第4話中編 風が攫ったもの
「ここなら誰にも迷惑掛からないよ」
案内されたのは、王都から少し離れた荒野だった。
(遮蔽物はなし……)
移動の間、ノミュラスは算段を立てていた。――方針を確かめることは叶わなかったが、10年一緒に居て、この計画を共に立ててきた間柄だ。主が望むであろう落としどころは、言われずとも察しがつく。
(目の前の猛獣を撃退し、以降は対戦を餌に計画を黙認させる――)
乾いた風が、二人の間を吹き抜けていく。
(はためく白の装束……伝記で読んだ通りのノミュラス様!)
憧れの大魔導士の姿に、イーノの心は一段と浮ついた。
ノミュラスだけではない。大昔から強い魔導士は、白に近い色の服を着ると相場が決まっている。
理由は単純だ。相手の攻撃を一切受けずに、自ら作り上げた大魔法で決着をつける――それが魔導士の矜持であり、自信の表れであり、戦闘の華であり、「こちらの方が上だ」という挑発でもある。だから、イーノも薄い色合いの服を着る。
と、そんな事情があるので――宿で初めて顔を合わせた時、ノミュラスが白を纏っているのを見て、イーノは内心嬉しくなったのだった。やっぱりこの人は“まだ”そうなのだ、と。
テンションが仕上がりつつあるイーノの向かいで、ノミュラスは詰まらなさそうに地面を見つめていた。
「ね! 合図とか要る?」
「好きな時に始めてください」
「分かった! じゃあ行っくね〜」
距離を取ったイーノが片腕を上げて振り抜くと、周囲に凄まじい風が発生する。人間が発生させたとは思えない程の風量は、挨拶代わりの初級魔法で発生させられたものだった。
「――っ」
吹き飛ばされそうになりながらも、ノミュラスは咄嗟に足裏へ土の楔を打ち込んで体を固定する。同時に、押し寄せる風の壁へ手のひらを向けた。
挨拶には挨拶を。荒野に高波を生成する。風が水の質量にぶつかって殺され、飛沫だけが残って撒き散らされた――が、その飛沫の一滴たりとも、ノミュラスには掛からなかった。波の角度を、自分に水が返らぬよう緻密に計算してあった。
「うわっぷ! あ〜、濡れちゃったぁ!」
「乾かしますか?」
言うが早いか、ノミュラスは風で熱した空気を一筋、イーノの真横へ送る。掠めて熱を感じさせ、反応を見るための一手だ。
「――ッ! ありがと〜」
イーノはその場を一歩も動かず、焦げた前髪を指で叩いて笑っただけだった。避けなかったのか、避ける必要を感じなかったのか。ノミュラスは後者だと判断して、内心で眉をひそめる。
(この距離で、見切られた)
「はぁ〜楽しいっ!……楽しめそうっ!」
この時点で、ノミュラスは――そしておそらくイーノも、本気でぶつかればどちらかが死ぬことを理解していた。すなわち、ノミュラスにとっては『本気を出さずに撃退する』という任務、イーノにとっては『如何に本気を出させるか』というゲームの始まりだった。
◇
「行くよぉっ!」
イーノが地を蹴ると、風が彼の背を押して体が一足飛びに距離を詰めてくる。右手に巻いた雷が、振り下ろされるより早く空気を裂いて鳴った。
雷は、極めればどの属性の攻撃魔法より強いと言われる。それを若くして使いこなしているという一事だけでも、イーノの非凡さが知れた。
ノミュラスは避けない。避ければ背後の地面が抉れ、次の動きの足場を失う。代わりに、雷の通り道に水の幕を薄く張った。雷は水を伝って大地へ逃げ――かと思いきや、イーノはその逃げ道を読んでいて、放電の瞬間に電圧を跳ね上げてきた。水の幕が一瞬で沸騰し、白い蒸気が二人の間に立ち込める。
「丁度目を合わせたくなかったんです。気が利きますね」
「でしょ〜?」
蒸気の壁の向こうで、声だけが弾んでいる。視界を奪われたのはお互い様のはずだった。だが次の瞬間、蒸気を貫いて風の刃が三本、扇状に飛んでくる。
ノミュラスは身を躱し二本をやり過ごし、威力の高い三本目だけを即席で作った水の壁で受けた。液体の壁は紙のように切り裂かれたが、風の勢いは殺がれ消滅する。立ち上がりながら、ノミュラスは思う。
(風で蒸気を散らさず、あえて残して目隠しに使った。躱す方向を読んで、本命の攻撃を仕掛けていた)
戦い慣れている、という言葉ではまだ足りない。この男は、戦いそのものを遊びの文法で組み立てている。定石を知らないのではなく、定石を面白がって踏み外してくる。
「ねぇねぇ、もっと色々見せてよぉ!」
「安くありませんよ」
「え〜? ボク金欠なんだけどなぁ」
ノミュラスは厳しい長期戦の予感にため息を吐いた。
◇
ペース配分など微塵も考えていないであろう猛攻は、嵐を想起させた。
風魔法による機動力、極められた雷魔法による攻撃力。いずれも天賦の才により巧みに使いこなされている。彼に対し最初に『風雷の化身』というあだ名をつけた人間の絶望を、対峙した者なら誰でも理解できた。
だが、イーノの恐ろしさは、それらの得意な魔法に留まらなかった。
「次はこれっ!」
地面が盛り上がり、岩の槍が無数にせり上がってノミュラスの足元から突き上げてくる。土魔法。ノミュラスは足場を液状化させてやり過ごし、沈んだ体を水の噴流で押し上げて空中へ逃れた。
「うわぁっ、今のを相殺!? 水どこから出したの!? 手じゃなくない!?」
「秘密です」
「じゃあ、もう一回出させよっと。ど〜せ天邪鬼だから、さっきと同じ手じゃ見せてくれないよね?」
息を整える間もなく、次が来る。雷、風、土、炎、水――イーノは五つの属性を、まるで遊び道具を取っ替え引っ替えするように次々と繰り出してくる。一つひとつは見知った第一の属性のはずなのに、組み合わせと速度が尋常ではない。
風で加速した火球。雷を纏わせた岩の礫。水と風を編んだ斬撃。第一の属性だけでも、これだけの応酬が成り立つのかと――短い人生の中でどれだけの時間を“攻撃魔法”に費やせばこの領域に辿り着くのかと、ノミュラスは半ば呆れた。
◇
「ノミュラス様も攻めてよぉ!」
自慢の攻撃を次々に防がれ「凄い凄い」と喜んでいたのは最初だけで、イーノは一向に仕掛けてこないノミュラスに不満を募らせ……ついに表明した。勿論その間、一度も手は止まっていない。
「貴方が反撃する暇をくれないんじゃないですか」
「あ、そう?」と言って、イーノは攻撃の手を緩める。
「これなら殺れる?」
挑発に乗った訳ではないが、油断している内に決着をつけるのは良策と、ノミュラスは両手に水の刃を生成する。
「あれ?」
そして魔法で認識を外して死角から刃を打ち込もうと回り込むが――こともなげに捕捉された。合うはずのない目線が交わる。
「……っ」
「アハハハッ! スゴいタイミング! 消えたかと思った! 意外と早く動けるんだね!」
(視覚だけじゃなく、嗅覚や聴覚も認識から外したのに)
「でも魔力がダダ漏れじゃ意味ないよ」
「相当絞ってたんですけど……ねっ」
打ち損ねた片手分の水の刃が放たれ――イーノは風を纏った片手で造作なく振り払った。
「あ〜そういうのって、年取ると衰えるって言うもんねぇ」
「ゼンッゼン締まりがいいですけど!」
追加で放たれた刃を避けたイーノは「どこの話をしているの〜」と、後方に跳ねて間合いを取り、両手にそれぞれ雷魔法と風魔法を発動する。
「ねぇ! そろそろ本気出してよ!」
――事前に聞いていた通りの、魔法大臣イーノ・フェスレの得意技。極められた雷に、最高練度の風を編み込んだ複合魔法。ただ、一つだけ誤算があるとすれば――
「想像の150倍ほど巨大なんですよねぇ……っ!」
雷だけなら、水か土で逃がせた。風だけなら、風で殺せた。だが、これほどの練度の風が雷に組み合わさると話は別だ。加速し、指向性を与えられ、逃げ道を先回りして潰された雷撃の群れ――これを第一の属性ひとつで捌くのは、さすがのノミュラスにも無理があった。
イーノが「やぁーっ!」と両腕を振り下ろすのと同時に、ノミュラスは身体の周囲に急きょ分厚い氷を生成した。水と熱を編み合わせた、第一と第二の複合魔法。
四方から襲いかかる風の刃と雷撃に氷が削り取られて、嵐が去る頃には完全に消滅していた。それでも、氷の壁の内側にいたノミュラスには、傷ひとつ付いていなかった。
「アハハッ! かき氷みたい! 水魔法得意なのかなーって思ってたけど、本当に得意なのは氷だったんだね! 大魔導士って感じで良いねぇ! ノミュラス様の魔法、もっともっと見たいなぁ!」
「……最悪ですね」
ノミュラスが基礎の属性ばかりで凌いでいたのは、この流れを望まなかったからだ。第二の属性まで絡めば、戦闘のレベルが上がり、ダメージコントロールが難しくなる。第一の属性のみで決着を付けたかった。
「というか殺す気ですか? 話が違うんですけど」
先ほどの魔法に込められた明確な殺意を指摘すると、腕を広げてイーノは戯ける。
「殺さないよ〜。ボク、回復魔法も得意なんだ! 離れた首をくっつけた事もあるし!」
「回復魔法が発達したからと言って、命を何だと思っているんですか。私が魔法を覚えた頃はマトモな汎用回復魔法なんてなくて……」
「うわっ! 年寄りのお説教が始まった!」
「ウザ〜い!」と言いながら、土魔法でノミュラスの足場を崩し、逃げるように離れるイーノ。
それを目で追うノミュラスは、自前の土魔法で高い位置に足場を作り――攻撃に転じることにした。こうなってしまっては、得意魔法を出し惜しみする意味もない。
「――少しで良いから反省して下さい」
場の温度が急激に下がり、一帯の空が白く濁る。
『雹霰天落』
空に生成された巨大な氷塊が――ひび割れ砕けて礫となり、イーノに降り掛かろうとする。
「……スゴ〜い!」
大魔導士の名前付き魔法。それがどんな威力を持つのかを理解しているイーノは、最初の雹が当たる直前まで――強大な氷魔法を輝く目で見上げていた。
そしてバチバチと派手な音を立て絶え間なく降り注ぐ氷の礫を――
『灼熱の環帯』
同じく名前付きの攻撃魔法で打ち消す。
生成された豪炎が、イーノを中心にして縦横斜めにグルグルと走り、氷を溶かしていく。
「……そこまで完璧に防ぎますか」
使ったのは手持ちの中でも高出力な氷魔法。戦闘不能には至らずとも、消耗させられれば――と期待していたが、傷一つ付けられていない様子にノミュラスはゲンナリした。
――あんな長時間、高出力の火炎を生成し続けるなんて……魔力量もさながら、二十歳そこらの人間が作ったとは思えない洗練された魔法式にも驚かされる。
(200年に1人どころか……400年に1人レベルか)
ノミュラスが“普通の人間”に、ここまでの恐ろしさを感じたのは初めてだった。
自分が一線を去った後の新しい時代に、こんな怪物が生まれたのか――感嘆と、警戒と、ほんの少しの喜びが、入り混じっていた。
「はぁ〜」
雹が消えた場所から炎も消え、興奮状態のイーノは捲し立てる。
「スッッッゴいねぇ!! 今の魔法! どうやってあんな広範囲の熱を奪ってるの!? 魔法式の範疇じゃないよねぇっ!?」
「教えません」
「ケチぃ〜」
大量の魔力を消費した筈なのに一切の疲れを見せないイーノと、僅かながらも呼吸の乱れるノミュラス。
――確かに魔法大臣は優秀な魔導士だが、純粋な魔法対決で年長の自分が遅れを取る筈がない。認めたくはないが、闘いから離れていた時間が現役の戦士との差を失わせたらしかった。
それでも、ここまで――ノミュラスはただの一度も、攻撃を受けてはいない。服さえ無傷のまま。それだけが、最後の矜持として保たれていた。
「気持ちだけ若いままじゃいけませんねぇ……」
「んー? 見た目も若いよ?」
「褒め言葉でしたっけ、それ」
「じゃな〜い?」と言って、トントンと風魔法を使い距離を取った後イーノは――
「良いものを見せてもらったから、お返しにボクの“とっておき”を見せてあげる〜っ!」
――と、大声を出した。
「見たくない……って言っても、聞いて貰えなさそうですね」と呟くノミュラスなどはお構いなしに、その場で高く跳ね飛び――宙に留まる。
「っ、本当に飛べたんですか……っ!」
噂や彼の自伝で語られる――『生まれた時から風魔法で飛んでいた』という眉唾物の逸話が、今まさに目の前で再現されていた。
「うん! でもこれはあんまり関係ないよ。特等席で見ていたいだ〜けっ」
空中のイーノが両手を上に伸ばすと――空の色が変わり始める。
「見てて! ボクのとっておきの魔法!」
炎、水、風、土、雷。全ての要素が天に集う。天変地異がそのまま空に映し出されたような、この世のものとは思えない光景。きっと、王都の方角でもこの異変に気付いた人間は多かったに違いない。それほど規模の大きい魔法だった。
『五色の流星群』
「ははは……っ! 冗談がキツい」
空に広がる5色の魔力が、束になり自分目掛けて来ようとするのを感じて、ノミュラスは思わず笑った。
衝撃は――視覚などの感覚から受けるものだけではない。第一の属性五種を同時に発動する――理論上は最高火力を叩き出せるが、人間では持ち得ない膨大な魔力量と、人知を超えた精密さを要する――長らく机上の空論とされてきた魔法。
――それが、いま頭上で現実となっている。
ビリビリと肌が痛くなるほどの魔力の発現。もはや何を考えても無駄だった。今出来るのは「絶対に防ぎ切る」という意思を固めることだけだ。
「行っけぇー!」
「――――っ」
イーノが手を振り下ろすのと同時に、ノミュラスは上空に向け手をかざす。
雷撃に土魔法、炎に水魔法、水に雷、風――
5秒に満たない間に、一つ一つの属性に相克する攻撃魔法を的確に打ち込み、無力化していく。だが、五色は多すぎた。両手は二つしかなく、相克の理を当て嵌める速度には限界がある。
対応が間に合わなかった一部の攻撃が通り、ノミュラスの身体に傷を付けていった。
風の刃が肩を裂き、雷の余波が脇腹を焼き、岩の礫が左腕を打ち砕く。鈍い音と共に、骨の折れる感触が伝わった。そして――白い装束に、初めて赤が散った。
――土埃が、この世の終わりのように地上を覆う。
轟音と激しい爆撃が止み――辺りに元の色が戻ると、イーノはフワリと地に降り立った。
「…………」
「わぁ〜〜!」
その人のいる場所以外の地面が深く抉れている――ノミュラスが生きて立っている光景に、イーノは感嘆の声を上げる。
「スッゴォ〜い!! 防げるんだぁ! 一撃で町ひとつ壊せる魔法だよぉ!?」
「……これ、私じゃなきゃ死んでましたよ。治す身体も残りません」
砂と血の混じった唾液を吐き出し、ノミュラスは燥ぐイーノに低い声で返した。
「ごめんなさ〜い。これで死ぬなら衰えてそうだし、伝説は伝説のまま殺してあげるのも優しさかな〜って思っちゃって。でも、死ななかったしぃ、やっぱりノミュラス様はスゴいや! もっとも〜っと闘おう!――どっちかが死ぬまで!」
早口で喋りながら瞳孔の開き切った目を向けてくるイーノに――この人間とマトモな約束を交わすことは出来ないと教えられる。
「嫌です。約束を守れない人とは闘えません」
ノミュラスは土魔法で足場を作ってから、折れて動かせない左腕を右手で支え、イーノに背を向けた。
「えぇ〜!? 待ってよぉ〜! 最後までしよう!?」
「嫌です。待ちません。口の中がズタズタなので話したくありません」
今度は唾液混じりの血を肩に吸わせ、城壁に向かって歩いて行く。
「ああっ! 行かないでぇ! 約束、ちゃんと守るから決着を……うわっ!」
ノミュラスを追おうとしたイーノは、少しの段差に躓き――立とうとして地面についた手が震えているのに気付いて驚いた。
「う〜ん……ボクも疲れてたみたい。ノミュラス様ぁ〜! また遊びに行くね〜!」
イーノは本当の本当に心の底から楽しくて仕方ないという表情をしていたし、ノミュラスは口の中でグラつく歯があることに気付いて渋い顔をしていた。
◇◇◇
「豚っ、その傷……っ」
「色々と誤算がありまして」
ベッドで仰向けになった豚から、魔法大臣との一連のやり取りを聞かされるルティエは、傷への簡易的な処置を施していた。
「そんなに強かったんだ」
「はい。軽く痛めつけて今日のところは引いて貰おうと思ったんですが、見事にやり返されました」
――正確には、刺し違えるつもりで闘えば目的を果たせたかも知れない。けれど、それでは主の望みから逸脱してしまう。
「……」
深く息を吐いて、辛そうに目を閉じる豚。その横顔を、ルティエはしばらく見ていた。
火傷で焼けた頬。布の下から滲む血。浅い呼吸。
――こんな豚を、初めて見た。
十年だ。十年、隣にいて、傷ひとつ負わない豚しか見てこなかった。強くて、長生きで、何があっても平気な顔で立っている。だから、いつのまにか思い込んでいた。この男は、自分より後に死ぬのだと。死に際など、見ることはないのだと。
その思い込みが今、静かに剥がれていく。
――豚が、死ぬかもしれない。
考えたこともなかった可能性に行き当たって、ルティエは膝の上で手を握った。
「豚……死んじゃダメだよ」
「不安にさせてしまってすみません。死にませんよ」
ノミュラスはルティエからタオルを受け取り、開いた傷口に当てた。
「魔法大臣……また来るかな」
「来るでしょうね。国に忠誠心がある訳ではなさそうなので、闘いを餌にして黙認させようと考えたのですが――私と彼の“どちらかが死ぬまで”挑んでくるつもりみたいです」
――どちらかが死ぬまで。
豚が引用した魔法大臣の言葉が、ルティエに突き刺さる。
邪魔をさせる訳にはいかない。死なせる訳にもいかない。その二つを同時に叶える手段は、もう一つしか残っていなかった。
不意に、図書館の光景が蘇る。本を抱えて駆け寄ってくる顔。植物園に誘う時の緊張した顔。友達がいないのだと俯いた横顔。「君と知り合えて嬉しい」という言葉。ルティエは、即座にそれらを振り払った。
「気が進まないけど、あの手で行くか」
「あの手……?」
「豚は気にしなくていいよ」と、少し低い声。
――まさか。
主人の考えを理解してしまった豚は、血相を変えて半身を起こした。
「待ってくださいっ! 私、やれます!」
「動かない。そんな大声を出したら傷に響くでしょ。あー、ほらまた血が出た。タオル貸して」
――こんな姿を見せて説得力がないのは分かっている。それでも、食い下がるしかない。
近頃の主の年相応の豊かな表情――それらは、今まさに主が考えている人物によって、与えられたものだった。幸せを追ってもいいと、背を押したのは自分だ。
「今日は小手調べというか、本気を出していなかったので……次は確実に戦闘不能に追い込めます、だから……」
「少しでも不確定要素は取り除きたいから」
「……っ、必ず何とかしますから、お願いします……挽回させてくださいっ!」
「万に一つでも豚を失う訳にはいかないんだよ。分かるでしょ?」
――分かっている。分かっていても、言い募るのを止められない。
「主……っ! 文部大臣を堕とす必要なんて――」
「クドい」
冷たい目でピシャリと言われ、豚はついに口を閉ざした。
「もう休みなよ」
「……」
――主の決意は固まっている。これ以上は、傷に障るだけだ。
心と身体の双方にどっと疲れが出たノミュラスは、目をつむって静かに息を吐く。
「……主。ダメージが私の通常の回復魔法で治せる範囲を超えているので、別の魔法で回復しようと思うのですが……その魔法、完治まで仮死状態になる上に時間が掛かります」
「仮死……? どれくらい掛かるの?」
「半日程度だと思います」
「朝までかぁ……」
懸念と言えば、回復中に魔法大臣が攻めて来ることだが――
「今日の今日で来ないとは思いますし、私が闘えないとなれば引くと思うのですが……やっぱり不安になってきました。せめて来ないよう念書を書かせてから……」
「大丈夫だから休んで」
重傷の豚を一刻も早く回復させたかったルティエは、彼女らしくない賭けとも言える選択をする。ノミュラスも今夜中に魔法大臣が来る可能性は限りなく低いと見て、何も言わなかった。
「…………本当に、申し訳ございません」
「良いんだよ。元の計画通りなんだから」
「……」
「おやすみ」
死んだように眠り始める豚を、ルティエは暫く眺めていた。仮死の魔法のせいか、その胸の上下は、目を凝らさなければ分からないほど小さい。
――豚が何を案じ、必死になっていたのかは分かる。だが、汲んでやるわけにはいかなかった。汲めば、決意が鈍る。鈍れば、豚を失う。
枕元に腰掛けて、火傷の残る頬にそっと触れる。
「……馬鹿だな、豚は」
声は、自分に言い聞かせるように低かった。
「生きてさえいればどうとでもなると、お前が言ったんだ」
だから、これでいい。誰の血も流れない。誰も死なない。豚も生きている。八つの時に願った通りの、最高の結末だ。
「……それ以上、何を望むことがある」
考えれば考えるほど、言葉にすればするほど、何かが隙間からこぼれていく気がした。ルティエは、唇と瞼を順に閉ざした。
◇
「もうこんな時間か……」
計画を練り直したり考え事をしている内に、気が付けば深夜になっていた。
もう魔法大臣は来ないだろう。そう判断したルティエが寝間着に着替え、ベッドの上でボンヤリしていると――
《ガチャッ! ガチャガチャッ》
「……っ!」
ノックもなしに激しくドアノブが捻られる。今、こんな行動を取るであろう人間は、一人しか思い浮かばなかった。
心臓が、嫌な音を立てる。ベッドを振り返る。豚は死んだように眠っている。魔法は朝まで解けない。
次の瞬間、鈍い破壊音が響いた。鍵が壊されたのだと理解する。
それでも――ルティエはドアの前へ走った。勝算など、あるはずもない。だが、いま豚を守れるのは、自分しかいない。
「おっじゃまっしま〜す。……んん?」
ルティエの顔を見て、招かれざる客――イーノは驚いた表情をした。部屋に踏み込むまで、目的の人物の他に人がいるとは気付かなかったのだろう。ルティエの魔力は、王国最強の魔導士にすら感知しづらいほど薄い。
「あれ? ノミュラス様は?」
「居ない」
「嘘だぁ〜」
時間稼ぎにもならない嘘だった。魔力を読む男の前で、奥に眠る豚の存在を隠せるはずもない。部屋の奥を覗き込んだイーノは、そこに浮かんだ魔法式を読み取る。
「……重症者用の回復魔法? 何でそんな非効率的な魔法を使ってるか知らないけど、残り7時間ってところ? ノミュラス様、今動けないんだ」
「……ああ。だから日を改めてくれると助かる」
「う〜ん、そうだな〜」
魔力の気配を感じ取れないルティエには恐ろしさが伝わり難いが、目の前に居るのは間違いなく王国最強の魔導士。どうにかして穏便に帰っていただくしかない――そう考えていると。
「っ、う……!」
魔法が使えなくても分かるほどの殺気を発せられ、声はおろか、息すらも吐き出せなくなる。
苦しむルティエの様子を見てイーノは「魔法、使えないんだ」と呟いてから半歩進んだ。
「ねぇ聞いたぁ? ボクたち今日闘ったんだけど、ノミュラス様ったら本気を出す前に帰っちゃったんだよ〜。酷いでしょ? も〜生殺し。……で」
更に半歩進んで、ずいっと顔を近付ける。
「キミ、ノミュラス様の何?」
イーノの瞳は、ルティエを単なる物体として映していた。そこには興味も欲望もない。ただ、お気に入りの玩具で楽しく遊ぶために使えるか――それだけを値踏みする目だった。
「キレイだね。宝物みたいに大事にされてるのかな? キミに酷いことをしたら、ノミュラス様は本気を出してくれるかなぁ?」
「……さぁな」
やっとのことで絞り出された声。せめて、この男の興味を自分から逸らさせない。眠る豚へ向かわせるくらいなら、自分が的になっていた方がいい。その気丈さを前に、イーノは愉しげに口角を持ち上げた。
「試してみよっか!」
ルティエに向けた手からバチバチッという音がしたかと思うと、一瞬で寝間着の大部分が焼け落ちた。ルティエは咄嗟に胸部を隠す。
「……っ!」
「中に入れて? ノミュラス様の真横でシよっ」
微かに震えながらも睨みをきかせるルティエの横にイーノが移動しようとした――その時。
「共鳴する大地ッ!!」
《ドンッ――バキィッ!》
「わっ!? あっ!」
イーノが片足を置いていた廊下の古い床板が割れて、それを支えていた建材ごと抜け落ちた。
「タキアくん!」
イーノの姿が消えた先、中腰で床に手を当てるタキアと、ルティエの目が合う。額に汗を浮かべて、気の毒なほど青ざめている。覚えたばかりの魔法を、なりふり構わず撃ち込んだのだろう。両手が、まだ小さく震えていた。
「い、今のって……魔法大臣……?」
一方、床が抜けた先の階下からは――
「兄ちゃん、見覚えが……」
「わぁ〜! ごめんなさ〜いっ! 通報しないでぇ〜!」
という宿屋の主人とイーノのやり取りと、バタバタ走り回る音、ドアを開け放つ音が響いてきた。危険が遠ざかっていくのを実感し、ルティエは詰めていた息を吐く。その正面で、床の穴を覗き込んで状況を察したタキアが、みるみる顔を曇らせていた。
「もしかして……ボスは先生と闘いたくて来たの……? それで、ルティエさんにまで手を……」
タキアにしては冴えた推理だった。長年イーノ・フェスレを追いかけ――今日初めて対話し、解釈が完全になったオタクだからこそ導き出せた結論。納得感の後に襲ってきたのは――猛烈な罪悪感だった。
「……俺のせいだ」
項垂れるタキアの、その伏せた視線の先に――焼け落ちた寝間着から、かなりの部分まで露わになったルティエの肢体が入る。
「……っ!? お、おぱっ……!」
弾かれたように顔を背け、耳まで真っ赤になったタキアは、しどろもどろに捲し立てた。
「お、俺、親父に説明してくるからっ、き、着替えといて!」
他の宿泊客も様子を窺いに部屋から出てきたので、タキアは「おぱっ、お騒がせしました!」と噛みながら平謝りして、転がるように一階へ下りていった。
◇
父親から命じられ、穴の開いた床に木材で仮の足場を渡してから、タキアは突き当りの部屋へ入ってきた。新しい寝間着に着替えたルティエは、毛布を肩に掛けて尋ねる。
「タキアくんは、こんな時間に何をしていたの?」
「職場に泊まるか悩んだ末に帰って来たんだけど……二階から変な物音と話し声がするんで上ってみたら、ルティエさんが襲われてて……」
歯切れの悪い説明を頭の中で繋ぎ合わせて、ルティエは礼を言う。
「助けてくれてありがとう。後でお礼するね」
「お礼なんてとんでもない! むしろ、詫びなきゃいけないのは俺の方で……」
またもや項垂れるタキアに、ルティエは首を傾げた。彼は言い辛そうに、その理由を口にする。
「職場で先生の話をした上に、ボスに聞かれちゃったんだ。本当にゴメン……先生にも謝らなきゃ……」
――そういうことだったか。
合点がいくと同時に、ルティエの目が冷える。タキアが豚なら仕置きの一つもくれてやるところだが、生憎そうではない。汚物でも見るような目を向けるに留めた。
「うん……その目は妥当だよ……。あの、それで……先生はどうして起きないの? というか……生きてる?」
一通り事情を説明すると、タキアは一段と深く項垂れて反省の弁を並べ――最終的に「俺、先生が起きるまでここにいるよ」と申し出た。
「疲れたでしょ? ルティエさんも寝て良いよ」
「うん……安心したら、何だか眠くなってきた……」
張り詰めていた糸が切れたのか、ベッドに倒れ込んだルティエは、ほどなく寝息を立て始めた。
その寝顔をしばらく見守ってから――
「……」
タキアはスッと立ち上がって洗面所へ向かい、柱に額を打ち付けた。「エッチなお礼を要求しておけば良かった」と、ほんの一瞬でもよぎった下心に、活を入れるために。
◇
「タキアくん、ありがとうございました」
すっかり傷の癒えた豚は、事情を聞き終えると、まずタキアに頭を下げた。
「いえ……全部、俺のせいだったみたいで……本当に面目ないです……」
「良いんですよ。悪気はなかったんですから。それよりも、教えたばかりの魔法で主を守ってくれた――それが、何より誇らしいです」
「先生……」
昨夜、考える間もなく必死に撃ち込んだあの一撃を、こうして認められて。タキアは自然と溢れた涙を指の背で拭い、時計を見上げた。午前9時。
「ぐすっ……じゃあ俺、仕事に行くんで。二人共、お大事に」
「休みじゃなかったんだ」
「時間休です」
◇◇◇
「再戦で釣って、そこで堕とそう」
ルティエは地図に記された『魔法省』の文字へ、穴が開くほど執拗にペンを突き立てていた。
「前回はどこで闘ったの?」
「この辺りです」
ノミュラスが、荒野の大まかな位置を指で示す。
「この辺……豚が調べた軍の施設が近くにあったよね」
「ありましたね」
「使えそう。総司令官に言って借りてくる」
迷いのない手つきで段取りを組み上げていく主を、豚は痛々しい思いで眺めていた。
「じゃあ日程だけど、次に魔法大臣が来たら――」
《ドンドンドンッ!》
「ノミュラス様ぁ〜!」
乱暴なノック音と脳天気な声に、二人は思わず顔を見合わせた。
「約束してきます。明後日で良いですね」
「よろしく」
「それはそれとして、一発殴ってきます」
「武器持っていく?」
◇◇◇
「おはよう! ルティエちゃん!」
早朝の図書館で、トラーンが現れるまで待つつもりだったルティエは――その人の方から挨拶をされて面食らう。
「トラーン……家に帰ってるの?」
「昨日は帰ってないよ! 宿直室もあるし!」
疲労を感じさせない活き活きとした様子からして、私用で居残ったに違いなかった。残業続きの役人の疲れた顔を、ルティエは見飽きている。
「ルティエちゃん、今日は普段着なんだね」
「今日は仕事がないんだけど、トラーンに会いに来たの」
「えぇっ」
トラーンは持っていた本で、ニヤけた顔を半分隠す。ルティエも、つられて微笑んでいた。
「えへへ……その格好のルティエちゃんと図書館にいると、何だか初めて会った時を思い出すね」
「うん」
「あの時、勇気を出して声を掛けて、本当に良かった」
――教える気のないことを次々に言い当てられ、散々警戒させられた、あの出会い。
思えばこの男は、あの時から今この瞬間まで、悪意など一片も持っていなかったのだろう。ただ純粋に、自分を知りたがり、そばにいたがっていただけ。
「トラーン……ありがとう」
「僕の方こそ!」
噛み合わないやり取りを最後に――ルティエは本題を切り出す。
「あのね、空いていたらで良いんだけど……明後日、遊びに行かない?」
「行く! けど……休日じゃないよね?」
即決した後で、トラーンは頭の中のカレンダーと予定表を確認した。
――明後日。豚が、魔法大臣と再び戦うのと同じ日。
前もって豚に予定を調べさせてあるルティエは、白々しさを感じさせないように応じる。
「うん。仕事が終わった後にどうかなって思って」
「大丈夫だよ。ルティエちゃんから誘って貰えるなんて、嬉しいなぁ」
喜色満面のトラーンへ、ルティエはスッと手書きの地図を差し出した。未来を変える一枚が、無邪気な手に渡っていく。
「場所はここなんだけど――」
「こんなところに、建物があったんだ」
「17時に現地集合で良い?」
「17時……」と呟きながら、頭の中の地図と手元の地図の縮尺を合わせたトラーンは、文部省からの距離と移動時間を大まかに導き出して頷く。
「16時頃まで会議があるけど、大丈夫だと思う」
「遅れないでね。早い分には良いから」
「分かった!」
「待ってる」
ルティエは、口を笑顔の形にして言った。その言葉に、嘘はない。明後日、自分は確かにこの場所で、トラーンを待っている。
――ただ、この男の思っているような形では、決してないだけで。
◇◇◇
図書館を後にしたルティエは、私服のまま外務省へ向かった。廊下で行き合った顔見知りと、当たり障りのない挨拶を交わしてから、大臣室に入るなり命じる。
「話がある。軍総司令官と財務大臣を呼べ」
ほどなく言いつけ通りに動いた外務大臣が、何かを携えて主人に伺いを立ててきた。
「ご苦労。……ん? 何だそれは。酒か?」
前回ここを訪れた折に出した命令のことを、わざわざ申し出てきたらしい。ルティエは「ああ」と興味なさげに応じ、椅子の背もたれに体重を預けた。
「そう言えば、そんなことを言ったな。悪いが、今はそういう気分じゃない。……他の連中に披露したいのなら、止めはしないが。財務大臣が手を叩いて喜びそうだな」
◇◇◇
図書館で約束をしてから2日後――昼の空が消え始める時間帯――曇り空の下。長引いた会議を終えたトラーンは、仕事着のまま道を急いでいた。
頭の奥で、さっきから警鐘が鳴り止まない。それでも、この先で待つ人を信じたい一心で、無理やり足を動かす。今までの待ち合わせは――今日は会えるかも知れないなんて考えた日は――足が軽かったな、などと思う。
「ここ……だよね」
待ち合わせ場所にあったのは、古い事務所か倉庫のような建物だった。中から顔を出したルティエが手招きする。いつも通りの顔だった。その、いつも通りであることが、かえって不安を誘った。
「トラーン。こっち」
「ルティエちゃん……」
恐る恐る足を踏み入れた内部は――古びた椅子や机、何かの装置などが雑に重ねられて端に寄せられている――実際の面積よりもやたらに広く感じる空間だった。
「これから遊びに……って雰囲気じゃないね」
勘を働かせるまでもなかった。空気が、徒ならない。トラーンの警戒心が最高潮に達したところで、ルティエの表情から温度が消えた。
「悪いな、トラーン。魔法大臣を堕とすための道具になって貰う」
聞いたことのない口調に、寝耳に水の言葉。
「兄様? 何で……」
「奴は想像以上に厄介らしくてな…………兄弟仲が良くて助かった」
ルティエは説明が面倒になって、結論を飛ばして感想を述べたが、トラーンには全てが伝わった。
兄を堕とすための、道具。更に兄が何らかの目的で利用される。その光景が浮かんだ瞬間、考えるより先に身体が動いていた。
「……っ、兄様の枷になるくらいなら、僕は――」
「させませんよ」
トラーンが何らかの魔法を発動しようとするのを一陣の風が止め、尻餅をつかせる。
「く、ぅっ!」
建物の外から突風を発生させた――銀髪の魔法使いを見て、トラーンは目を見開いた。
「まさか……っ」
途中まで発動していた――目眩まし程度の風魔法を銀髪の男へ放つと、等しく打ち消すための風魔法がぶつけられる。舞い上がった前髪から覗いた紫色の瞳が――見開いた目に焼き付く。
「そよ風……。この程度の魔法で私に傷を付けるつもりだったんですか? 弟さんの方は魔法の才がないようですね」
銀髪、虹彩の色、ルシェイザナ神山、養父、ノミュラス、ルティエ、辺境の国、亡き王女、王国、復讐――
トラーンの脳内で、ずっとバラバラだった破片が、一斉に音を立てて噛み合っていく。
「――鬼神!」
顔面蒼白になるトラーンに対し、ノミュラスの表情は不気味なほど変化がなかった。
「聞いたことのない二つ名だな」
散々「大魔導士」だの「賢者」だのと呼ばれてきた豚に向かって言うが、答えたのはトラーンだった。
「ルティエちゃんには言っていないけれど、85年前の災厄で精神を患ったとされる王の叔母の日記に、支離滅裂ながらも繰り返し出てくる単語が複数あったんだ。それらを統合すると――
――『王宮に現れた銀髪で紫と緑の目をした鬼神は、天使を閉じ込めた人間を瞬く間に皆殺しにした』」
長年誰にも言えなかった――幾度となく立てた仮説が、当事者を前にして、堰を切ったように口から溢れ出す。
「王族らが死んだとされる疫病……前後に蔓延した記録がないのが不自然だったから、他国に攻め込まれた可能性を考えたけど――当時、表立って敵対する国も、対抗しうる国力を持つ国もなかった。全て、私怨により一人の力で殺害されたのなら説明も付く。
呪いと呼ばれる王宮周辺での同時多発的発狂……あれは史上例を見ない広範囲高出力の精神魔法の影響だろう。目撃者を探して消す手間よりも、無差別に、目撃した可能性を持つ人間の記憶を消すことを選んだに違いない」
語りながら、トラーンの背を冷たいものが伝っていた。
――目の前の人物は、多くの人を殺し、狂わせた、“災厄”そのものだ。
それでも言葉が止まらないのは、歴史学者としての性であった。
「僕の考えが正しければ、天使――初代王妃は……」
「すみません。それ以上は言うのを止めて貰って良いですか? 答え合わせをする気はないので」
静かな声の底に、触れれば斬られる冷たさを感じて、トラーンは黙った。
それでも、彼の中で一番大切な質問だけは溢す。
「……貴方が成し遂げられなかった復讐を実現する為に、ルティエちゃんを利用したの?」
「違います」
即答だった。その短い否定には、嘘の入り込む隙はないように思えた。
それ以上何も言おうとしない豚を、ルティエは「聞きたいことが山程ある」という顔をして見つめた。
「主。今日の事が終わったら全て話します。今は私を信じてください」
「……分かった」
トラーンは床についた手に力を込め、ゆっくりと立ち上がり、支えにした膝が震えるのを一度だけ見下ろしてから――ルティエに向き直る。
「……ルティエちゃん。養父というのが彼のことなら――出会ったばかりの僕の言葉じゃ、根拠にするには弱く感じるだろうけど――どうか聞いて欲しい」
ルティエが何も言わないのを肯定と捉え、続ける。
「過去を黙っていたのだとしたら、彼を信じるのは危険だ。君の為にならない」
陥れられた状況など忘れているかのような、他人の為の発言。ルティエの視界の端では、図書館でトラーンに渡したのと同じ地図が、机の上で広げたままになっている。入口から自然の風が吹き込み、端の丸まった地図を揺らした。
「トラーン。お前は大きな思い違いをしている。誰が嘘を吐いているかなんて、そんなことはどうだって良いんだ。――私の復讐に必要なのは豚の力であって、お前の言葉じゃない」
底の見えない真っ暗な瞳に、トラーンはゾッとした。こんなに深い闇を抱えて、王都で生活し、大臣である自分と関わっていたのかと思うと――涙が、勝手に溢れていた。
「……何故泣く」
「僕、ルティエちゃんのことを何も分かってなかったんだなって……」
「話していないのだから当然だろう」
「うん……そうなんだけど、そうじゃなくて……」
――君が何者かなんてどうでも良かった。君が苦しんでいるなら、その理由を知りたかった。僕に出来ることなら、何でもしたかった。でも、何一つ叶えられなかった。
それを言葉に出来るだけの平静は、もう残っていない。
俯いて訳の分からない言葉を吐くトラーンを、ルティエは遠い世界の出来事のように眺める。眺めながら――ルティエの望む通りに――心はどこまでも冷えていった。
「主、約束の時間なので行きます」
「ああ」
トラーンは涙の跡の残る顔を上げ、鬼神と呼んだ男に問いかける。
「初代王妃、姉妹か娘でしょう?」
「……妹です」
冥土の土産と言わんばかりに、一つだけ答え合わせをしてから、ノミュラスは外へ向かった。が――
「忘れてました」
と戻って来てトラーンの腹に手を近付ける。また第三の属性が無駄に使われた。
「な、何っ?」
「では、今度こそ行ってきます」
「宜しく頼む」
小さくなっていく豚の背中を見送るルティエの横顔へ、トラーンは目を向けた。
「ルティエ……ちゃん……」
返事はない。白い装束の消えた方をじっと見たまま、こちらを見ようとしない。
見ないのではなく、見ないようにしている――そう気付けるくらいには、トラーンはこの少女を見てきた。視線さえ合えば、まだ言葉が届くかもしれない。そう思って、もう一度呼ぶ。
「……ルティエちゃん」
二度目も、彼女は応えなかった。
何を言っても、もう届かない。それを悟ると、トラーンは服の袖で涙を拭った。もう、泣いている場合ではなかった。
――行こう。魔法の脅威は、無くなったのだから。
逃げれば、二度と彼女に会えないだろう。それでも――今は兄の元へ向かわなければ。自分には、危険が迫っていることを伝える義務がある。
「……わっ!」
走り抜けるため出口へ身を翻したところで、誰かにぶつかった。
「おっと失礼。御機嫌よう、文部大臣」
「財務大臣!? 何でこんなところに……」
唯一の出入り口だった扉が、その手で閉ざされる。行くと決めてから数歩で退路を失い、トラーンはキュッと唇を噛んだ。
「時間通りだな。さっそくだが抵抗しないようにしろ」
「了解致しました」
「っ!?」
財務大臣が魔法を発動すると、トラーンの身体に妙な感覚が走った。手足が、自分のものでないように重い。困った顔で、ルティエと財務大臣へ交互に視線を送るトラーンを、二人は置き去りにして話を進める。
「精神魔法は扱いが難しいと聞くが……本当に任せて良いんだな?」
「はい! 私、精神魔法は大の得意ですので、素面から発狂まで、調整はお手の物で御座います!」
「頼もしいな。手筈通りに頼む」
――財務大臣は、完全に彼女らの仲間であるらしい。
これまで不可解だった様々な事象が、頭の中で音もなく繋がっていく。だが、その聡さも、今この状況では何の助けにもならなかった。
「もう肉体の掌握は済んだのか?」
「試してみましょうか」
「や、な、何……」
腰に手を当てられたトラーンは、ぎこちない動きで服を脱いでいく。意思とは関係なく身体が動く――動かされる感覚に、全身から血の気が引いた。
「い……嫌ぁっ」
「精神魔法を掛けられるのは初めてかな? それだと効きすぎてしまうかも知れないね」
下卑た笑みを浮かべた後、財務大臣はルティエの方を向く。
「もっと脳をイジることも出来ますが、これくらいをご所望ですよね」
「そうだな」
服従魔法に「自らの手で屈服させる」という制約がある以上、別の精神魔法で壊されては台無しになる。
「さて」
「ひっ……」
ルティエは手にしたナイフの刃を光らせ、トラーンに近付いた。




