第二話 最強魔術師、聖女に出会う
帝国を出発してから、どれほどの時間が経っただろうか。
「……さすがに、ちょっと無理をしすぎたか」
生い茂る木々の隙間から差し込む木漏れ日を見上げながら、俺――アルスは、力なく息を吐き出した。
目指した先は、帝国の南隣に位置する『エルフィア聖王国』。
そこは帝国とは異なり、能力至上主義ではない、比較的穏やかな国だと聞いていた。しかし、国境を越えた先にある大森林は、想像以上に過酷だった。
道中で数回、凶暴な魔獣に遭遇した。
戦うこと自体は造作もない。指先一つで結界を張り、相手の攻撃を反射してやれば済む話だ。
ただ、問題は俺の「魔力」ではなく「体力」のほうだった。
ギルド『白銀の獅子』にいた頃は、毎日朝から晩までダンジョンに潜らされ、まともな食事も睡眠も与えられていなかった。
俺の魔法でパーティーメンバーの疲労は完全に消し去っていたが、自分自身の身体にかかる負担までは相殺しきれていなかったのだ。
蓄積していた長年の過労。それに加えて、ここ数日の深刻な食糧不足が牙を剥いたらしい。
空腹感と倦怠感が異常なほどに体を蝕んでいる。
一歩踏み出すのに鋼鉄の足枷をしているような重さを感じる。
「もう……限界、だ」
ついに限界を迎えた俺の足が、もつれるように地上の根っこに引っかかった。
どさりと、地面に倒れ込む。
土と草の匂いが鼻腔をくすぐる。指一本動かす重労働に感じられるほど、身体が鉛のように重い。
(ああ、まさかこんな森の中で行き倒れるなんてな……)
視界が急速に狭くなっていく。
同時に強烈な睡魔が襲ってきた。
眠い、どうしようもなく眠たい。
意識が深い闇へと沈み込もうとした、その時だった。
「――待ってください! 前方に強い魔力の残滓を感じます。馬車を止めてください!」
鈴の音を転がしたような、透き通った少女の声が聞こえた。続いて、馬のいななきと、複数の足音が近づいてくる気配がする。
「聖女様、危険です! 魔獣の罠かもしれません、お下がりください!」
「いいえ、これは魔獣の禍々しい気圧ではありません。それに……とても綺麗で、どこか悲しいほどに澄んだ魔力です」
カサカサと草をかき分ける音がして、誰かが俺のそばに駆け寄ってきた。
薄れゆく意識の中で、俺は目を開けた。
誰かがやって来る。もしかしたら助けてくれるかもしれない。
そして、誰かが目の前に現れる。
そこにいたのは、信じられないほど美しい少女だった。
光を浴びてきらめく、淡い金糸のような髪。
持ち主の心の清らかさを映したような、深いサファイアブルーの瞳。
純白の聖職衣をまとった彼女は、泥に汚れた俺の姿を見ると、痛ましそうに顔を歪めて迷わず膝をついた。
「しっかりしてください! ……ひどい衰弱です。すぐに手当てを!」
彼女が俺の胸元にそっと手をかざす。
次の瞬間、温かで心地よい光が俺の身体を包み込んだ。聖王国の高位術者が使うという『神聖治癒魔法』だろう。じわじわと体力が回復していくのを感じる。
「……あ、りがとう、ございます……」
辛うじてそれだけを紡ぎ出すと、安心したせいかまだ彼女は何かを言っていたが俺は今度こそ深い眠りへと落ちていった。
※※※
「――気が付きましたか?」
次に目を覚ました時、俺は柔らかい毛布の上に寝かされていた。
天井を見上げると、そこは頑丈な布で造られた移動用の大きな天幕テントの中のようだった。
「あ……」
身体を起こそうとすると、枕元から先ほどの少女が顔を覗かせた。
近くで見ると、その美しさはさらに際立っていた。整った容姿もさることながら、彼女が醸し出す聖らかな雰囲気に、思わず気後れしてしまう。
「無理に動いてはダメですよ。数日間、まともな食事をとっていなかったのでしょう? 治癒魔法で体力を戻したとはいえ、まだ胃が驚いてしまいますから」
彼女は困ったように微笑むと、木製の器に入った温かいスープを差し出してくれた。
湯気と一緒に、お肉と野菜の優しい香りが漂ってくる。
「ありがとうございます。……あの、あなたは?」
「申し遅れましたね。私はエルナ・フォン・アスタリア。この先の聖王国で『聖女』の役目を授かっている者です」
――聖女。
その言葉に、俺は思わず居住まいを正そうとした。一国の象徴とも言える最高位の要人が、なぜこんな国境付近の森にいるのだろうか。
「そんなに畏まらないでください。今回は、国境付近の結界の定期調査のために騎士団と共に出てきていたんです。まさか、そこで貴方のような方に出会うとは思いませんでしたが」
エルナはサファイアの瞳を細め、じっと俺を見つめてきた。その視線には、警戒ではなく、純粋な驚きと深い興味が混ざっているように見えた。
「あのような深い森の奥で、どうして倒れていたのですか? それに……貴方の着ている衣服にある紋章、帝国の高ランクギルドのものでしょう?」
「……ああ、これですか」
俺は自分の胸元にある『白銀の獅子』の刺繍を見て苦笑した。
そして、数日前の出来事を思い出しながら口を開く。
「俺はアルスといいます。そのギルドには所属していましたが……数日前、『お前のような無能は役に立たない』とリーダーに言われまして。クビになって放り出されたんです」
「えっ……?」
エルナが驚いたように小さく息を呑んだ。
その表情は、まるで「あり得ない怪奇現象」を目の当たりにしたかのように強張っている。
「無能……ですか? 貴方が?」
「はい。俺の魔法は地味ですから。派手に炎を爆発させるわけでも、雷を落とせるわけでもない。後ろの方でコソコソと結界を張るくらいしかできないので、お荷物だと思われていたみたいです。だから、心機一転、こちらの国で新しく仕事を探そうと思って歩いていたのですが、途中で力尽きてしまって」
俺が淡々と事実を説明すると、エルナはなぜか信じられないものを見るような目で俺を見つめ、それからぽつりと呟いた。
「帝国のトップギルドというのは……そんなにも恐ろしい場所なのですか? 貴方ほどの御方を『無能』と切り捨てるなんて……」
「え? いや、俺なんて本当に大したことないですよ? 実際、ただの後方支援ですし」
「ただの、後方支援……?」
エルナは呆然とした様子で俺の言葉を繰り返した。
彼女の目には、はっきりと見えていたのだ。
俺自身は隠しているつもりも、誇るつもりもまったくないようだが、彼の身体から溢れ出している魔力の密度が、常軌を逸していることに。
それこそ、この国に数人しかいない『国家最高魔術師』をも遥かに凌駕する、神の領域に近い純白の魔力。
倒れる直前、無意識に俺が展開していたであろう不可視の障壁は、周囲の凶暴なAランク魔獣たちを一切近づけさせないほどの絶対的な拒絶の力を放っていた。
(この人は、自分がどれほど規格外の存在か、本気で分かっていないんだわ……)
エルナは器を握る手に少し力を込め、真剣な眼差しでアルスを見つめた。
「アルスさん。もし行く当ても、これからの職も決まっていないのでしたら――私の専属護衛として、聖王国へ来ていただけませんか?」




