過去編 守れなかった約束
約200年前の大陸北東部。山越えを望む旅人で賑わう町の外れに、兄妹は住んでいた。
年季は入っているものの良く手入れされた家の中で、テーブルの脇に立ち回復魔法を使う妹――フォアミアは大きな溜め息をつく。
「もー、ケンカケンカケンカって、よく飽きないね。いつになったら止めるの?」
「喧嘩を売ってくる人間がいなくなったら、かな」
「買わなければいいのに……」
椅子に座る兄のノミュラスは、淡い緑色の光を浴びる腕の傷口を見つめて真剣な顔を作る。
「しかし最近はめっきり強い人間が減った。いつまで本気になれるだろう」
「ならなくていいよ……」
見当違いの心配を始める兄に、妹は呆れ果てる。この手の掛け合いは恒例になっていた。
地元では恐れられて敵なしのノミュラスだが――町には大陸全土から人が集まるので、その事実を知らない余所の人間と度々揉め事を起こすからだ。
「お兄ちゃんにも他の人にも、傷付いて欲しくないのになぁ」
一方のフォアミアは、生まれ持った回復魔法で無償の治療を行っており、地域では『聖女』と呼ばれてちょっとした有名人だった。
また、その力を悪用しようと近付く輩を排除している内にノミュラスが戦闘行為に目覚めた――という経緯があり、彼女には兄の起こすいざこざイザコザに対し強く言えない面がある。
「――はい。治ったよ」
「ありがとう。これでまた闘える」
妹をからかうつもりで言ったセリフだったが、返ってきた反応はノミュラスが予想したものとは違っていた。
「分かってるよ。お兄ちゃんは戦闘してないと、人と一緒に生きている実感が湧かないんだよね」
――守って貰わないと困るが、兄に闘って欲しくない。闘いを通して兄が人と繋がっているのは分かるが、兄には人と穏便に付き合って欲しい。
それらの相反し合う想いが、彼女の悩みの種だった。
「……フォアミアには分からないだろう。普通の人間の中で上手くやってるじゃないか」
思うところがあったのか――珍しく否定しなかった兄に、フォアミアも本音で応える。
「分かるよ。わたしだって、周りが老いて死んでいく中で変わらず残されてると、自分が本当に人間だか分からなくなるもの」
ノミュラスの目には、ほんの少し俯いた妹が、親しい人間の葬儀の度に自分の胸で泣きじゃくる姿と被って見えたが――フォアミアは泣き出すどころかニコリと笑う。
「でもね、こうやって魔法で人の役に立っていると、人の中で生きてるって思えるんだよ」
その屈託のない表情を前に、様々な考えが浮かんでは消えて――ノミュラスの中には「到底真似出来ない」という結論だけが残った。
難しい顔をして黙りこくる兄との空気を変えようと――手をパチンと叩いたフォアミアは、努めて明るい声を出し話題を変える。
「そう言えばアネリちゃんが来月結婚するんだって! 何でも、旅の人との運命的な出会いだったとか! 素敵よね〜」
「ああ……花屋の孫の」
「祝宴に呼ばれてるの! 楽しみ〜」
色恋に全く興味のないノミュラスはより一層白けるが、フォアミアは勝手に盛り上がって行く。
「お父さんも旅をしてる時に、長い人生でたった一人だけ好きになったお母さんと一緒になったんだよねぇ。ロマンチック〜」
棚の上から取った――両親の遺品のブローチを胸に当てウットリするフォアミアをよそに、ノミュラスは机の上にあった読みかけの本を開いていた。
「はぁ〜、わたしの運命の男性はどんな方だろう……」
「130歳のお婆さんが何を言っているのやら」
「まだ128歳だからっ! お父さんは500歳を超えてからお母さんと出会ったんだもの。わたしだってこれからよ!」
――フォアミアは女性だからか、普通の人間である母に似ていたからか。“恋愛”への憧れが強いようだった。
◆◆◆
そして、その時が来た。――激しい雨の降る夜だった。
《ズル……ズルッ……ズシャッ》
妙な音が外からして、玄関の扉が弱々しく叩かれる。
「フォアミア。私が出る」
表に出ようとする妹を止めて、ノミュラスが警戒しつつドアを開けると――
「なんて酷い傷……っ!」
血塗れの来訪者たちを目にしたフォアミアが、悲鳴に近い声を上げた。
玄関先の重傷者二人――特に従者らしき男に担がれている金髪の男の方は、剣か何かで斬られたのか右肩から先の腕が千切れかけており、青白い顔でぐったりとしている。
「聖女様……っ! どうか、お助けください……大切なお方なのです……!」
絞り出すような声で言った従者は、大怪我を負っている男をノミュラスに引き渡して――地面に崩れ落ちた。
「お兄ちゃん、こっちに!」
「分かった。貴方も少し待っていてくださ……」
話し掛けた人間が足元で事切れているのに気付いたノミュラスは、そのまま血と雨と泥に塗れて浅い呼吸をする男を室内に運び入れ、フォアミアの支度したベッドに寝かせる。
「私はあちらの人を教会に渡してくるから――」
「見た目よりも傷が深い……胸の止血が最優先ね」
一心不乱に回復魔法を掛け始めるフォアミアを尻目に、ノミュラスは外へ出ていった。
◆◆◆
「……っ」
「目を覚ましたのね。良かった」
「天使……」
自分の顔を見て、そう呟いた男にフォアミアは微笑みかける。窓から差す朝日を背にしたその姿は、呟きの内容に説得力を与えていた。
「ふふ。わたしはお迎えじゃありませんよ。なーんて。シーツを替えるね。少し動ける?」
天使の口から現実的な単語が出たので意識がハッキリしたのか、男は自身の置かれた状況を把握する。
「そうだ、山麓の聖女……あなたがそうなのですね。何とお礼を申し上げたら良いか……」
「いいのよ、当然のことをしたまでだもの。わたしはフォアミア。名前で呼んでね」
◆
「ああ、目が覚めたんですか」
治療に使った部屋を覗いたノミュラスは、ベッドの上で体を起こしていた男に対し無感情に言った。
「助けてくださりありがとうございました。このご恩は必ずお返しします」
「礼なら妹のフォアミアに言ってください。昨晩は一睡もせずに回復魔法を使っていたんですから」
「はい。本当に頭が上がりません……」
――フォアミアがいる近くで怪我を負うなんて運の良い男だ。並の回復魔法じゃ助からないか、良くて廃人化していただろう。
「そう言えば、フォアミアは?」
「……ここには、居ません」
そう言って目を逸らした男の毛布に不自然な膨らみがあるので捲ると――フォアミアが寝息を立てていた。
「はあぁ!?」
「違います違います! 追加の回復魔法を掛けると言ってベッドに乗ったところで寝てしまって、それで! 僕は痛みで動けませんから、指一本触れていません!」
「隠そうとしたということは、やましいことがあったんでしょう!?」
「こうなる気がしていたから黙っていたんです!」
「――――許しません」
「……あっ! ヤダ、寝ちゃってた」
慌てて起き上がったフォアミアの目に、氷の剣で怪我人に斬り掛かろうとする兄の姿が飛び込んできた。
「お兄ちゃん!? 何してるのっ!?」
◆
「調子はどう?」
「右手が動きにくいのと、足や背が痺れるのと、深く呼吸すると胸が苦しいのと、血が胃から込み上げてくる以外は、大分楽になりました」
「一晩じゃそうよね」
満身創痍の男と兄妹は――居間のテーブルを挟んで向かい合わせに座っていた。妹にこってり絞られたノミュラスは、そっぽを向いて不貞腐れている。
「それで、ここまで連れてきてくれた者がいたと思うのですが……」
フォアミアが無言になって視線を落とすのを見て、全てを悟った男は――涙を流して己の無力さを悔やんだ。
「……っ、すみません。長く供をしてくれた人間だったので……」
「辛いね……」
「泣いてばかりもいられません」
左腕で涙を拭い、男はようやく身の上を明かす。
「僕はソウ・トルヴァ。トルヴァ王国の騎士で、第二王子……だったのですが……」
トルヴァ王国とは、ここから大分離れた大陸中央部にある国だ。大方の事情を察したノミュラスは、冷めた目で言い放つ。
「どうせ王位争いに敗れて〜とかでしょう。下らない」
「お兄ちゃん! そういう言い方をしないの!」
「恥ずかしながら、その通りです」
ソウは資源調査のために訪れた先で、兄の放った刺客に追い詰められ崖下に突き落とされたこと、病床の父王が長子である兄ではなく、次子の自分に王位を譲ろうとしていたことを話した。
「これからどうするの?」
「死んだと思われているのなら都合が良い。力を蓄えて兄を討ちます。兄は自分のことしか考えていない酷い人間だ。あれを王にしては民が不幸になる」
――実の兄を殺す。
その言葉にフォアミアはただならぬ覚悟を感じ、ノミュラスは呆れ返る。
「野蛮ですね。貴方がたは、いつの時代も上だ下だと……」
「何で理由を聞いて、そんなことが言えるの!?」
「良いんです。その通りだから。けれど、僕にしか出来ない汚れ仕事でもある。フォアミアに救って貰ったこの命を、僕は国民の為に使いたい」
澄んだ目で綺麗事を言う男を、ノミュラスは心底忌々しく思っていた。
「動けるようになったら出て行ってくださいね。揉め事は勘弁なので」
「はい。僕の死を確かめる為に追手を寄越すかもしれません。お二人に迷惑は掛けられません。出来るだけ早く出ていきます」
「行く宛はあるの?」
曖昧に笑って「これから考えます」と言ったソウを見つめた後、フォアミアは兄の顔を覗き込んで言う。
「お兄ちゃん、この傷じゃ完治までに半年から1年はかかるよ」
――その間、家に置くと言いたいらしい。
ノミュラスは妹から顔を背け、ソウに見えるように露骨に嫌そうな表情を作った。
「そんなに長くお世話にはなれません」
「いいのよ、気にしないで。追手が来てもお兄ちゃんが何とかするから!」
「フォアミア……!?」
それからソウは半年ほど家に滞在することになる。
◆◆◆
傷の治りきらない内からソウは「寝ているだけでは申し訳ない」と無理を押して家の手伝いをしていた。
その日もフォアミアからの頼まれ事を済ませたソウは――家から離れた場所でしゃがみ込むノミュラスに気付き、近寄っていった。
「何をなさっているんですか?」
「感知用の結界を広げているんですよ。“貴方の”追手が来た時に、フォアミアの前では殺したくありませんから」
「すみません……ありがとうございます」
顔を上げなかったので表情は分からなかったが、物騒な発言の中でも妹への気遣いが感じられて、ソウは温かい気持ちになる。
「妹さんが大切なんですね」
「家族なんだから当たり前でしょう」
ノミュラスはここで初めてソウと目を合わせたのだが――農夫姿をしているのに気品を隠しきれていないその様子に「さっさと追手に見つかって、フォアミアの目のないところで死んでくれれば良いのに」と思った。
そんなことを思われているとは露知らず、ソウは「当たり前……」と、ノミュラスの言葉を反芻する。
「僕は……多忙な両親とは最低限しか顔を合わせていませんし、姉は早くに政略結婚させられて話す機会がありませんでした。そして兄はお伝えした通りなので……兄弟や家族というものがよく分からなくて」
「……」
「あ、すみません。僕の話なんて興味がないですよね」
「まったくです」
ソウは少しだけ困ったような顔をして、地面に細工をするノミュラスにもう一歩近付く。
「何か手伝えることはありますか?」
「ありません。さっさと立ち去ってください」
◆◆◆
「ここでの生活には慣れた?」
ソウがやって来てから、ひと月が経過しようとしていた。
「お陰様で」
「ねー。王子様なのに生活力があるんで驚いちゃった」
「野営なんかで慣れてるからね」
ソウは14歳の頃から騎士団に所属していて、間もなく十年になるところだったらしい。
「困ったことがあれば地元の人に相談するんだけど、フォアミアの名前を出せば必ず話を聞いて貰えるから助かるよ。それから……お兄さんのことを褒めても、悪く言う人はいないみたいだけど」
ノミュラスが土地で恐れられていると説明を受けていたので、特別気を使っていたソウは拍子抜けしていた。
「町の人は、お兄ちゃんがわたしを守る為に闘ってるのを知ってるから。悪く言うのはこの辺でも血の気が多い人たちね。街を襲いに来た盗賊なんかを撃退して感謝されたりもしてるのよ。「妹の為だ」って言って聞く耳を持たないから、お兄ちゃんに直接言う人は少ないけど」
「素直じゃないんだね」
「そうなの」
ノミュラスは読んでいた本を閉じ、バツが悪そうに部屋を出た。
◆◆◆
「貴方は何故、自らを危険に晒して『民を救う』なんて綺麗事が言えるんですか?」
たまたまソウと二人きりになったノミュラスが溢したのは、ずっと心に引っ掛かっていた疑問だった。
――トルヴァ王国の王が崩御し、第一王子が即位したという知らせが届いた時分だった。
「綺麗事というのは絵空事という意味でしょうか? だとしたら、夢などではなく実際に成す力を持つ者としての責任からです」
「また綺麗事を……」という顔をするノミュラスに、想いが伝わっていないように感じたソウは「ならば例え話を……」と思案して――手を叩く。
「フォアミアも回復魔法という素晴らしい力があるから、人を助けているじゃないですか。同じことですよ」
「……救える数の高が知れているでしょう。貴方のとは規模が違う」
「同じですよ。僕の成そうとしていることが結果として多くの人間を救うことに繋がるだけです」
ノミュラスには、妹から「“沢山の人”の中に大切な人も入っているのよ」と似たような答えを返された覚えがあった。
「……分かりません。私は、この手の届く範囲外のものを命を懸けて守ろうだなんて思えない」
妹に何度も治された腕を眺めて呟くノミュラスに、ソウは微笑みかける。
「お兄さんは優しいですね。僕やフォアミアのことを心配してくださっている」
「は?」
「何も命を投げ打とうというのではないんです。救える人間がいるから手を差し伸べる。それだけなんですよ」
「貴方の心配なんてしていませんけど」
◆◆◆
次第にソウはフォアミアの往診に付き添うようになった。重い荷物を持ち、子供や老人の話し相手になり、帰り道には二人で町の市場を歩く。
時には夕暮れまで庭仕事をし、夕食の支度を並んで手伝うこともあった。何気ない会話が絶えることはなく、気付けば、フォアミアが最初に笑い掛ける相手も、何かあれば真っ先に話し掛ける相手もソウになっていた。
――恋仲になったことくらいは、色恋沙汰に疎い私にも理解出来た。
◆◆◆
3人での生活が始まって半年が過ぎた頃。いつものように居間で読書をする兄に、フォアミアは緊張した面持ちで近付く。
「お兄ちゃん、あの……」
「王子様に付いていくんだろう。好きにすれば良い」
ノミュラスはソウから、自国の近くにある隠れ里に移動するという話をされていた。
「……わたしが居なくなったら、誰がお兄ちゃんの怪我を治すの」
「怪我をしなければ良い」
事も無げに言った兄は、妹が言い返すのを待たずに続ける。
「少しくらいの怪我なら、私の回復魔法でも間に合う」
「回復魔法!? もっと効率のいい魔法が生まれたら覚えるって、ずっと覚えないでいたのに……」
合理主義者の兄が、出来が悪いと文句を言い続けていた汎用回復魔法を習得する意味。それを理解しているフォアミアは、感極まって両手で口を覆った。
「だから心配いらない。行っておいで」
「……うん、ありがとう……お兄ちゃん」
◆◆◆
小高い丘から人里を見下ろすノミュラスは、背後に気配を感じ――呟くように語り出す。
「父に……フォアミアを死ぬまで守ると約束したんです」
能力のせいで狙われる――それ以上の危うさが、彼女にはあるから。
「父からはよく『人を助けるよう』言い聞かせられました。それは、不老長寿の私たちが上手く世渡りするための“手段”としての教えだったように思います。――少なくとも私はそう理解した。けれど、フォアミアは違う。本心から人を助けられる。身を挺してでも」
振り向いて、父と母と同じ色の――2色の瞳で、妹が選んだ人間を見据える。
「貴方にフォアミアを守れますか?」
「すぐには約束出来ません」
話の続きがあることを理解しているノミュラスは、言葉を発さずに待つ。その短い時間――金色の髪は陽の光で輝き、銀色の髪は風に揺らされていた。
「兄を討ち倒すまでは、彼女を危険な目に遭わせることもあるかも知れません。それはフォアミアにも覚悟して貰っています。けれど、僕が王となった暁には――必ず安住の地を与え、命ある限り守り抜くと誓います」
ノミュラスの口元が思わず緩む。
――初めて家に来た時と同じ眼をして綺麗事を言う男が、死ぬまで変わらなければ良いと思った。
「しかし……僕はどうしても彼女より先に逝ってしまいますから、いずれはフォアミアの人生に戻って貰う日が来ます。その時はお兄さん。また妹さんを宜しくお願いします」
「子供に守らせるとは言わないんですね」
「フォアミアの希望なんです」
「そうですか……」
「お兄ちゃんが寂しいだろうから」などという余計な考えからなのだろうが、不覚にも今は喜ばしく感じた。
「貴方が……」
ソウに背を向け、ノミュラスは空を見上げる。
「明日にでも死ねばいいと思う反面、出来る限り長生きして欲しいと思う。妹を持つ兄と言うのは複雑なものですね」
「大切な家族なのだから、当然だと思います」
◆◆◆
出発の直前、ソウの計らいで兄妹は別れの言葉を交わしていた。
「時々、様子を見に行くから」
「お兄ちゃん、そのことなんだけど……。もう聞いたよね。わたしが、いつまでソウの所にいるつもりか」
「ああ」
「その間は会いに来ないで欲しいの」
そこまで嫌われていたのか――とショックを受けてよろめいた兄に、フォアミアは急ぎフォローを入れる。
「違う、違うの。今までいっぱい守って貰ったから――わたしの為に生きてくれたから。これからはお兄ちゃんの為に生きて欲しいの」
ノミュラスは「そんなつもりで生きてない……」と小声で言うのが精一杯だった。
「いきなり言われても難しいだろうけど、何でも良いのよ。ケンカよりも楽しいことを見つけたり、恋人を作ったり……」
「そんなの興味ない……」と唇だけを動かした兄の心の整理が付くまで、フォアミアは何も言わずに見守る。丸一分考え込んで、ノミュラスは重い口を開いた。
「……百年も顔を見れないのか」
「そんなに長くないよ、悲しいけど。50年、60年……あっという間でしょ」
ソウの寿命はどう長く見積もっても今から70年程度だった。ノミュラスには、時間の計算を大雑把にする癖がある。
「だとしても、フォアミアが側にいれば天寿は全う出来るよ」
「うん!……お兄ちゃん、今まで守ってくれてありがとう」
「今生の別れじゃあるまいし」
「そうだね」と笑い合った後、フォアミアは良い機会だからと兄へ釘を刺していく。
「わたしがいない時に、変な物におちんちん入れちゃダメだよ」
「ハハ……何十年前の話をしているんだ。もうそんなことしてないよ」
「お尻に変な物を入れるのもやめなよ。今度こそ取り出せなくなったら大変だから」
「それはバレていなかった筈じゃ……っ」
「お酒を飲んで知らない男の人と泊まりに行くのも危ないんだからね?」
「もうやめて……早く出ていって……」
荷を載せた馬を引いて歩いていく二人――手を振って何度か振り返り笑うフォアミアの姿が、今も目に焼き付いて離れない。
◆◆◆
――それから私は、妹に言われたことを良く理解出来ないまま大陸中の強者を求めて旅したり、日夜の研究の末に時空魔法を編み出したりした。
時間で言えば十数年後、ソウが祖国と同じ場所に名を変えて建国したと噂で聞いた。
二十数年後、百年以上待ち続けていた副作用のない回復魔法の魔導書が出回るようになった。聞けばソウの国で開発されたものだと言うので、彼がフォアミアの為に開発を急がせたのだろうと、悔しい気持ちより嬉しい気持ちが勝った。六十年後には、領土が広がり大陸一豊かな国だと聞こえてきた。
――それらは本当にあっという間の出来事だったから。
時折、思い出したように手紙が届いていた。文面は決まって『庭の花が咲いた』や『子供が初めて魔法を使った』などの、他愛のない、幸せそうな出来事ばかり。そして最後は決まって、『お兄ちゃんは元気にしてる? わたしは元気だよ。心配しないでね』と結ばれていた。
屈託のない文字を眺めて、小さく笑ったものだ。あれほど恋に焦がれていた妹が、今や良き母におさまっている。
その手紙が、ある時期を境にパタリと来なくなった。最後の一通も、それまでと何一つ変わらない明るい文面だったから、妹は忙しくも幸せにやっているのだろうと疑いもしなかった。
八十年、百年が経って妹が戻らなくても、子供や孫が可愛くなったのだろうと思っていた。
――愚かだった。
◆◆◆
――フォアミアが嫁いでから百二十年余りの月日が流れていた。
いい加減に近況を確かめに行っても怒られはしないだろうと、ノミュラスは初めてイントルヴァ王国を訪れた。
元々の『トルヴァ王国』に『真の』を意味する文字を冠したのだという国名の由来を知って、あの自信満々に綺麗事を抜かす男らしいと思った。
大陸一栄える都を見物しながら、ノミュラスは王宮へと向かう。
ソウはとっくに没している筈だし、二人が自分の存在を周りに伝えているとも限らない。いきなり「フォアミアの兄です」と言って怪しまれても面倒なことになる――と判断したノミュラスは、魔法を駆使して王宮内へ忍び込むことにした。
◆
まず妹に会おうと、懐かしい魔力の気配を辿って着いたのは――宮殿から離れた、寂しげな雰囲気の場所だった。
(地下室……?)
膝くらいの位置にあった、高窓に当たる鉄格子を――何気なしに覗き込んだノミュラスは目を疑う。
再会を目前にし、気の緩んだ意識の中に飛び込んできた光景を――一瞬、理解出来なかった。いや、頭が、理解を拒んだ。
「……っ、あっ……」
「おいおい、もっと良い反応をしてくれ」
薄暗い牢屋のような空間で、当然ながらソウではない男に――フォアミアは抱かれていた。
――息が止まる。心臓が跳ねるように脈打つ。
妹は、抵抗もしなかった。助けを求めるでもなく、嫌がるでもなく――視線を宙の一点に預けて、ただ、この時間が過ぎるのを待っている。心だけをどこか遠くへ逃がすように。
数十年――もしかしたら百年以上の歳月が、何を彼女から削り取ったのか。その答えだけが、残酷なほど明白だった。
「そっちだって、これくらいしか楽しみがないんだろう?」
フォアミアが思ったような反応を返さないからだろう。男はやけに饒舌だった。
「最近は出来損ないしか産めなくなっているらしいな。処分するという話も出ているらしいぞ」
「んっ……」
「下手すれば私の番で使い納めか……。長いお勤め、ご苦労だったな」
男の喉から鳴る不快な音が、ノミュラスの頭の中で否応なしに意味を結んでいく。
――不老長寿。魔力量。その価値のためだけに、妹は子を産まされ続けていたのだ。
そして、その価値を失ったから、処分――
「……っ」
考えがまとまるより先に、鉄格子の隙間から、フォアミアに向けて手を伸ばす。――しかし、格子に届くよりも手前で、見えない力に阻まれた。人間を通さない強力な結界があるらしかった。行き場を失って宙に伸ばされたままの手を、ノミュラスは握り込んだ。
――術者を探して殺す必要がある。
生成した氷の釘で、妹に覆い被さる男の脳天を撃ち抜いてから、ノミュラスは魔力の気配が多くする宮殿に向かうことにする。
冷たいのか熱いのか分からない頭の中で、「殺す」と「連れ出す」という言葉がグルグルと巡っていた。
◆
銀色の髪と堂々とした足取りに――全ての衛兵はノミュラスに道を開けた。そして去った後で今のは誰だったのかと囁き合う。
王宮の中心部であろう広間には5人、銀髪の人間がいた。――フォアミアの子孫だと思った。
「誰だ、貴様は」
その内の4人が魔法使いらしく、すぐさま臨戦態勢に入るが――侵入者は顔色を変えずに尋ねる。
「フォアミアを閉じ込めている結界の術者はどこだ」
「フォアミア?」
名前自体に心当たりのないような反応に、ノミュラスは不信感を抱いた。
「お前たちの母親か祖母……肉親だろう」
「……ああっ! “天使”のことか。アレは人ではなくただの道具だろう。閉じ込めるなんて物言いをされたら分かるものも分からなくなる」
「はぁ……?」
杖を構えたまま笑い出す男に、ノミュラスは呆気にとられる。そこに後ろの魔法使いが律儀に補足する。
「初代王が残した“天使”だからな。我らの祖ではあるが、同時に王家の所有物だ」
目眩がするほど不快な発言の連続に――ノミュラスの殺意めいた魔力が一気に膨れ上がるが、既に広間全体を覆っていた魔力にすら気付けない魔法使いたちは、妙な息苦しさを感じることしか出来なかった。
「……誰が、そんなことを言い始めた」
「誰も彼も、事実だろう」
――精神魔法で操られている様子はない。
ソウの死後に、フォアミアを貶めるよう糸を引いた人物がいるに違いなかった。
「ははぁ、なるほど。貴様は“天使”の仲間で、“取り返しに来た”という訳か」
「……私の質問に答えろ。結界の術者は誰だ」
考える気力も、会話する意思も失くしたノミュラスからの最後通牒だった。
魔法使いたちが返答せずに魔力を練り始めるのを見て、ノミュラスは瞬きをせずに長く、細く息を吐く。
「――もう良い。全員殺す」
ノミュラスの周りに、回転する氷の円刃が大量に生成される。場の全員がセオリー通りに火魔法を放つが――それを物ともしない強固な魔法によって、3つの首が刎ね跳んだ。
「ヒィッ!!」
唯一魔法使いではない女が広間の外に逃げ出そうとしたので、仲間を呼ばれても厄介だと思い、残った円刃で胴を切断しようとするが――
「逃げろッ!!」
残った魔法使いの男に、全魔力を注ぎ込んだ雷魔法で刃を弾き飛ばされた。
「……っ!」
「早く行けっ!」
女を庇うように射線上に立ち塞がった男に、もう一度氷の刃を放って、目から上を潰す。そこで騒ぎを聞きつけた衛兵や魔法使いが集まってきて、女を追う理由もなくなったので――後はもう――一方的な殺戮だった。
◆
一面の赤。鉄臭い空間には、銀色の頭も無数に転がっている。
「……」
首のいずれかが術者だったようで――王宮内の結界という結界が壊れる気配がした。
――早くフォアミアの元へ行かなくては。
「何だこれは。酷いな」
背後から聞こえる落ち着いた声に、ノミュラスは足を止める。
広間の奥から血の海を歩いて渡る男は銀色の髪をしていて、一瞬見間違えてしまうほどソウに似ていた。
「その瞳……分かった。伯父上か。母から昔聞いたよ。優秀な魔法使いなんだってな。見れば分かる。ははは、凄いな。返り血の一滴も浴びていないとは……」
フォアミアとソウの子供――そして恐らく、王としての実権を持つ者。身内の屍の中で平然としていられる時点で、ロクでもない人格の持ち主であることが窺える。――フォアミアを閉じ込めた張本人だと確信した。
「こんなに殺してくれて……また当たりを引くまで、産んで貰わなくてはならなくなった」
「お前が……フォアミアをあんな目に遭わせたのか」
「人聞きの悪い。全て合意の上だ」
「そんな訳が……っ」
男は鼻で笑ってから普段の定位置であろう玉座に座り――血と溶けかけた氷が外から差し込んだ光を乱反射させる空間で闖入者を見下ろす。
「あれは国のために奉仕しているのだよ。母の腹から生まれた我が兄弟は、皆この国の宝だ。魔力量、長い寿命、若い肉体……選ばれた血。たった今、随分と減らされてしまったがな」
――その言い分の裏側に、ノミュラスは別の事実を読み取っていた。地下牢の見張りが漏らした、出来損ないしか産めなくなっている、処分という言葉。何十年も母に子を産ませ続けねばならなかったということ自体が、この男が己一人ではまともな後継ぎを残せなかったことの証左だ。だが――目の前の男は、母親のことを言うばかりで、その挫折を語らない。語る気もないのだろう。
「何の為に、そこまで……」
理解したいとは微塵も思わないが、思わず口から疑問が溢れた。
「魔法だよ。魔法に勝る武力はない」
その一言を口にした時だけ、男の声に熱が混じった。
「父が興したこの国を、私は世界で最も強い国にする。父を支えた私の魔法は、王宮の、国の、世界中の誰よりも優れていた。選ばれた血を増やし、技術を独占し、弱き国を従える。それが私の成すべき事業だ」
――数十年前に魔導書の流通量が減ってきた頃、この国が魔法技術の独占を進めているという噂を耳にしたが、事実だったらしい。その力で他国を侵略し、領土を拡大してきたのだろう。
「伯父上も思ったことがないか?『何故、何の力を持たないゴミ共が権力者面をして蔓延っているのだろう』と。支配者は我々のように強大な力を持つ――選ばれし者がなるべきだろう?」
「頷くと思っているのなら、一度生まれ直した方がいい」
全てを拒絶する――最上級の憎悪が籠もる目で睨み付けてくる伯父に、玉座の男は片眉を上げた。
「はは、意外だな。弱い者なんてどうでも良いという殺しぶりだから、賛同してくれるかと思った」
広間の惨状を示して煽られ――ノミュラスの中に怒りと無力感が等しい熱量で湧き上がる。
――同じ言語を使っているのに、話が通じる気がしない。
それでもノミュラスは、心に留まっていた言葉を発さずには居られなかった。
「そんな下らない理想の為に、自分の母親を道具扱いしたのか……。フォアミアはお前の父を……お前たちを愛していたというのに……」
改めて、何度か届いた手紙に書かれていた甥のいずれかとの対面がこれかと思うと、遣る瀬無い気持ちになる。
「愛など何の力になるものか。百年前ならまだしも、あんな回復魔法しか使えない女、子宮以外に価値はない」
目の前の人間の本心を聞いたノミュラスは、自分の中の神の血が冷たく煮え滾るのを感じた。
あの時……していれば、もしも……だったら。別れ際にもっと強く引き止めていれば。ただの一度でも顔を見に来ていれば。そんな後悔が際限なく押し寄せ、渦巻き――単純な解決法が残る。
「――お前など、“なかったこと”にしてやる」
感情と連動するかのように、空中に氷の槍が次から次へと生成されていく。その様を眺めていた男は、ゆらりと玉座から立ち上がった。逃げ出すでも、命を乞うでもなく――両手を広げ、応じるように。
彼もまた建国の立役者であり――百年の繁栄を支えた魔導士。これまでの態度は、全てその自信から来るものだった。
「いいだろう。その力がどれほどのものか、見せて貰おう」
指を鳴らすと、男の足元から漆黒の魔法が噴き上がった。
放たれた氷の槍の群れが、迫る端から黒い炎に溶かされて消える。ノミュラスは数を増やし、角度を変え、執拗に撃ち込むが――男はその悉くを的確に処理してみせた。
「ははは、悪くない。が、この程度か」
血の海の上で、二つの魔力が真正面からぶつかり合う。氷の刃と黒い炎、白銀と漆黒。広間の柱が削れ、玉座が真っ二つになり、床が抉れ、冷たい水と血が飛沫を上げる。その光景は、恐ろしくも――美しかった。
(見事だ)
その構築の冴えに、ノミュラスは不覚にも見入ってしまう。目の前の男は、父親以外で彼が出会った、初めての同種の魔導士だった。膨大な魔力量も、天性の魔法操作力も、長い時間を掛けて育んだであろう、魔法への理解も、過不足なく一つ一つの所作に反映されている。
――もしも。出会った時期が違えば。この男と、魔法について夜通し語り合えたかもしれない。
ほんの一瞬、浮かんだその考えを、ノミュラス自身が誰よりも嫌悪した。こんな人間と、分かり合える筈がない。同じ血を引くという事実すら、認めてはいけない。
怒りで、迷いを塗り潰す。
「さァて。これで終わりにしよう――闇と狂気の饗宴」
広間中の闇という闇が一点に集い、無数の顎となってノミュラスへ殺到する。怒りも、嘆きも、正気すらも喰らって肥え太ったかのような魔法――術者自身の闇を現すかのような、彼の到達点。
――真の強者は相手に合わせる闘い方などしない。ただ、一方的な力で叩き潰すのみ。
白銀の髪が幾筋か闇に攫われる。しかし、それ以上は届かない。闇を弾くように佇む白い影は、ただ、二色の瞳で玉座を持たぬ王を見据えていた。
「……終わりだ」
ノミュラスは、ありったけの魔力で氷の刃を千ほど生成する。闇と光を吸い込んだ透明な結晶が、闇の中心へと向く。そこにあったのは幻想的な美しさを湛えた――約束された“死”の光景だった。
「何故だ……っ」
漆黒の奔流の向こうで、男が吼えた。それは劣勢に対する弱音ではなく、闘いながら噴き出した、剥き出しの本音だった。
「……ッ! 何故だ、何故、揃いも揃って、俺に逆らうッ!」
道の途中で――止める者を悉く手にかけ、辿り着いたのは誰にも届かぬ高みか、孤独の底か。それを知る者は居ないが、最後に向かい合った相手の瞳には、僅かに憐れみの色が浮かんでいた。
「……見くびる、なァ……ッ!」
魔力を全て、一筋の闇に変える。ただ一つ、魔導士としての誇りだけは、最期まで手放さなかった。――手放せなかった。
ノミュラスは最後の一撃に取り合わず、ただ静かに――断末魔が上がるよりも早く、骨の欠片も残らない程に細かく、無数の刃で執拗に、その血肉を切り刻んだ。
掻き消えた闇の残滓だけが、主を失った広間にしばらく揺らめいて、消えた。
「何が出来損ないだ……お前以上の出来損ないなどいるものか」
◆
フラフラと歩き出したノミュラスは――広間前の回廊で、フォアミアと鉢合わせた。
結界が解けたことに気付き、自力で地下室を出てきたのだろう。
百二十年振りの再会だった。
見た目に変化がないからこそ、やつれているのがよく分かってしまう。
「フォアミア……」
――長らく辛い思いをさせてしまった。けれど、大丈夫。自分たちには時間がある。いくらでもやり直せる。
「迎えに来るのが遅くなって済まなかった。全部終わったよ」
「……っ!」
フォアミアの瞳が見開かれる。
兄の姿。
その背後の血の海。
見知った髪色とそれ以外の、積み重なる亡骸――
「ア……」
言葉にはならなかった。
「ア、ア……! アアッ、アア……アア゛アア゛ ア゛アアァーーッ!!」
「フォアミアッ!」
そして、最後に笑って。
《パンッ!!》
耳を劈くような真っ赤な破裂音。
この日初めて浴びた返り血は、懐かしい温もりをしていた。
◆◆◆
「妹は、暴走した体内の魔力によって内側から破裂して死にました。私が軍総司令官の義肢を壊したの覚えてます? アレの人体版ですね」
「……」
「――あっけない再会です。言葉を交わすことも出来なかった。彼女は攻撃魔法が使えなかったので、魔力の発散が上手く出来なかったんでしょう。最期まで人を傷付けない、優しい子でした」
相槌も打たずに、腕を組んだまま押し黙っている主人の前で――終始淡々と語っていた豚が一息ついて、また語り出す。
「その後、私は王宮とその周りに居た人間の記憶を消し……何事もなかったかのように家に帰りました。文部大臣の予想通り、同時多発した発狂というのは精神魔法の影響ですね。何ぶん広範囲だったので、細かい調整は出来なくて――その時は、こんな国の人間など壊れて死んでも良いと、永く苦しむなら更に良いと思ったんですけど」
記憶が混濁しているのか、ノミュラスは85年前と感情が入り混じったような口振りで話していた。
「それでも記憶の残った人間がいたみたいで、話自体は伝わってしまったようですが……記録には残せませんよね。誰よりも強い王族が結界の強固な王宮内で皆殺しにされていたなんて。難を逃れて惨状を知った関係者は、彼らが疫病で死んだということにしたようです。現在の王はその時の生き残りでしょうし、子孫らしき子供も見かけましたし……喜んで良いのやら、討ち漏らしを恥じるべきやら」
数秒して我に返り「それから」と繋ぐ。
「逃げるようにして、それまで住んでいた土地を去り、ルシェイザナ神山に居を構えました。そこで、昔フォアミアがしていたように人助けなどをして――今に至る訳です。何人の人間を助けたからと言って、私の罪が軽くなる訳ではないのですが」
フゥと息を吐いて、困ったような眼差しで主人を見て言う。
「話したら少しだけ楽になってしまいますね」
――楽になってしまうから。
過去を隠した理由と同様に、かつての豚が死を選ばなかった理由があるとすれば、それだろうと思った。真実を一人で抱えることで、豚なりに罰を受けているつもりだったのだろう。主人だから分かった。
「私からの話は以上ですが、疑問は無くなりましたか?」
「お陰で、色々と合点がいったよ」
ルティエの中に細かい疑問は残っていたが、今はまだ聞かなくて良いと思い、組んだ腕を解く。気付けば、外から雨の音が聞こえなくなっていた。
「――軽蔑しましたか?」
ノミュラスは主人の顔色を窺うでもなく、予め用意していた質問をその通りに口にした。ルティエもまた、決まっていたかのように、間髪を入れず素の口調で答える。
「しない。豚を責める権利があるのは、関係した人間だけだ。私は生まれる前の他国の出来事にまで責任を負えない」
「……そうですか」
少し残念そうに、安堵したかのように呟いた豚の視線が、ルティエを通り抜けて遠くに移った。
「思い出しついでに、反省などをしてみるのですが……私は、フォアミアだけが家族のつもりでいたんですけど、彼女にとっての家族はとっくにあの王家だったんですよね。骨の一欠片も持ち帰れなかったのは、心の底でその事実に気付いていたからで、精神魔法を使って逃げたのは、それを認めたくなかったからだと思います」
――王都からの帰り道、一度も後ろを振り返れなかったあの日に、後悔も、罪も、妹のことも、全部置いてきた。
新たな住処の雪山は、静かで、綺麗で、真っ白で。やり直せはしなくとも、時間を止めるのにはピッタリだと思った。なのに――
「……長いこと、可能な限りこの国に関わらずに生きてきました。だから主が私の元に来て『王国』の名前を出した時、何の因縁かと思いましたよ。縁起でもないので、手当てをしたら離れた町の孤児院に預けようと思っていたんですけど――真面目な顔をして「血を流さずに復讐したい」なんて言われてしまって」
子供の頃の決意を笑われ、主が不快そうに眉を顰めるのに気付かない振りをして、豚は続ける。
「甘いと思いました。子供の戯言だと思いました。けれど、そう言った時の主が余りにも高潔だったので――気が付いたら跪いていました。――見てみたいと思ったんです。血を流さずに復讐の連鎖を断ち切るのを。したいと思ったんです――その為の手助けを。自分から何かをしたいだなんて気持ちが湧くなんて、残りの人生では無いと思っていました」
十年前と変わらないその微笑みに、ルティエも出会った時の――足元で靴を舐める豚を思い出していた。
――裏があるんじゃないかと何度も疑った儀式のようなやり取りが本心からのものだったと知り、胸のつかえが下りたような、くすぐったいような気分にさせられる。
「フォアミアが死んだ時に……死ぬまで守れなかった時に、長寿である意味なんて失ったと思ったんです。フォアミアを守る為に身に付けた力で、彼女の大切なものを……彼女の命を奪ってしまった時に、強さなんて無価値だと思ったんです。なのに生き長らえて、主に出会い、この力を使える」
主人としっかり目を合わせて、はっきりとした声で彼女の豚は伝える。
「主の役に立てることが本当に嬉しいです、幸せなんです。私、一人で居たせいで沢山間違えましたけど、もう間違えたくないから主に付いて行くんです」
「……責任重大だね」
――この道が正しいかなんて、誰にも分かりはしないというのに、豚は付いて来てくれる。自分が復讐心によって多くを失ったというのに、成せるかどうかも分からない別の形の復讐を信じてくれる。
ルティエは一度だけ強く唇を結んでから、口角を上げ――ゆっくりと口を開く。
「豚。私の復讐を止めないでくれてありがとう。きっと、私の家族も止めなかったから。私のやりたいようにやらせてくれたから。私も、一人ぼっちになった先で、家族みたいな人に会えて嬉しかった」
「……豚冥利に尽きますね」
主人の言葉を受けた豚は手のひらで両目を押さえたり、口を押さえたり、額を手で支えて項垂れたり、もう一段深く項垂れたりしてから姿勢を正す。
「あー、駄目です。抱き締めたい。主、今夜は一緒に寝ませんか?」
「良いよ」
快諾したルティエは、自分の枕を取って豚の寝床に移動した。
「ちなみに今日の分のご褒美ね」
「えー……ありがとうございますぅ?」
そして一足先に布団に潜り込んでから――今ひとつ納得がいっていない様子の豚に、呟くように話し掛ける。
「豚の妹だけど……別に家族を奪われたことが悲しかっただけじゃないと思う。家族の……兄にそんなことをさせてしまったことが苦しかったんだよ。話せたなら、助けに来てくれたお礼を言いたかったはず、きっと」
「……主が言うなら間違いないですね」
ランプの火を消してから、ノミュラスはベッドに向かった。
◇
◆◆
◆◇◆
――フォアミア。
また一緒に暮らせるようになったら、話したいこと、聞きたいことが山程あったんだ。
百年かけても生きる目的なんて一つも見つからなかったことを笑い話にして、認めたくないけど私の生きがいはフォアミアを守ることだったんだと、少しだけ素直になりたかった。
他人と二人で暮らすというのは、子供を育てると言うのはどんな感覚なのかと、普通の人間らしい生活の中にはどんな楽しい出来事があったのかと、百年分の思い出を聞かせて欲しかった。許されるなら子孫に会いに行って、彼らの口から私の知らないフォアミアの話を聞いてみたかった。
これからも死ぬまで守るけど、またやりたいことを見つけたら何度だって出て行って良いから、何度でも戻っておいでと言いたかった。
◆◇◆
◇◆
◇
――後ろから抱き締める豚の手が小刻みに震えているのに気付いたから、上からそっと手を重ねる。震えは止まらなかったけど、止まるまで触れていようと思った。




