第十一話 最強魔術師、忘れる
「は……? い、一体どなた様、だと……?」
俺の言葉がカフェのテラス席に響いた瞬間、ガイウスの顔からニヤニヤとした笑みが完全に消え失せた。
ディランは目を見開き、ミリアは引きつった表情のまま硬直している。ボルドにいたっては、自分が侮辱されたことすらすぐには理解できないといった様子で、間の抜けた顔で口を開けていた。
彼らにしてみれば、自分たちはわざわざ国境を越えて「無能を救いに来てやった慈悲深い上司と仲間」のつもりだったのだろう。この場でアルスが泣いて喜び、床に這いつくばって感謝の言葉を述べる――そんな都合のいい妄想の絶頂にいたからこそ、俺の素朴な疑問は、彼らの脳髄を直接殴りつけるような衝撃となったらしかった。
「おい、アルス……! お前、何の冗談を言ってやがる! 俺たちを忘れただと!? 冗談にもほどがあるぞ!」
ディランが激昂し、テーブルを拳で強く叩いた。
ガシャァンと上品なティーカップが揺れ、中の紅茶が白のリネンに飛び散る。
その粗暴な振る舞いに、周囲の席にいた王国の貴族や市民たちが一斉に不快感に満ちた視線を向けたが、今のディランにはそれを気にする余裕などなかった。
「冗談、ですか? いえ、本当に困惑しているのですが……」
俺は本気で記憶の糸を手繰り寄せながら、眉をひそめた。
「確かに、以前どこかでお会いしたような気はするんです。でも、俺の記憶にある帝国の方々は、もっとこう……気高くて、最高級の防具に身を包んでいて、触れるだけで肌がピリピリするような強力な魔力を放っている『選ばれた天才たち』だったはずでして」
俺はディランのボロボロの革鎧と、ミリアのひび割れた杖、そしてガイウスの悪臭が漂う薄汚れたコートに視線を落とした。
「ですが、今の皆さんは……その、失礼ですが、今日食べるものにも困っているような、場違いな『浮浪者』の方にしか見えなくて。だから、同姓同名の別人と勘違いされているのではないかと思ったのです」
「っ……あ、アルス、アンタ……ッ!!」
ミリアが顔を真っ赤にし、屈辱のあまり小刻みに震え始めた。
俺としては、悪意や皮肉を言ったつもりは一ミリもなかった。本気で「俺を無能扱いしていたほど高いプライドを持ったエリートたちが、こんなに惨めな姿になっているはずがない」と、純粋に疑問を口にしただけだったのだ。
しかし、その悪意のない純粋な「観察眼」こそが、彼らの肥大化したプライドを最も残酷に、そして深く抉り取ることになった。
「ふざけるなよ、アルス! 誰が浮浪者だって?! あァ!?」
ガイウスが狂ったように叫び、俺の胸ぐらを掴もうと泥に汚れた手を伸ばしてきた。
「お前のようなゴミが、聖女の威光を借りて綺麗な服を着ているからと言って調子に乗るな! お前はただの後方支援だろうが! 俺たちが使ってやらなければ、ただの魔力が多いだけの木偶の坊なんだよ! さっさとそのふざけた態度を改めろ!」
掴みかかろうとするガイウスの手。
かつての俺なら、その大声と威圧感に縮み上がり、言われるがままに頭を下げていただろう。
だが、今の俺の心は静水のように凪いでいた。
彼らの放つ低い怒気も、汚れた手も、今の俺にとっては恐れるに足りない「ただの取るに足らないもの」でしかなかった。なぜなら、俺の後ろには、何よりも守るべき大切な人がいるからだ。
俺が動くよりも早く彼女は動いていた。
「――そこまでにしてください。それ以上、私の専属護衛に無礼な真似をするというのであれば、聖王国の法に則り、相応の処置をとらせていただきます」
凛とした、氷の刃のような冷徹な声が響き渡った。
それまで静かにタルトを口に運んでいたエルナ様が、ゆっくりと立ち上がったのだ。
そのサファイアブルーの瞳には、昼間の温和な光など微塵もなく、まるで極寒の地を思わせるような絶対的な威圧感が宿っていた。彼女の身体から放たれる神聖な魔力のプレッシャーが、カフェの空気そのものを重く変えていく。
「な、なんだお前は……! 引っ込んでいろ、これは身内の話し合いだ!」
ガイウスがエルナ様の正体を知りながらも、虚勢を張るように怒鳴り散らす。
しかし、エルナ様はフッと冷たい笑みを浮かべ、彼らを蔑むように見下ろした。
「身内、ですか? 滑稽な寝言を。アルスさんは我がエルフィア聖王国の最高勲章を授与された英雄であり、何より私の、私だけの専属騎士です。衣服を汚し、言葉遣いも知らぬ他国の不審者が、どの面を下げて彼に触れようとしているのですか?」
エルナ様のその一言で、周囲に控えていた私服姿の王宮騎士たちが、一斉にガイウスたちの周囲を取り囲んだ。彼らの手が腰の剣の柄へとかけられる。
「ひっ……!?」
ボルドが短い悲鳴を上げて一歩下がった。
ディランたちも、プロの騎士たちが放つ本物の殺気に触れ、自分たちがどれほど危険な場所に踏み込んでしまったのかを、ようやく理解し始めたようだった。
「アルスさん。本当に、この者たちに心当たりはありませんのね?」
エルナ様が俺に向かって、今度はいつもの優しい声で問いかけてくる。
「はい、エルナ様。やはり、俺の知っている人たちとは完全に別人です。俺の大切な思い出は、すべて今、あなたの隣にありますから」
俺がまっすぐにエルナ様を見つめてそう答えると、彼女は嬉しそうに頬を染め、それから再びガイウスたちへ向けて、底冷えするような視線を投げかけたのだった。




