン)
(死んだふり。死んだふりすればいい)
(……いや待って)
そこで、一瞬止まった。
(効くのかなこれ。効く? こいつに?)
(なんかまっすぐこっち来たんだけど)
(効かなかったらどうすんの)
目玉はまだそこにあった。動かない。
(……いや、やる)
(他に何ができんの)
力を抜いた。
後頭部が壁に当たったが気にしなかった。目は開けたまま、焦点をどこにも合わせない。口を少し開けて、息はなるべくゆっくり、手はだらんと下ろす。顎を伝うよだれを拭くのは我慢した。
渾身の演技をキメてやった。
うっすら視界の隅に映る目玉が少し引いた。
(……効いた?)
そいつが何か鳴いた。短く。少し離れたところで、店員が返事をした。慌てたような足音がして、走ってくる。
そっと視線だけ檻の向こうに向けた。二人が鳴き交わし始めた。いつもより長い。客が何か言う。店員が返す。また客が言う。今度は少し高い。店員が少し早口になる。
(揉めてる?揉めてるよねこれ)
(何を揉めてんの。はよ帰れや)
客が檻を指した。
店員がしゃがんで覗き込んできた。それからまた立ち上がって、何やら説明してるようだ。
(説明長っ。何をそんなに説明することあんの)
客が何か短く鳴いた。店員が黙った。少し間があって店員が何か言った。今度は短かった。
檻が揺れた。
(……え?)
半開きの目の端で檻の向こうの景色が動いた。
(え)
(え、ちょっと待って)
(待って待って待って待って)
檻が持ち上げられていた。
(うそでしょ)
(うそでしょおおおおお)
思わず顔を上げた。目玉が覗き込んできた。そいつの口角がほんの少し上がった気がした。
久しぶりの外だった。
空がピンクだ。
檻から見ていた。何ヶ月ぶりだろう。あの色を最後に見たのは、まだ外を走り回っていたころだ。あの頃はこの色が嫌いだった。
今も嫌いだけど。いや、絵の色なら綺麗なんだけどな。
抵抗する気は起きなかった。檻から出られる気がしないし、出てどうするんだ。檻を手にぶら下げているんだろう。下を見ると馬鹿でかい革靴とスーツの裾が歩いている。体感的に落ちたら死にそうだ。
そもそも逃げた先はあの地獄だ。こいつが野蛮な飼い主でなく、ペットショップ程度には世話してくれることを祈ろう。
しばらく檻の中でおとなしくしていると、建物が見えた。でかい。こいつのサイズに合わせた建物なのだから当然か。
中に入ると薄暗かったがすぐに灯りがついた。
部屋の中はシンプルだった。グレージュ系の落ち着いた壁に、黒い家具が置かれている。スーツからは想像できないモダンな部屋だ。というか、まるで人間の部屋のようだ。
扉を開けて隣の部屋に入ると、壁が見えた。部屋自体の壁ではなく、変な高さの壁があった。
ごとんっと音がして揺れが収まった。どこかに置かれたらしい。目玉が覗き込んできた。短く一回鳴くと檻の扉が開いて、手が入ってきた。
(うわ)
やたら長くて鋭い爪以外は人間のそれだった。ゆっくりゆっくり迫ってくる。そのまま包まれて、ゆっくりゆっくり檻から出された。持ち上げられて、さっきの壁のほうに運ばれた。
壁の上まで来ると中に床が見えた。白い壁で腰から下だけ色が違っている。ソファが置いてあり、扉が並んでいる。
(……は?)
降ろされてから、しばらく動けなかった。
フローリングみたいな床、白い壁、扉、ローテーブル、ソファ。
(家じゃん)
(え、待って。家じゃん、これ)
見上げると壁の向こうに目玉があった。こっちを見ている。
(なにこいつ)
扉がふたつ。片方は便所だった。もう片方を開けると風呂だった。
……風呂。風呂だ。なんとなく、つまみをひねってみるとお湯が出た。
部屋を見渡すと床に変な傷があった。文字だと分かったとき、声が漏れていた。
「何これ」
しゃがんで、指でなぞってみた。うっすら溝になっていた。気味が悪いし、誰が書いたのか気になったが、今はそれどころではない。
ソファに男が座っていた。ソファに普通に座って、こっちを見ていた。
人間だった。
目が合っても、特に何もなかった。驚いてもいないし、喜んでもいない。ただ、こっちを見ている。
その場に座ったまま、動かなかった。
(……)
(……どうしよ)
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第402日。
個体B。予定どおり購入。
先般依頼していたとおり、入荷の連絡を受け、当日中に現地へ向かった。当該施設における人間の在庫は当個体のみ。
到着時、個体は著しく活動性を欠いていた。店員によれば、来客時に限って生じる現象であり、摂食・排泄ともに異常は認められないとのこと。
事前の説明と状態が異なるため、価格を減額させた。
性別は個体Aと異なる。
搬送中、個体は抵抗しなかった。衰弱によるものか、判断によるものかは不明。
室内に降ろした時点で、個体は自ら歩行し、設備を確認した。
活動性に問題なし。




