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まぁ、ここ人間界じゃないんだし。  作者: ろりヴァン先生


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第1話 拾われる

 匂いで目が覚めた。


 肉と、鉄と、それを長いこと放っておいたときの匂いだった。息を吸った時点で失敗だと分かったが、もう吸ってしまっていた。


 起き上がろうとして、手をついた場所が柔らかかった。


 それが何かを確認するのに、少し時間がかかった。目は開いている。見えてもいる。ただ、見えているものと、それが何であるかが、うまくつながらなかった。


 やがてつながった。


 男は四つん這いのまま、吐いた。胃には何も入っていなかったので、水のようなものだけが出た。それも尽きると、あとは音だけが出た。


 しばらくそうしていた。


 顔を上げると、同じものが見渡す限り続いていた。山になっている。何の山かは分かるが、何の死骸なのかは分からない。腕のようなものがある。足のようなものもある。数が合っていない。


 その上に、空があった。


 男はしばらくそれを見ていた。


 ピンクだった。


 雲はひとつもなかった。薄めていない絵の具をそのまま塗ったような、目に痛い、鮮やかなピンクが、端から端まで続いていた。太陽は見当たらなかった。それなのに、あたりは明るかった。


 どこがおかしいのか、すぐには分からなかった。ピンクなのもおかしいが、それだけならまだ何かの見間違いかもしれない。


 空の下に、この山がある。


 それだけだった。黒ずんだ山と、その上の花みたいな色が、何の説明もなく並んでいる。どちらも間違っているはずなのに、どちらも間違っていない顔をしていた。


 男は目を逸らした。


 立ち上がろうとして、膝が笑った。


 自分の手を見た。汚れているが、傷はほとんどない。服も着ている。どこかで見たことのある服だと思ったが、どこで見たのかは思い出せなかった。


 ――どこで。


 そこで、初めて気づいた。


 思い出せないのは服のことだけではなかった。


 自分がどうやってここに来たのか、思い出せない。ここに来る前にどこにいたのか、思い出せない。誰といたのか、何をしていたのか、いくつなのか。


 名前も。


(俺は)


 そこで止まった。続きがなかった。


 男はもう一度自分の手を見た。それから、しばらく何も考えなかった。考えないというより、考えるための材料がなかった。


 分かっていることを数えてみた。


 言葉は分かる。今こうして頭の中で使っている言葉が何なのかも分かる。日本語だ。


 それから、部屋のようなものを覚えている。狭い。ドアがひとつ。台所が同じ部屋にある。窓の外に手すりがあって、その向こうに別の建物がある。アパートだ。アパートという言葉も出てくる。


 誰の部屋なのかは分からない。


 それだけだった。ほかには何もなかった。


 普通ならここで、何かしら思うことがあるのかもしれない。恐ろしいとか、悲しいとか。男はそれを待ってみたが、何も来なかった。来たのは、喉が渇いた、という感覚だけだった。


(水……)


 男は歩き出した。


 どちらへ行けばいいのかは分からなかったので、山の低い方へ向かった。


 足元は不安定だった。踏むたびに沈む。沈んだ先で何かが指に触れた。男は足を抜いて、また進んだ。


 背後で音がした。


 ザチュザチュザチュザチュッ。

何か柔らかいものを抉るような音が、異様な速さで繰り返される。


 男は振り返った。


 黒い塊がこちらへ来ていた。


 大きい。自分の腰くらいまである何か。丸い節がいくつか繋がっていて、ひとつひとつから、太い脚が生えている。脚は下へ行くほど細く、先端が鋭く尖っていて、地面を突き刺すようにして進んでいた。


 いちばん前の節に球がついていた。表面は濡れたように赤黒く、小さな粒がいくつも浮いている。


 たぶん、目だ。


 二つではなかった。大きいものが二つ、その下に小さいものが二つ、さらにその横にもあった。全部が同じ色をしていた。暗い、内側から濡れているような赤。


 黒い塊が止まった。すぐそこだった。手を伸ばせば届く。


 目の下の方が開いた。中から、薄い桃色のものが溢れ出した。


 太くて、短くて、先が丸い。それが放射状に、びっしりと生えていた。数えられる本数ではなかった。全部が別々に動いていた。何かを探すように、外側へ、外側へと伸びていく。


 そこで初めて、身体が動かないことに気づいた。


 心臓が速くなっているのは分かる。息が浅いのも分かる。手が震えているのも分かる。それらが自分の身体で起きていることも、ちゃんと分かる。


 なのに、頭のほうはやけに静かだった。


(これ、たぶん死ぬな)


 そう思ったが、その思いにも実感がなかった。誰か他人の話を聞いているようだった。


 桃色が伸びた。


 その瞬間、上から影が落ちた。


 黒い棒が二本。


 まっすぐに下りてきて、黒い塊の胴を、両側から挟んだ。


 節がひしゃげた。脚が全部いっぺんに跳ねて、桃色の束が滅茶苦茶に暴れた。硬いものが軋む音がして、それでも棒は緩まなかった。


 持ち上がった。


 脚が空を掻いている。桃色がまだ激しく動いている。それを挟んでいる二本の棒は、先が細く、後ろへいくほど太く、断面がわずかに角張っていて、深い色に艶があった。


 男はそれが何かを知っていた。


 自分の名前も、顔も、昨日のことも思い出せないのに、それだけは一瞬で分かった。


 箸だ。


 黒い塊が上へ運ばれていった。男の首はそれを追って、後ろへ倒れていった。


 追っていった先に顔があった。


 顔の真ん中あたりに、球がひとつ埋まっている。赤黒い。中心だけがもっと濃い。その球が、顔の半分ほどを占めていた。


 鼻はなかった。


 なのに、その下に口があった。


 口と、顎があった。


 そこだけが、人間のものだった。


 その口が開いた。


 箸が入った。


 閉じた。


 音がした。何かが割れる音と、潰れる音と、それから水気のある音が同時に来た。男はそれを最後まで聞いた。耳を塞ぐことも、目を閉じることもしなかった。しなかったというより、思いつかなかった。


 やがて、音が止んだ。


 箸を持ったほうの腕が、下がった。もう一方の手が、上着の内側から白いものを出して、口元を拭った。


 それから、その顔が、下を向いた。


 球が、男を見た。


 男は見返した。


 背の高いそれは、細身の身体に、縦縞の入ったスーツを着ていた。上着の合わせが深く、ボタンが二列に並んでいる。しわひとつなかった。


 口が動いた。


 音が出た。


 高くて、細くて、途中で震える音だった。虫が鳴くのに似ていたが、虫よりも規則が正しかった。機械が鳴っているようでもあった。二回、鳴った。それから一回。


 男は何も言わなかった。言うことがなかった。


 また鳴った。今度は長かった。


 それの口の端が、少しだけ動いた。上に。


 手が下りてきた。


 指があった。五本あった。爪だけが鋭かったが、それ以外は人間の手と同じ作りをしていた。それがゆっくり下りてきて、男の身体を横から包んだ。


 持ち上げられた。


 抵抗しようとは思わなかった。思わなかったというより、思う前に地面が遠ざかっていた。指の内側は硬く、そして温かかった。温かいということに、男は少し驚いた。


 視界が動いた。死骸の山が下になり、遠くなり、それから横に流れていった。風が来た。今度は匂いのしない風だった。男は息を吸った。今度は失敗ではなかった。


 空が近かった。相変わらず、雲ひとつなかった。


 運ばれている。


 どこへ運ばれているのかは分からない。何のために運ばれているのかも分からない。食べるつもりなのかもしれない。さっきの黒いものと同じように。


(それなら、まあ、しょうがないか)


 男はそう思った。


 そう思ったことについて、あとで少し考えることになるのだが、このときはまだ何も考えなかった。


 途中で空が消えた。


 上を見た。屋根のようなものが被さっていた。それきり、ピンクは見えなくなった。


 やがて指が止まった。


 下に四角い穴があった。


 降ろされた。足の裏に、平らなものが当たった。


 男は下を見た。


 板だった。木の板が、まっすぐ、隙間なく並んでいる。継ぎ目に沿って、うっすらと艶がある。


 顔を上げた。


 壁があった。四方にあった。白い。腰の高さから下だけ色が違っていて、そこに細い縁が回っている。


 左手に扉がついていた。


 右手には四角い台があって、その上に金属の細い管が伸びていた。男はそれに近づいた。管の横に、小さな棒がついている。それをひねった。


 水が出た。


 男はしばらくそれを見ていた。それから手を出して、受けて、飲んだ。冷たかった。


 喉を通っていくのが分かった。渇いていたのだと、飲んでから分かった。


 水を止めた。止め方も、なぜか分かった。


 振り返ると、部屋の真ん中に、低い机があった。四角くて、木でできている。その向こうに、長い椅子のようなものが置いてあった。


 男はそこまで歩いていって、座った。


 沈んだ。


 驚いて立ち上がり、もう一度座った。また沈んだ。二度目は驚かなかった。


 背もたれに身体を預けた。


 顔が、上を向いた。


 部屋には、天井がなかった。


 四方の白い壁は、男の背丈の倍ほど上まで続いて、そこでふつりと終わっていた。見上げないと、上の端が見えない。


 その先に、何もない空間がしばらく続いて、ずっと高いところに、別の天井があった。


 板でも、白い壁でもなかった。何でできているのかは分からない。ただ、遠かった。そこに大きな灯りがひとつあって、部屋を照らしていた。


 男はそれを見上げていた。


 部屋の中に、部屋があるのだと分かるまでに、少しかかった。


 その灯りが暗くなった。


 球がひとつ、こちらを見ていた。


 男はそれを見返した。


 それだけだった。


 自分が今どこにいて、これから何になるのか、男には分からなかった。分からないので、長椅子に座ったまま、しばらくそうしていた。


 気がついたら、眠っていた。


---


第1日


個体A


捕獲地点、第三廃棄域。外傷、軽微。


嘔吐、一回。以後なし。


飲水を確認。摂食、未確認。


室温を二十二度に設定。個体は寝具ではなく長椅子を選択した。理由は不明。今後の観察による。


睡眠、六時間十二分。中途覚醒なし。


特記事項なし。

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