最終話 夢の果てに
長い夢を見ていた。悪夢だったり、幸せな夢だったりもした――90年よりは長く、100年よりは短い夢だった。
頭の中にある最も古い記憶は、一番上の兄の声だ。
「何だ、また出来損ないか。殺しても良いが……そうだな……使い道が見つかるまではシュラナム。貴様のところで面倒を見ろ」
「出来損ない」と言ったその人の気まぐれにより生き長らえ――王都から少し離れたシュラナム家の領地で、異父兄のカイツと、その異母弟のニーシェと共に育てられることになった。
◆◆◆◆◆
「王宮になんて行きたくない」
幼き日。叶うはずのない、大人には言えないワガママを3つしか違わない兄にぶつけたことがある。
「ワガママを言ってはいけないよ。家の皆にも迷惑が掛かってしまう」
「だって、王宮の人たちは冷たい。……■■が“出来損ない”だから」
「……僕だって同じだ。■■だけじゃないよ」
5歳になってからは月に一度、魔力の検査の為に王宮へ連れて行かれるようになった。普段は王族扱いされないのに、この時だけは“王族らしさ”を求められたので、良い思い出は少ししかない。
◆◆◆
「お兄様、どこ……?」
王宮の庭で見つけた小動物を追う内に迷い、暗くて知らない場所に辿り着いた。近くにあった古い建物を見ると、低い位置に鉄格子がついた窓があった。物珍しかったので覗き込むと――中にいる銀髪の女の人と目が合った。びっくりして、身体がビクリと跳ねた。
「……んっ」
こちらの様子を見て、喉を押さえた女の人が話し掛けてきた。
「んん……こんにちは。あなたのお名前は?」
「■■……」
名前を聞いて少し驚いたような顔をしてから、女の人はすぐに優しい笑みを向けてくれた。生まれてから今まで、大人からこんな表情を向けられたことがなかったので、ますます目が離せなくなった。
「そう……大きくなったのね。もう5年は経ったかしら」
「あなたは、■■のお母様!?」
自分と同じ髪と瞳の色、5年という言葉から確信した。頷いた様子を見て、鉄格子の向こうの母に手を伸ばした。すると格子の間に電流が走り、痛みと驚きで思わず泣いてしまった。
「〜〜っ!」
「ああっ! ごめんなさいね。人間は通れないって、もっと早く言えば良かった」
赤くなった手を押さえ、ぽろぽろと涙を溢していると、母が室内にあった椅子を足場にして、こちらへ手を伸ばした。
「手を貸して。結界を越えないように気を付けてね」
鉄格子越しに、見えないけれど優しい力が傷を癒やした。
「大丈夫?」
「……痛くない。お母様は魔法を使えるの?」
「回復魔法だけだけどね。今は珍しくないでしょう?」
少し悲しそうに笑った理由は分からなかったが、その時ちょうど夕方の鐘が鳴った。集合時間に遅れると叱られてしまうので、ソワソワと体が動いた。帰らなくてはという思いと、帰りたくない気持ちが同じくらいあった。
「■■は王宮の外で暮らしてるのよね。もう帰る時間かしら」
「うん」
「それなら正門は向こうよ。真っ直ぐ進めば分かるからね」
「あの……お母様!」
「なぁに?」
「今度はお兄様、カイツお兄様も連れてくる!」
「……うん、楽しみに待ってるね」
何度も何度も振り返って母の姿を確認した。ずっと優しい顔で手を振ってくれていた。
◆◆◆◆◆
「イマト」
「おお! 姫さんに坊っちゃん。来てたのか」
何十年も王宮の警護隊長をやっているイマトは、銀髪だけれど王族ではないから、自分たち兄妹にも分け隔てなく接してくれた。
「実は先月、■■がお母様にお会いしたらしいのだけれど……」
「場所が分からなくなってしまったから案内して欲しい」
「王妃様に会ったのか!?」
イマトは初めて見る真面目な顔をしていた。
「いけなかった……?」
不安に思って尋ねると、イマトは「いや、そういう訳じゃないけど……」とバツが悪そうに頭を掻いた。
「王宮で生活する人間は、あそこに近寄らないように言われるから」
「……」
お兄様と顔を見合わせる。さっきまでは母に会えると浮足立っていた兄も、心配そうに目を泳がせていた。
「あーあー! そんな顔をするな。任せろ! 2人が王妃様に会ってる間は何人たりとも邪魔させねー」
「でも、イマトが一番上の兄から怒られてしまう」
「良いんだよ。子供が母親に会いたがるなんて当たり前だ。それにバレやしないよ。王宮の警備に関して、オレより詳しい奴なんていないんだから」
イマトは「他の人間には言うなよ」と笑って頭を撫でてくれた。
◆◆◆◆◆
「お母様と、お外で一緒に暮らしたい」
「……」
月に一度会えるか会えないかの密会が始まって、3年が過ぎた頃だった。シュラナム家の人間は優しいが、やはり血が繋がらない分壁を感じた。横にいた兄は頷くように俯いて、いつものようにワガママを咎めなかった。
「…………ごめんね」
悪いのはお母様を閉じ込めている王宮の人間だ。直接は言われなかったが、そう理解していた。
「■■が出来損ないじゃなければ、王宮に住んでお母様と毎日会えるのに」
「出来損ないなんかじゃない」
「でも、一番上の兄が……」
母は、その人の話題になった時に一段と悲しそうな顔をした。
「……みんな同じ兄弟なのだから、仲良くしてね」
「……」
「はい。お母様」
黙っていたら、兄が代わりに返事をした。お母様が笑顔になったので、嘘でも頷くことが正解らしかった。お兄様はいつも正しい。
「わたしね、■■とカイツが王宮で暮らしていなくて良かったって思ってるの。それだと、きっと一生話をする機会がなかったから」
結局、最後まで母が何の為に閉じ込められているのか、誰も教えてくれなかった。
子供には早すぎる話であったし、知ったところで無力感に苛まれるだけだから、当時の大人たちの判断を理解できなくはない。ただ、少しでも母の苦しみを理解していればもっと多くのものを返せたのではないかと、今でも思う。
◆◆◆◆◆
「お母様にもお兄様がいるの? ■■と一緒!」
兄の検査が長引いて一緒に来れなかった時に、母が自分にだけ教えてくれた。その全てを覚えているわけではないが、伯父の姿を想像したのは覚えている。
「どんな人?」
「見た目はね、わたしと同じ銀色の髪だけど、目の色が左右で違うの。右目が紫色で、左目は緑色」
「半分は■■とお母様と一緒!」
指で両目を示すと、母は「一緒ね」と言って笑った。
「中身はねぇ……素直じゃないけど、とっても優しくて、とっても強いのよ」
「強い? それなら助けてもらえば良い! イマトに頼んで手紙を……」
「駄目よ!」
大きな声を出され身をすくめた自分に、お母様は喉を押さえて詫びた。
「……ワガママを言って出てきたから、合わせる顔がないの」
伯父もこの状況を知ったら、そんなことを気にしてはいられないのではないかと思った。
顔に出ていたのか、母は伯父を頼らない理由を重ねていった。
「いいのよ。やりたくてやってることなんだから。わたしはこの国の初代王妃だもの。あなたたちも、この国も。同じくらい大切なの」
名案が立ち消え、しゅんとする自分に母はいつものように「でもね!」と明るく声をかけた。
「もしも外でわたしのお兄ちゃんに会うことがあったら、わたしは元気でやってるって伝えてね」
「必ず会いに行く! 十歳になったら、お祝いにどんな願いでも叶えてくれるとシュラナム家の人たちが言っていた! その時の願いはそれにする!」
許しが出ないことを、母はきっと分かっていた。
「それは楽しみねぇ。きっと■■のことを可愛がってくれるよ。お兄ちゃん、子供が好きだから。なのに、いっつもしかめっ面だから怖がられるの。笑えばいいのに……きっと仲良くなって別れが来るのが怖いのね」
◆◆◆
ある日、屋敷の大人たちが慌ただしく動き始めた。大人しくしているように言われた部屋から兄と一緒にこっそりと出て、ニーシェの元へ行った。
「君は聞いているんだろう? 何があったか、僕たちにも教えてくれないか」
青い顔をしたニーシェは周りを気にしつつ、小声で状況を教えてくれた。
「王宮にいた皆が亡くなったという話で……」
言葉を失ったお兄様の隣で、一番の関心事が口から出た。
「お母様も……?」
◇◇◇
内務大臣から『王の所在地』として説明を受けたのは、謁見の間や居住区画などがありそうな中心部ではなく――植物園にほど近い位置にある離れだった。外観も植物園のようなガラス張りのドーム天井が目立つ。
――療養場所ということだろうか。
魔法で堕としてある以上、嘘を吐いているとは思わないが……違和感を拭い去れないまま、ルティエは扉を開ける。
「……」
鳥籠のような空間の中心に銀髪の少女が立っていた。他に人は居ない。
「――王か?」
「ホージュは?……死んだのか?」
振り向いた少女は、質問には答えずに質問を返した。表情からは何の感情も読み取れない。
「眠って貰っているだけだ」
――『裏切ったなどと感じられたら、可哀想じゃないですか』
少女を王と仮定して、ルティエは最後の豚との約束を律儀に守った。
「ホージュからは、ここに知らぬ人間が来ることがあれば、“死んだ”か“操られた”と思って良いと常日頃から言われている。死んでいないのが本当だとすれば、操ったか」
――食えない男だ。と、ルティエの頬が引きつる。
「希望を持たせるようで悪いが……特製の強力な精神魔法だ。誰にも解けないし、私を殺しても解けない」
「そうか。余は羽をもがれたようなものだな」
少女はガラスの天井から覗く空を数秒見上げ――ルティエの方を向いた。
「質問の答えだが……如何にも。余が王だ。お主は、命でも取りに来たか?」
「話をしに来た」
その温和な申し出に――気が抜けたのか愉快に思ったのか。王と名乗る少女は、ほんの少しだけ口元を緩める。
「余はシュシュという。お主の名は?」
「ルティエ。――ルティエ・ミェ・カドゥリエ」
本名を言ってみるが、特に反応は返って来なかった。
「ルティエか……。何の話がしたい。天気の話ではないだろう」
「今日は空が暗い」と呟くシュシュに、ルティエは静かに問い掛ける。
「王というのは『カイツ・トルヴァ』。生きていれば96歳の老人だと聞いている。……貴様は何者だ」
――記録上の王が生きていないことは察しがついた。だが、系図に載っていない年頃の、この人間が誰なのかは見当もつかない。
「余はカイツの妹だ」
あまりにも自然に告げられた言葉に――ルティエは頭に叩き込んである系図を何度もなぞる。
「王に妹など……」
「そう。存在しない。生まれてこの方、余のことは限られた人間しか知らぬ。特にここ85年は名もなき王族の子供として、幽霊のように生きてきた」
――85年。銀色の髪。
不老長寿に疑いはないが、本人が言うように見た目はとても大人には見えなかった。
聞き覚えのある数字から王の実年齢を概算したルティエが、“神の血”の不思議に思いを巡らせていると――誰かに身の上を明かすのが初めてだったからかも知れない。王は、問われた以上のことを語り始めた。
「初代王妃――フォアミアが余と兄の母だ。父親は違うが、どちらも『出来損ない』でな。王族とは認められず、トルヴァ姓も与えられなかった。王都の外で育てられていたが――イントルヴァ王国の最期に、王族が皆死ぬか狂うかして呼び戻されたのだ」
「出来損ない……」というルティエの呟きに、シュシュは「そうだ」と小さく頷いて補足する。
「母の子供の多くは膨大な量の魔力を持ち不老だった。だが、兄……カイツに限っては魔力を持たず不老ではなかった。それでも銀色の髪は都合が良かったから、担がれて王になったのだ。余は魔力も無く……見ての通り、大人になれぬ身体の、本物の出来損ないだ」
無表情で卑下する少女に複雑な思いを抱いたルティエは、無意識に眉をひそめていた。
「銀髪の王族……他にも残っているのか?」
「余が最後の一人だ」
内務大臣の言う――彼以外に味方が居ないという話に信憑性が増す。
「あの時に生き残った銀髪の人間は、余と兄と、余の姪にあたる女性と、今の魔法大臣の曽祖父と……完全に精神が壊れた2、3人くらいだった」
「姪……例の日記の著者か。系図がデタラメというだけあって、“叔母”じゃないんだな」
「彼女も魔法が使えなかったからか、余と兄に優しかった。心を病んだ後も、何度も会いに行った」
シュシュは懐かしそうに――かつて彼らと触れ合ったであろう庭の方向に目をやった。
――一族そのものに思い入れはなくとも、この王は確かに、大切な誰かを惨劇で喪っている。
ルティエは一つ尋ねたくなる。返答次第では、自分の芯が揺らぐかもしれないと分かっていても。
「――王族を皆殺しにした犯人を知っているか」
「余の伯父だ」
予想していたどの反応とも違ってアッサリと言い放つので、ルティエは面食らった。
「伯父上は母を迎えに来たのだ。失敗して、母もその時に死んでしまったが」
「……恨んではいないのか」
「恨んでなどいない。母が『好きで他人を傷付けるような人ではない』と言っていた」
「母? 初代王妃は長らく幽閉されていたと聞いた。どこで接点を持った」
「知っていたのだな」と、少し意外そうに目を瞬かせ、王は答えた。
「余と兄は月に一度、所用で王宮を訪れていた。その折に格子越しに話をしたものだ。――幸せなひと時だった」
心なしか声が弾むのを聞き――ルティエは、ギュッと手に力を込めた。
「……貴様のことは分かった。そんな人間がどうして王の真似事などしている」
「兄が20年前に亡くなってから――余はホージュの協力の元、兄の代わりとなった。王として表に出ることは出来ぬから、兄の死を隠し――兄が生きていたら百になった、あと4、5年を期限にして」
ルティエの「何故」と問いたげな視線を察して、シュシュは引き続き答える。
「さっきも言ったが、余と兄には姓がない。都合で与えられた姓などに、思い入れはない。
だからこそ兄は王座についた時、国の名を『王国』と改めた。僻みではない。矜持だ。
姓を名乗ることを許されずとも、余と兄は母の子なのだから。母の愛したこの国は、我々のものなのだから。
兄が道半ばで倒れたのなら――妹の余が、その理想を叶えるだけだ」
「……」
「母は国を一つにするために子を産まされ続けた。兄が……余が成せなければ母は何の為に、あんな風に生かされたのだ」
本音を吐き出したシュシュの――動きに乏しい表情が目いっぱい歪み、ルティエも釣られるように顔をしかめた。
――哀れだとは思う。
だが、それで終われる話ではなかった。
「貴様の言い分は分かった。だが……その理想のために、犠牲になった人間が多くいる。私もその中の一人だ」
「お主の目的は復讐か。余の国に親兄弟でも殺されたか」
「ああ。この国を落として、私の家族を、私の国を返して貰う」
「そう簡単にくれてやる訳にはいかぬ。いま一歩で悲願が叶うのだ。余と兄の努力を……母の苦労を無駄にはさせない」
「85年掛けて無理だったのだから諦めろ。4、5年など誤差だろう」
ルティエの皮肉を聞いた王は、澄んだ声を低くして凄む。
「お主こそ4、5年が待てぬのか? その後でなら余も諦める。処刑でも何でもするが良い。――誰にされるかの違いしかない」
紫色の大きな瞳には悲痛な覚悟を湛えていた。ルティエもまた、決意を込めた静かな声で返す。
「まだ無事な国がある。土地がある。人がいる。これ以上犠牲にさせてたまるか」
「大した正義感だ。お主は優しいな」
「復讐のついでだ」
ルティエは軽く笑い返してから、目の光だけを落とす。
「それに――待てない。この国を落とせなければ、私は数か月後に死ぬ」
かつて魔法の習得の為に苦心させられた経験のあるシュシュには覚えがあった。
「……制約か。そんな代償を払ってまで復讐を望んだか」
「望むよ。その為に生きてきたんだ。生き残ったんだ」
「お主も余と同じか……」
――同じ。
対話を始めた後より、頭から何度も振り払った言葉が仇敵の口から出て、ルティエの心が大きく揺さぶられる。
ルティエは、シュシュの行動原理に理解を示し始めていた。
女という性別、魔力を持たない、天涯孤独、子供の頃から、失った家族の為、命懸けの――
憎み通すには余りにも共通点が多すぎた。
――復讐なんて何も生まない。
クズ豚の声で、姉上の声で、マゾ豚の声で、トラーンの声で、色豚の声で、兄上の声で、父上の声で、イーノの声で、母上の声で――
ルティエは強く目をつぶる。
――かも知れませんけど、すると多少はスッキリしますから。
「……」
ゆっくりと開いた目には迷いなどなく、強い信念が宿っていた。
「何と言われようと――私はこの国を落とす」
ルティエがしに来たのは“話し合い”などではなく強制じみた“説得”なのだと、王は痛感させられる。
――ホージュを抑えられた今、たとえこの場から逃げ延びようと――目の前の女を討とうと。自分には王国を動かす術が残されていない。唯一の活路があるとすれば、ホージュに掛けられた精神魔法を解くことだが――ルティエは「誰にも解けない」と豪語していた。
(誰にも解けない……)
昔、必死で勉強した魔法の仕組みを思い出す。どんな魔法でもいつかは効力を失うと習った。
――本当に、絶対に解けない魔法など存在するのだろうか。
追い詰められたシュシュは、1つの可能性に行き着く。
「……お主が王になろうとも新たな問題が起き、新たな争いが生まれ――亡き後には悪政が敷かれるかもしれない。お主の理想など長くは続かぬ。それで良いのか?」
「私は死んだ後のことにまで責任を負えない。後世の問題は、後世の人間が解決すべきだ」
「――ホージュに掛けた魔法。お主が死んだら解けるのか」
鈴を転がすような声がリンと、ガラスの広間に響いた。
自身の魔法に対し『私を殺しても解けない』と言った人間の矛盾が、そこにはあった。
『死んだ後のことにまで責任を負えない』――そんな考え方の人間が、自らの死後に効果が波及する魔法を作らせる筈も、習得する筈もない。
「……っ」
言葉を詰まらせるルティエの様子に確信を得たシュシュは、柔らかい声を出す。
「そうか……余の、カイツお兄様の……お母様の夢はまだ終わっていないのだな」
ルティエの脳内で、取り繕うための言葉が生まれては『不可』の印を押され、差し戻される。その度に鳩尾のあたりが熱くなり――耳に届く音が極限まで絞られ、鼓動がどんどん早まっていく。
「ホージュは違うと言うが、余の手も充分汚れている。お主1人増えたところで何も変わらぬ」
「……“殴り合い”でもするか?」
スッと片腕を天に伸ばす王を見て、ルティエはナイフの柄に手を掛けた。
「余は魔力を持たない。だが、魔力を使うことは出来る」
――惨劇の後。せめて自分くらいは自分で守れるようにと、お兄様が、皆が、付きっきりで授けてくれた、たった一つの武器。
《ピシ、ピシピシ……》
透明な天井が軋む。
名前の付けられない、大気中の魔力の暴走現象。意図して引き起こせるのなら、それは新たな魔法と呼べるかもしれない。
「家族の元へ送ってやる」
――『無名の権威』
鳥籠状の枠が震え、空間を覆う全てのガラスが破片となって留まり、ルティエ目掛けて放たれようとしていた。
何もかも間に合わない。避ける術も、防ぐ術も、ルティエは持たない。残された手は、たった一つ。
――“殺す”しかない。
強すぎて、当たり前に溶け込みすぎて制約にすら使えなかった不殺の誓いが、ルティエの目の前で、音を立てて崩れ落ちて行く。
『誰も殺さない。血は流させない』
八つの子供が、吹雪の中で立てた願い。悲しみが悲しみを、憎しみが憎しみを生む連鎖を、自分の代で終わらせる――その芯が今、他ならぬ自分の手で折られようとしていた。
ルティエは鞘からナイフを抜き、切っ先を真正面へ向ける。
(最後の最後で、同じところに堕ちるとはな)
地面を蹴って、王の懐へ飛び込んだ。
――その、瞬間。
《パキパキ……パキッ……》
ガラスが、薄氷が割れるような音――
ルティエ目掛けて放たれるはずだった無数の破片が、宙で凍てつき、行き場を失う。
《キィ――――ンッ》
次いで――甲高い、氷と金属がぶつかるような音。
――――雪に包まれた破片が、キラキラと光りながら、ゆっくりと地面に積もっていく。
故郷の雪山にも似た幻想的な光景の中、ルティエは倒れ込む王を抱き止めた。
「お母……様……」
「……」
綺麗なままのナイフを鞘に戻し――主人は、広間の入り口に立つ人間へ声を掛けた。
「豚、命令違反だよ」
「後でお仕置きしてください」
◇◇◇
ルティエとノミュラスは肩を並べ、床に寝かせた小さな王を見下ろしていた。
「殺したわけじゃないよな」
「防御のついでに体内を冷却しました。命に別状はありません。じきに目を覚ましますよ」
緻密な魔法操作は苦手だと言い張っているのに、そんな器用な芸当を一瞬の判断でやってのけるのが豚だった。
「彼女が王だったんですね」
「豚の姪だそうだ」
――フォアミアの子供の頃に瓜二つだった少女。
以前に会った時には読み取るほどの魔力を感じられなかったが――触れてみると微量の魔力からその近似性が窺える。
「母親の為に、兄と二人で大陸制覇を目指していたらしい」
「子供らしい馬鹿げた考えですね」
「90歳を超えているようだが……」
「私からしたら子供です」
中身は見た目相応のようだから、間違ってはいないのか……などと考えたルティエは、我に返って肝心な質問をする。
「いつから見ていたんだ」
「最初からです」
「それを先に言え。余分に説明してしまっただろう」
尻に強い蹴りを入れられ、豚は謝罪と歓喜の声を上げた。足を下ろしたルティエは目を伏せる。
「……結局、豚の力に頼る羽目になってしまった。私は詰めが甘いな」
「私は単なる道具ですから、主1人のお力ですよ」
ルティエは一瞬だけ口を開きかけて、言葉を飲み込んだ。
「……詰めというのは語弊があった。無力化はしたが、説得はまだ済んでいない」
「もう勝ちは決まったようなものだと思いますが、随分と“形”に拘るんですねぇ。もっと柔軟に……ん゛ゔっ♡ おかわりっ♡ ありがとうございますっ♡」
そうこうしている内に、王が意識を取り戻した。薄く目を開けると、傍らに立つ銀髪の男を見つめる。
「……貴方は」
「また会いましたね。シュシュ。私は貴女の伯父です。前に会った時には気付けなかったのですが」
「余は気付いていた。だから名乗った。母に聞いていた通りの人だったから」
「……」
体を起こして立ち上がろうとするシュシュに手を貸して、豚は主人に許可を求める。
「主、すみません。説得の前に二人で話をさせていただけますか?」
ルティエは頷いて、少し離れた位置の壁にもたれかかった。未だぼんやりしているシュシュを、ノミュラスは気遣う。
「体の具合はどうですか?」
「問題ない。屋根がなくなったから、少し寒いな」
曇り空が、ほとんど骨組みだけになった天井から覗いていた。床に積もった溶けかけの氷から立ち上る湿気た空気が、何処へともなく逃げていく。
「……伯父上が、ルティエを手伝っていたのだな」
「ええ。貴女を止められて良かったです」
シュシュはどこか恨めしそうにノミュラスを見た。眼差しに込められた思いを敢えて無視して、伯父は真面目な顔を作る。
「貴女に一つ言っておきたいことがあります」
「……何だろうか」
「領土の拡大はフォアミアの為だと言いましたが、彼女は、そんなことを望む人間じゃなかった。もっと身近で単純な……貴女たち子供の幸せを願っているだけの人間だった」
――最初に大陸全土の支配を望み、自身を利用した長男でさえも、彼女にとっては可愛い子供だった。長男に怯えながら生きた弟妹たちも、産んだ後に一度も顔を見ることのなかった子供たちも同じだ。だから、言われるがままに耐え忍んだ。
「フォアミアは、人を救うのが生き甲斐でした。王妃になった後も、心は同じだった筈です。なのに、多くの人間を傷付ける侵略行為を母の為だなんて言うのはやめなさい。フォアミアに代わって私が怒りますよ」
氷のような目で睨まれ、慌てて俯いたシュシュはフルフルと震える。怒鳴られた訳でも罵られた訳でもなかったが――人生で叱られた経験のない彼女は、身がすくむ思いがした。
「違う……余は……」
反論しようとして、言葉が続かなかった。
本心から母の為だと思っていた。兄もそう言っていた。そう信じていた。
けれど、伯父の言葉を否定できない。
「少しでも自分が悪いと思ったら『ごめんなさい』ですよ」
「……ごめん……なさい……」
「……顔を上げてください」
頭にポンと手を置かれ、上を向く。伯父はもう怒った表情をしていなかった。
「お説教はこれで終わりです。あとは……貴女に尋ねたいことが幾つかあります」
シュシュがコクリと頷くのを見て、ノミュラスは深く呼吸してから問い掛ける。
「…………本当に、85年前の件を恨んでいないんですか?」
――彼女の血族を奪った災厄。存命する――被害側唯一の当事者であるシュシュには、ルティエの理屈で言うところの『豚を責める権利』があった。
ルティエに答えたばかりの質問を伯父からもされ、シュシュは「またそれか」と小さく呟く。
「恨んではいない。余も母の置かれている環境には疑問を抱いていた。死を以って解放されたのであれば、それも一つの幸福だと思う。母は……最後はあの部屋から出られたのだろう?」
「……はい」
「なら良かった。お母様には空の下が似合うと、ずっと思っていたから」
――フォアミアの最期を知らないからこその言葉なのだろう。それでも、その前向きさは少しだけ心を軽くした。
「死んだ中には、貴女の大切な人もいたのでしょう?」
「いたにはいたが……一番上の兄以外の、見て見ぬ振りをして来た人間を同罪だと感じる伯父上の怒りも尤もだと思う。イマトもそう言っていた」
あまりに自分に都合の良い考え方に――ノミュラスは「精神魔法でも掛かっているのでは」と目を凝らす。だが、何も見えない。――その心は、透き通り過ぎていた。
「……貴女も、復讐の連鎖を終えられる人間なんですね」
肩の力を抜いた豚は――主人に意識を向けた後、姪を見つめる。
「ありがとうございます」
礼を言われる心当たりのないシュシュは、キョトンとして次の言葉を待った。
「生きていてくれて、ありがとうございます」
「……何を言っているか分からない。余など何の役にも立たない……国も守れない、母の血も残せない……本物の出来損ないだ」
――今となっては世界でたった一人、母親の血を受け継いでいる自分。だというのに、次に繋ぐことはできない。シュシュはそれが堪らなく辛くて悔しかった。
だから代わりに母の愛した――母が繋いできたこの国を、自分の手で完全なものにしたかった。それが、人生で十数度しか会えなかった母に出来る、唯一の孝行だと思っていたから。
「国は形が変わるだけです。血なら……他でもない貴女が残っているじゃないですか。100年近く生きていてくれたじゃないですか。フォアミアの生きた証を奪ってしまったことを悔やんでいた私は、それだけで救われます」
もう一度「生きていてくれて、ありがとうございます」と言う伯父の前で、シュシュは呆然とする。
「余が、生きているだけで……?」
「ええ。今までよく頑張りましたね」
「……っ!」
――ずっと求め続けていた言葉1つで、何十年も満たされることのなかった心が一杯になる。
「っ……うぅ……」
「シュシュ」
――名を呼ばれ、頭を優しく撫でられれば――流し方を忘れかけていた涙が止めどなく溢れ出す。
「うぁ……うあぁぁ………っ!」
――――ずっと寂しかった。
生まれた時から当たり前になっていた寂しさを、隣で分かち合って来た兄を失ったら、寂しくて仕方がなかった。
――――いつか褒めて欲しかった。
あの世で良いから、母や兄に「頑張った」と撫でて欲しかった。汚れた手を包み込んで、ただ笑って欲しかった。
「ああぁ……っ! お兄様ぁ……お母様ぁ……っ」
ノミュラスは屈んで、咽び泣くシュシュに目線を合わせる。
「何か叶えて欲しいことはありますか?」
ポロポロと涙を流しながら、詰まりがちな言葉で懸命に伝える。
――お母様に会いたい。
――お兄様に会いたい。
――優しくしてくれた人たちに、もう一度会いたい。
――ホージュとずっと一緒に居たい。
――王宮の外に行きたい。
――沢山の友達を作りたい。
――大人になりたい。
ノミュラスは、全ての願いに「はい」と答えていく。
「全部叶えましょう。私たちには時間があるんですから」
両袖で涙を拭い、鼻をすすってシュシュは言う。
「余は、いつまで生きられるか分からない……こんな身体でも、もう93歳だ」
「いつまで……そんなことを誰が言ったんですか?」
「お兄様が、普通の人間と変わらない寿命だったから……」
「身近にいた人間を見て、そう思い込んでしまったんですね。貴女の寿命は少なく見積もってもあと200年はありますよ。私は人の魔力から、おおよその寿命を推し量れるんです」
自分の残り寿命を知らされ――驚きのあまりシュシュの涙が一時的に引っ込んだ。
壁際で見守っていたルティエが、一歩、二人の方へ歩み寄る。
「……そんな真似が出来たのか」
「ええ。誰にも話したことはありませんでしたが」
「余……は……」
言葉を失い瞳を揺らす姪へ、伯父は静かに微笑みかけた。
「それだけじゃない。貴女は、体質も含めて貴女の兄とは違う人間です。――誰かの為、誰かの代わりなんかじゃなく、自分の為に生きて良いんですよ」
「――っ!」
その反応だけで十分だった。
――自分が似たようなことを言われた際には理解出来なかった言葉を、この子は一瞬で理解した。だから大丈夫――すぐに変われる。
「……母親に似て、強い子ですね」
「う……うぅ……うあぁ……伯父上ぇ……っ」
泣きじゃくるシュシュを抱き締めてから、豚は主人の方を向いた。
「主。国を落としたら王を追放なさるつもりでしたよね」
「ああ。国が亡くなるのに前王が残るというのもおかしな話だからな」
自分の顔を見つめてくる二人に目を細めた後、ルティエは口元に笑みを浮かべる。
「だが、前言は撤回する。シュシュ、お前はここに居ても良い。ただし、交換条件だ。――この国を貰い受ける」
ノミュラスの腕の中から、僅かに掠れた――凛とした声が発せられる。
「お兄様の……余の国を、大切にしてくれるか?」
「ああ、約束する」
お気に入りの人形を受け渡すように、好物の菓子を分け与えるように、描きかけの絵を託すように――少女たちは約束を交わした。
「豚」
「はい」
「分かっているとは思うが、ここからが本番だ。体制の安定、周辺諸国との和平、奴隷の解放……やることは山積みだ。反乱や小競り合いもあるだろう。私が生きている内は犠牲の少ない道を歩んでみせるが、その先は分からない」
雲が晴れ、陽の光が広間に射し込む。割れずに残ったガラスを通した光が、床の水に反射して空に帰ろうとしていた。
「恒久の安寧の世とは言わない。少しでも平和な時代が続くように、命が続く限りこの国を守る手助けをして欲しい」
豚は、主人に微笑む。
「命令ですか?」
「命令だ」




