第2話 飼われる
目が覚めたとき、灯りはついていた。
男は身体を起こした。長椅子に座ったまま眠っていたので、首が痛かった。首を回すと音がした。
しばらく座っていた。起きたところで、することがなかった。
立ち上がって部屋の中を歩いてみた。
壁は触ると硬く、少し冷たかった。腰より下だけ色が違っているのは、板が貼ってあるからだった。継ぎ目に指を入れてみたが、動かなかった。
壁のひとつに四角い出っ張りがあった。
白くて真ん中に細長い突起がついている。何なのかは、見た瞬間に分かった。
押すと音がした。かちり、とはっきりした音だった。
何も起きない。
男はもう一度押した。同じ音がした。それだけだった。上にある大きな灯りは、ついたままだった。
隣の壁に扉がふたつ並んでいた。
右の扉を開けると中は狭かった。白い椅子のようなものがあって、座る部分に穴が開いている。
男はそれが何なのかを知っていた。
知っていることが、少しおかしかった。自分の名前は出てこないのに、こういうものの名前と使い方だけは、見た瞬間に出てくる。順番が逆な気がしたが、考えても仕方ないと思った。
用を足した。
隣の扉も開けてみた。
こちらは板張りではなかった。床も壁も硬いもので覆われていて、四角い窪みが床に沈んでいる。壁から金属の管が出ていて、先が丸く広がっている。
壁にある突起をひねった。上から水が落ちて、手を伸ばすと温かかった。
やることがなくなり、長椅子に戻った。
上を見ると壁は途中で終わっている。もっと高いところに天井があって、灯りがひとつ見える。
なんとなく眺めていると灯りが暗くなった。
あの赤黒い目玉がこちらを見ている。
上から、何かが下りてきた。
板だった。四角くて、平らで、その端を、指が二本つまんでいる。それが、ゆっくりゆっくりと下りてくる。まっすぐに。
男は机の上に置かれた板を見た。上に皿が乗っている。
白い皿だった。その上に何かが盛ってあった。たぶん、焼いたものと、煮たものと、緑のものがそれぞれ場所を分けて置かれている。湯気が出ていた。
その横に椀があった。中に汁が入っている。皿の手前に箸が揃えて置かれていた。
男はしばらく動かなかった。
それから、長椅子を下りて、机の前に座った。箸を取った。持ち方は、考えなくても指が知っていた。
温かかった。何なのかは分からない。分からないが味はついていた。塩の味と、それから何か甘いものの味がした。緑のものは苦かったが、食べられないほどではなかった。
汁を飲んだ。
全部食べ終えるまで、男は一度も箸を止めなかった。食べ終わって箸を置いてから、初めて上を見た。
目玉がこちらを見ていた。
ずっとそこにあったのだと分かった。食べているあいだ、ずっと。
男は皿を見た。それから、また上を見た。
しばらくして音が鳴った。短く、二回。
指が下りてきて、板を持ち上げていった。皿も一緒に上がっていった。
目玉の影がなくなると部屋は明るくなった。
男は長椅子に戻った。腹はいっぱいだった。
それから、しばらく同じことが続いた。
食事のあとしばらくすると、壁の向こうの灯りが消えた。暗いあいだは眠った。それが何回続いたのかは、数えていないので分からない。
食事は日に三回だった。中身は毎回違った。硬いものが続いたあとには柔らかいものが来たし、味の濃いものが続いたあとには薄いものが来た。汁の温度はいつも同じだった。
男はそれを全部食べた。
部屋の温度も、いつも同じだった。暑いと思ったことも、寒いと思ったこともなかった。眠るときには灯りが暗くなり、目が覚めるころには明るくなっていた。
寝具が上から下りてきた。長椅子の横に置かれた。男はそれを使わなかった。理由は特になかった。長椅子で眠れているのに、わざわざ移動する必要を感じなかっただけだ。
寝具はそのまま、床に置かれていた。片付けられなかった。
あるとき、指が下りてきて男を持ち上げた。
男は何もしなかった。
運ばれた先に平らな台があった。乗せられた。台の表面は冷たく、つるつるしていた。
指が離れると、男はそこに立っていた。
目の前に目玉があった。
近かった。これまでで一番近かった。赤黒い表面に、男の姿が小さく映っていた。中心のもっと濃い部分が、少しだけ動いた。
男を見ている。
その下に口がある。人間の口だ。
指が伸びてきた。爪が鋭い。それが男の腕に触れた。押した。離した。もう一方の腕も同じようにした。
肩に触れた。首に触れた。背中に手を当てて、しばらくそのままにした。
男は動かなかった。
痛くはなかった。指の力はいつも同じで、必要な分だけ押して、必要な分だけ離れた。
何をされているのかは分からなかった。分からないが、悪いことをされている感じはしなかった。悪いことをされている感じがしないから何もしない、というのが正しい判断なのかどうかも、男には分からなかった。
分からないので、立っていた。
やがて、音が鳴った。三回。
それから、指が上がった。
男の頭のほうへ、来た。
男は、避けた。
自分でも驚いた。
考えて避けたのではなかった。指が近づいてきて、気がついたら首を横に倒していた。
指が止まった。
男の頭から、少し離れたところで、止まっていた。爪の先が灯りを反射している。
なぜ避けたのか、男には分からなかった。
嫌だったのかもしれない。だが、腕を触られたときは嫌ではなかった。背中も嫌ではなかった。頭だけが嫌な理由は思いつかなかった。
思いつかないまま、しばらく見ていた。
指は、そのまま引いた。持ち上げられて、部屋に戻された。床に足がつくと、上から音が鳴った。長く、一回。
男は長椅子に座った。
さっきのことを少し考えた。
考えたが答えは出なかった。答えが出ないものは仕方がないので、考えるのを諦めた。
その日の、次の食事が下りてきた。
いつもより、少しだけ量が多かった。
男は全部食べた。
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第17日。
個体A。
全身の触診を実施。骨格に異常なし。筋量の減少はおおむね回復。栄養状態は良好と判断する。
頭部への接触について。個体は明確な回避行動を示した。
四肢および体幹への接触時には反応なし。頭部のみ。
疼痛、外傷、いずれも該当箇所に認められず。
過去の経験によるものか、種としての反射か、判別できない。個体に確認する手段がない。
以後、頭部には触れない。




