第4話後編 さよならの後で
「やっ、やめて……」
「動くな。傷が付く」
ルティエがナイフでスパッツを裂くと、トラーンは青い顔をして身を縮めた。傍らで服を脱ぎながら、財務大臣がハキハキと言う。
「文部大臣とも一度交わってみたかったんです! ありがとうございますっ!」
「……今日は道具としてお前を呼んである。努々忘れるなよ」
「はいっ♡」
トラーンの――王都では珍しい髪の色をウットリと眺めながら、財務大臣は慣れた様子で床へ身を横たえる。今までそんな目で見られていたのか……という嫌悪感を覚えつつも、トラーンの身体は財務大臣の上へ歩いていく。
「嫌だ……怖いよぉっ」
抗おうとしても、手も、足も、そして視線ひとつさえ思うようにならない。思考だけが、取り残されていた。
――そこから先にあったのは、容赦ない解体作業だった。
かつての“友人”の命令で実行される、自らの尊厳を踏みにじる行為。痛みと屈辱――懇願の一つも受け入れられない絶望の中。自由を奪われた肉体に、逃げ場のない波が、何度も押し寄せては引き、また押し寄せた。「王国の叡智」と呼ばれた頭脳が、一生知ることのなかった――知らなくとも済んだはずの感覚によって、蝕まれていく。
どれだけの時間が過ぎたのか。涙と涎で顔を濡らしたトラーンには、もう、それを数える術もなかった。
目を閉じ、フゥフゥと息を吐いて火照る身体を静めようと無駄な足掻きをするトラーンに――豚の作った振動する魔法道具を手にしたルティエは、一転して優しげな声で言う。
「悪いことは言わないから豚になれ。私の魔法で服従させてやる。掛かった後は辛くないぞ。気持ち良いだけだ」
「あ……ぅ……」
――気持ち良いだけ。
その言葉が、ぐずぐずに溶けた思考へ、甘い毒のように染みていく。
普段のトラーンなら、即座に撥ね除けただろう。豚になるという意味も、その先で兄を縛る道具にされることも――誰よりも速く理解できる能力を、彼は持っていた。だが今、その頭脳は使い物にならない。絶え間なく襲う感覚と、生まれて初めて掛けられた精神魔法とが、彼の明晰さを芯から溶かしてしまっていた。
考えがまとまらない。一つの像を結ぶ前に、次の波が思考を攫っていく。
それでも、最後に一つだけ、辛うじて形を保った考えがあった。
――兄様なら、きっと解ける。
どんな魔法であろうと、あの兄が本気を出せば解けないはずがない。だったら、これは一時のことだ。今この苦しみから逃れて、生き延びて、助けてもらえばいい。
それは聡明な彼が壊れかけの頭で必死に手繰り寄せた、唯一の希望だった。
そして同時に、彼の人生で最悪の判断だった。
「ぶ、豚になりますっ! だから……っ」
「……分かった。“解除しろ”」
その合図で、財務大臣の魔法が解かれた。
許しを乞うように堕ちていく――その隙だらけの心へ、ルティエは静かに魔法を放った。赤い光が、トラーンの身体に纏わりついていく。
喜びに蕩けきった顔が――いつかの、図書館で「友達になりたい」と、控えめに笑ったあの顔と少しだけ重なった気がした。ほんの一瞬。けれど確かに。
「さよなら――トラーン」
それは、これから生まれる豚への言葉ではない。たった今、ここで失われる一人の人間への、餞だった。
舞い散った赤い光が、花のように宙を漂い、雪のように床へ積もって、絨毯のように広がっていく。
床の赤が、外から流れ込んだ冷風に攫われるように引いて――後に残ったのは幸せそうな顔で惚ける、新しい豚。
ルティエは静かに上下の睫毛を重ねた。
「えへ、えへへ……♡」
「トラーン。豚になりたてのところ悪いが、さっそく仕事だ」
「はぁい♡ お任せくださいっ♡」
◇◇◇
――妹に何度も止めろと叱られた“闘い”の中に、また身を置いている。
夕暮れ時の荒野は昼よりも数段殺風景に見え、そこに立つ人間の存在感を際立たせていた。
「楽しみすぎて早く来ちゃった! このこと、約束通り誰にも言ってないよ! ねっ? ちゃんと約束守れるでしょ、ボク!」
ピョンピョンと跳ねるイーノに対峙したノミュラスは、厳かな面持ちで言う。
「貴方は強い。生まれる時代を間違えたんじゃないかと思うほどに優れた魔導士だ。私ですら簡単には勝たせて貰えなかった」
「……っ、そんなこと言わないでよっ!」
イーノは動きを止め、怯えたような表情で声を震えさせた。
――初めて自分以上の魔導士に会えたと、全力をぶつけられる相手に出会えたと思ったのに。
まだまだ本気を出して貰っていない。まだまだ本気でやり返していない。
まさか負けを認めるんじゃないか。この楽しみが永久に失われるんじゃないか。
――怖い。寂しい。
イーノの心に、とうの昔に失くしたはずの感情の断片が蘇る。
「……」
買ったばかりのオモチャを取り上げられた子供の顔をするイーノのずっと向こう――ノミュラスは遠く、北東方向にある山々の白い影を眺めていた。
「私、闘わずに20分程度足止めするだけで良いって言われてるんですよ。普通に歩いて15分ですから。早い話が、貴方がここに来た時点で“勝ち”なんです」
「足止め……? 勝ち……? 何のこと?」
ノミュラスは質問には答えない。
「でも……それでは自分が許せなくて。もう魔導士も豚もやれなくなりそうで」
訝しむ魔法大臣を、北の大魔導士は見据える。
「だから、私も見せます。“とっておき”」
手のひらをヒラリと返したノミュラスの周りに雪の結晶が舞う。
「死なないでくださいね。主に嫌われてしまうので」
――『幻界吹雪』
厚みを増していく雲の下、徐々に濃くなっていく氷霧が、イーノの視界を奪った。
◇◇◇
「ハハ……ハハハ……これがノミュラス様の本気かぁ……」
――時間の感覚がない。
体感で5時間近く経過しても終わらない――魔法で生成された凍てつく雪風の中で、イーノはガタガタと震えながら体温を保つ最低限の魔法を発動し続けていた。
(全方向どこまで進んでも抜け出せない……水と風と音熱光の複合魔法だとばかり思っていたけれど、これは違う。第三の要素――時空。到達していたのか)
音も熱も――終わりすらも奪われた空間で、光は雪と氷の粒を照らすためだけに許されている。
――なんて残酷で美しい魔法だろう。
「悔しい……なぁ……」
自分が一生を賭しても届かないであろう境地に――イーノはすぐに氷に変わる涙を流して倒れた。
それは天才の名をほしいままにしてきた、イーノ・フェスレ初の敗北らしい敗北であった。
◇
遠くで主人の魔法が成立する気配を感じ、ノミュラスは自身の魔法を解除する。場違いな吹雪が去った荒れ地に、イーノが横たわっていた。
「……」
「凄いですね。意識がありますか」
瞼をほんの少しだけ開けたイーノは地べたから――血色の悪い唇を動かし、消え入りそうな声で話す。
「王都の傍で遭難するとは思わなかったよ……」
「死なないでいてくれてありがとうございます」
有史以来口にした人間が存在したか分からない――妙な言い回しの礼を述べたノミュラスに、イーノは呆れたように鼻から息を吐いた。
「こんなの使えるなら、前回だって勝てたじゃない」
「見せたくなかったんです。万に一つでも読み取られたら、貴方は悪用するじゃないですか」
自分が負ける可能性。主人の魔法が失敗する可能性。不可能を可能にされる可能性。
全てを考慮した上でなお残ったのは、人の身に余る魔法を生み出した者としての責任――倫理を欠いた人間に、糸口一つ与えてはならない、という一線だった。
「読み取れても真似できないよ……。完全に理解するのに50年単位で時間が足りない」
「それが分かる時点で見込みがあります」
「ですが……」と、ノミュラスは遠くを見る。
――結果、失ってはいけない物、失わせてはいけない物を失くしてしまった。
「貴方の言う通り、出し惜しみせず最初から全力を出すべきでした」
その視界の外、薄れゆく意識の中で仰向けになったイーノは、いくつかの星が浮かぶ夕暮れの空を見上げる。
「本当に悔しいな……何で二人共……ボクにも時間があれば……」
――二人“共”……。南の大魔導士とやらも、時空魔法の使い手なのだろうか。
ノミュラスは再び気を失ったイーノを抱えて、主の元へと移動し始めた。
◇◇◇
「……っ、何だよ、これ……」
倉庫のような場所で意識を取り戻したイーノは、まず自分の格好に絶句した。肌を殆ど隠さない、メイド服から実用性だけを削ぎ落としたような、男に着せるには悪趣味すぎる衣装。
「起きたか。この間は世話になったな」
言い返そうとして目に飛び込んできた光景に、イーノは一瞬で言葉を失う。
「兄さまぁ♡」
「トラーン!?」
理知的な弟が、自分と同じ衣装を着せられ、悦びの表情まで浮かべている。――精神魔法を疑う余地はなかった。
「これ似合うでしょぉ? 財務大臣がくれたんだぁ♡ 兄さまも似合ってるよ♡」
「そうだな。よく似合っているぞ、魔法大臣殿」
「ふざけるな……っ!」
イーノの昂った感情が名もなき魔法となって、バチバチと音を立てた。
「妙な気は起こすな。私に危害を加えた瞬間に弟の頭が吹き飛ぶぞ」
「はぁ?」
「これを見て♡」
トラーンが触れた首輪には、表立っては決して作られない、非人道的な魔法式が刻まれていた。財務大臣曰く、奴隷の脱走防止に使っていた私物をそのまま転用したらしい。
「コイツでしか外せない。大人しく従えばくれてやる」
指先で揺れる鍵。道具がなければ外せない作りのようだ。だが――
「舐めすぎ。奪えば良いだけでしょ」
「簡単に言うが、今しがた豚に負けたばかりじゃなかったのか?」
「……っ」
女の後ろに控える――圧倒的な力の差を見せつけてきた魔導士と目が合い、イーノは口を噤む。
『豚』という姿と功績に釣り合わない呼び名はともかく、二人の関係性は、女の方が上であるらしかった。
「クソッ……!!」
一日に二度までも魔法への自負を砕かれ、イーノの目からボロボロと涙が溢れる。しかし涙の理由を考えた時に、弟を救えない不甲斐なさが、何よりも勝った。
「トラーンは何も悪いことをしてないのに……! 何で、こんな……っ」
「お前が私の邪魔をするからだ」
「ボクの……せいだって言うの?」
「そうなるな。お前が大人しく『待て』を出来たなら、弟は豚にならずに済んだ。お前も私の豚になれ。『待て』の仕方を教えてやる」
怒りで気が狂いそうなのに、言い返す言葉が何一つ出てこない。代わりに涙だけが溢れていく。
「兄さまぁ?」
「トラー……ン……っ」
心配そうに泣き顔を覗き込まれ、イーノは頬の雫を腕で乱暴に拭った。まだ胸に残る、兄としての矜持がそうさせた。
「ご主人様。仰せつかっていた媚薬です」
長らく渡すタイミングを見計らっていた財務大臣は、品を差し出してぼやく。
「はぁ……まるで処分市ですね。高かったんですよ、これも。とびきり上等な代物で……」
「……お前はもう帰れ」
「あっ、はい。では失礼します」
主人の怒りを感じ取り、財務大臣はそそくさと退散した。
「豚、始めろ」
ノミュラスの手によって腹部で発動された魔法に、イーノは度肝を抜かれる。
「これっ、時空魔法……! こんな使い道……馬鹿じゃないの!?」
「言われてるぞ、豚」
いつだか転送魔法の説明を受けた時に予想した類の台詞を受け、ルティエはほくそ笑んだ。「感謝して欲しいくらいです」と豚は不満げに言う。
――こんな格好をさせられ、腹で妙な魔法まで使われて。これから何をされるかは分かりきっていた。
心を折ることで精神魔法を掛かりやすくするのは常套手段だが、それにしたってやり口が卑劣だ。
何より、トラーンを人質にするなんて――トラーンを――
「絶対に、まとめて殺す……っ!!」
混乱した頭から純粋な憎悪のみを抽出したイーノの――“危害”と判定されてもおかしくない程の殺気が室内に立ち込める。トラーンはびくりと肩を震わせ、ルティエは反射的に鍵を握る手へ力を込めた。しかしノミュラスだけは平然と言い放つ。
「貴方はこのまま行くと、必ずどこかで力の使い方を間違える。この辺りで一度首輪を付けて貰った方が良い」
「訳の分からないことを……っ! 魔法の使えない人間に付き従う魔導士なんてイカれてるっ!」
イーノが喚くのを無視して媚薬の説明書きを読み始める豚に、ルティエは声を掛ける。
「それは使わなくて良い。弟がこのザマだからな、兄も負けないくらいの淫乱だろう」
弟を壊した張本人に、自分と弟を一緒に侮辱され、イーノの頭蓋にブチブチと血管が切れる音が響く。
「殺す……殺してやる……ッ!」
「あまり調子に乗ると、鍵を壊すぞ」
ルティエが鍵を垂直に置いて靴底を乗せたので、イーノは奥歯を砕かんばかりの力で噛み締めた。
♥
ルティエの命令で、トラーンが兄を堕とす為の道具を選び始める。まるで、図書館で本を選ぶように的確に。
主人の役に立てることが、嬉しくて仕方ないのだろう。精神を壊されてなお『叡智』の残滓を失わないその手際に――イーノは、より強く歯噛みした。
イーノは理解していた。トラーンを解放する手段を失った以上、これは“いつ自分が折れるかという勝負”でしかないこと。そして、一矢報いる方法は、“絶対に折れない”のみであることを。
「兄さま、一緒に気持ち良くなろうね♡」
「……っ」
――待っていたのは、弟を“使った”緻密で執拗な拷問だった。
「あはぁ♡ 兄さまの身体もぉ、喜んでるねっ」
「見立て通りだな。天才兄弟より淫乱兄弟の方がしっくり来る」
「マジでっ、黙れよ……っ!」
一つの道具で繋がれた兄弟が、どちらも同じだけ甚振られていく。
屈辱に歯を食いしばる度、身体は裏切るように甘い痺れを返してくる。
同じリズムで、背中の向こうから、弟の弾んだ声が聞こえた。
――事前にこれと同じか、それ以上の辱めを受けたであろう弟。
イーノは流れる涙を止められなかった。
♥
「辛そうだな。そろそろ楽になってもいいんだぞ、兄様?」
「お゛っ……あっ、兄じゃっ、な……っ!」
「弟は豚になって、こんなに幸せそうなのになぁ」
挑発する女の声が遠くに、弟の声と息遣いが近くで聞こえる。心を折ろうとする波が何度も押し寄せ、そのたびにイーノは奥歯を噛んで耐えた。涙が止まらない理由は、もう自分でも分からなかった。
それでも怒りを原動力に、何とか正気を取り戻し――唯一の引き分けへの道筋を辿ろうとする。
「ぜ……っ、絶対に折れてやらない! ひと月でも半年でも耐えてっ、計画を破綻させてやるっ!」
口から泡を飛ばして喚くイーノに、実際この場で堕とせなければ面倒だなとルティエは思う。
――けれど。
付き合い慣れない怒りよりも、長く共にしてきたイーノの冷静さは、先に答えを出してしまっていた。
――トラーンは、もう壊された。
ボクが抵抗したところで、トラーンが元に戻る訳じゃない。
どうせ最後には、ボクも殺されるか、心を折られる。
だったら、さっさと諦めるのが得策だ。
……分かってる。
そんなの、とっくに分かってる!
でも――っ!
この先ずっと自由を奪われた上に、魔法も使えない人間の言うことを聞くとか、ゼッッッタイに無理! 正直、死んだ方がマシ!
あーっ! もう! ヤダヤダァ!
ボク、ノミュラス様のことがっ、マジでっ、理解出来ないっ!
(……あ)
そこまで考えて、イーノの目が、赤い少女と――その後ろの白い影を捉える。
(もしかして、ノミュラス様が見つけた、「闘い以外でも生を感じられるもの」って……)
視線に気付いたのか、豚がイーノのそばへ歩み寄って、囁く。
「気になりますか? 私の主が」
「っ……別にっ」
「天辺から一人で見下ろす景色、飽きたでしょう? かといって、届かない空に手を伸ばし続けるのも趣味じゃない。――地べたから見上げる景色は、飽きないですよ?」
「なっ、にを……」
主人の元へ戻っていく豚の背を、イーノは呆然と見送った。自分と弟を結ぶ道具から伝わる感覚も、その声も、今は遠くに感じた。
「ほんっ……と、何言ってるか、分かんないっ……」
あの大魔導士が。闘いよりも、高みを目指すことよりも、一人の人間を選んだ。
それだけの価値が――あの子の隣にはあるっていうの?
「……あぁもうっ! ――良いよっ、豚になってやるっ!」
涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、イーノはやけくそに喚いた。思わぬ展開に驚くルティエの横で、豚は「分かってくれたみたいですね」と頷いた。
「けど勘違いしないでよっ! ボクが選んだんだっ、堕とされた訳じゃないっ! ……キミが、なんなのかっ! 興味が湧いた、だけだからっ!」
「生意気な豚だな」
「たまには悪くないか」と鼻で笑ったルティエの掌に発生した赤い光が、抵抗をやめたイーノに全て吸い込まれていった。
トラーンと共に床へ崩れ落ちたイーノの身体が赤く発光する。そして電流のような火花が全身を駆け巡り――やがて静かに消え、服従魔法は成立した。
「は……♡ 嘘だったら承知しないからね、主♡」
微塵も敬いを感じさせない態度のイーノを指差し、主人は豚に尋ねる。
「これ、掛かっているのか?」
「効果は問題ない筈ですが、この人の場合は魔法抵抗力が強すぎましたね。人格はそのままと思って良さそうです」
「あのままか……」
ルティエは眉根を寄せ――床に転がり胸を上下させる2頭の豚を眺めた。
◇◇◇
「はぁ……やられちゃったなぁ」
自前の服に着替えたイーノは、身体に回復魔法を掛けながらぼやいた。首輪を外されたトラーンは、そのままの格好で力尽きている。
「まさかボクが好きにされる側に回るなんて……。やり口全般が卑怯すぎて、さすがのボクもドン引き。まぁボクは音速で回復出来るから? 痛めつける系の拷問が効かないって理屈は分かるけどさ。それにしたって、ねぇ……あ〜トラウマになりそ。てゆーか冷静に考えればボクたちを殺す気がないの分かったし、やり方なんていくらでもあったよね。あ〜あ、もう一回やり直したいなぁ。ウソウソ。戦場だったら死んでるもん。戦場じゃなくて良かった〜」
ルティエは眉をひそめて、いやに我の強い――新しい豚に言う。
「……魔法、解けてないか」
「解けてないよ。試しに命令してみて! 何でも言うことを聞くからさ!」
「分かった。帰るまで黙れ」
「あ、それは無理。喋るのやめたら死んじゃう」
この魔法の制作者に「どういうことだ」という視線を投げ掛けるが、「お手上げ」という身振りをしていた。
「いや〜大した魔法だよ。外からは見えなかったけど、内側に魔力が入ったからこそ分かる。僅かな消費魔力でこの強力さ……そりゃ重めの制約、3つは必要だよねぇ」
胸に手を当てるイーノは「やっぱり詳しい中身までは見えないけど」と呟いてノミュラスの方を見る。
「こんな一分の隙も無い魔法式を書き下ろすなんて、愛だね〜」
「愛はともかく隙はありましたけどね。貴方に見破られましたし」
「確かに。伝説の大魔導士でもミスはするんだね〜。人間臭くて惚れ直しちゃうなぁ」
「私はただの豚ですよ」
「ボクも豚〜!」と駆け寄りハイタッチを要求するが、ノミュラスが棒立ちの姿勢を崩さないので、今度は主人に向かっていく。
「今後は豚に決闘を要求するなよ。これだけは守って貰う」
腕を組んだままのルティエが凄みのある声で命令し――行き場をなくしたイーノの手が頭の後ろに回る。
「分かってるよ。だって、闘いよりも“感じさせて”くれるんでしょ? 主♡」
いたずらっぽく言うイーノに――厄介な豚が増えた、とルティエは目を閉じて眉間にシワを寄せた。
そこで何かを閃いたらしいイーノは、「あっ! じゃあさ、じゃあさ」と部屋の端から古びた椅子を持って来て、主人の前に座る。
「ボクたちを一気に堕としたんだから、これで内務大臣以外の閣僚は主の支配下だよね」
「そうなるな」
「スゴイね〜。大変だったでしょ〜」
パチパチと手を叩いて労われ、ルティエはいよいよ調子が狂ってきた。
「内務大臣も堕とすの?」
「そのつもりだが……」
「どうやって!?」
こめかみを押さえて頭痛に堪える主人に代わり「準備が上手く行っていないんです」と、ノミュラスが補足すると、イーノは椅子の片側を浮かして傾ける。
「そうなんだ〜。確かに内務大臣は難しいかもね〜。今だって何を考えてるのか分からないし」
「分からないとは、どういうことだ?」
「多分、みんなが操られてるのに気付いてるよ。けど、何にも言わなかった」
ルティエはイーノの証言に少なからぬ衝撃を受ける。
「気付いている……だと?」
「うん。みんな変だけどいいの〜?って聞いたら、どうすることも出来ない〜って」
「主……」
「なになに? 深刻そうな顔して、どうしたの?」
――閣僚を操っていることに気付いた。
しかし、犯人である我々に辿り着いたわけではない。
ならば尚更おかしい。
内務大臣には、閣僚を解任する権限がある。
操られていると判断した時点で、排除するのが自然だ。
なのに何もしていない。
いつから気付いている?
泳がされているのか……だとしたら何の為に?
「……」
頭に浮かぶ想定が、なぞったそばから消えていく。気付けば背中に嫌な汗が滲んでいた。
(ここまで読めないと、恐怖さえ覚えるな)
ルティエが黙考する理由を『不安』と捉えたイーノは「大丈夫! 主のことはボクが守るよ!」と明るく言い放った。
思考の海から戻ってきた主人は、軽く笑い、新しい豚に尋ねる。
「私たちを“絶対に殺す”んじゃなかったのか?」
「ヤダなぁ! 豚になる前のことなんて忘れてよぉ! ボク、トラーンを盾にされるの死ぬほど嫌いだから頭に血が上っちゃったけどさ」
イーノが、ペタンと床に座る弟に手を振ると、「兄さまぁ♡」と反応する。
「これはこれで可愛いよ」
「私の目がなければ、ある程度は元に戻るぞ」
「あ、そうなの。良かった」
「弟とエッチなことするのはキッツいからな〜」と言って席を立ち、弟の前まで歩を進め、手を差し出す。
「トラーン。もう立てる?」
「ん……大丈夫」
トラーンは兄の手を借り、よろけつつ立ち上がった。ルティエはその様子を、ただ眺めている。
「全然大丈夫じゃないしぃ〜。立ってるだけでやっとじゃ〜ん。ほら着替え、手伝うよ。……ん〜面倒くさいから下着はこのままで良いかな。ハハッ、親に見られたら大変なことになりそう」
一人でペラペラと喋りながら弟の身支度を補助したイーノは、最後に「じゃあボク、トラーンを連れて帰るね」と言って、その手を引く。
「じゃあね〜! 主、ノミュラス様! また遊びに行くねぇ〜!」
兄弟を見送ったルティエは、ボソリと呟く。
「面倒な豚は一頭で充分なんだがな……」
「私、面倒な豚ですか!?」
「自覚がなかったのか」
◇◇◇
軍の施設を出た時にポツポツと降り始めた雨が、宿に着く頃には本降りになっていた。服と身体を乾かした後、向かい合って座った二人分の影を――火を灯したランプが揺らす。
「何か飲まれます?」
「ううん、大丈夫」
「そうですか」
色々あった一日の終わりに、二人には話さなければ――聞かなければならない話が残っていた。雨音に破られることのない沈黙と静寂――口を開いたのはルティエだった。
「トラーンが言っていた件――詳しく聞かせて貰える?」
テーブルの向かいで、ノミュラスは静かに頷く。
「まず謝らせてください。……申し訳ございませんでした。主に嘘は吐いていないつもりですが、黙っていたことは沢山あります」
「……そんな気はしてたよ」
――長く生きてきた豚が、この大陸を百年以上支配した国家の内情を一つも知らないなど、不自然だった。
それでもルティエは「役に立つならとっくに話している」「詳しいことは分からない」という言葉に込められた意思を尊重し、敢えて問い質すことはしてこなかった。
「一つ一つ質問に答えていくことも出来ますが……まとめて話してしまった方が早いし負担が少ないですね」
無言で頷く主を見て、豚は一息ついた。窓の外の雨は、強まったかと思えば弱まる。
「えぇと、まず……王国……昔はトルヴァ……その後はイントルヴァと名を変えましたので……イントルヴァ王国の初代王妃は私の妹で、初代王もまぁ、一応知り合いでした。それで、色々ありまして――」
ノミュラスは、自分の両手を見つめた。
「甥姪……だとは今も正直思いたくありませんが、妹の産んだ子供――皆殺しにしてしまったんですよ、この手で。……無関係の人間も、大勢」
手を下げ、主人と目を合わせる。
「そんな雰囲気の話になりますが、聞いていただけますか?」
「…………聞くよ」
――興味や好む好まないの問題ではなく、耳に入れる必要がある。既に“私の復讐”と無関係ではないからこそ、豚は語ろうとしているのだから。
「どこから話しましょうか……」
ノミュラスは天井の方向に目を遣り、10年、85年、200年……どこまでも古い記憶を遡っていく。故郷の香りが鼻を掠ったところで――長い話が始まる。
「妹……フォアミアは私と同じ両親から産まれ、同じく不老長寿で――当時としては貴重な、副作用のない回復魔法が使える心の優しい女性でした。それと、主に少し似ていました」
◆
◆◆
◆◆◆
『ノミュラス。フォアミアを頼んだよ。あの子を死ぬまで守れるのはお前だけなのだから』




