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冷汗が真の頬を伝う。
―――ごくん。
唾を呑む音が妙に頭に響く。
間違い無く、奴等は後ろに居る。
―――振り向いてはいけない―――
頭では解っている。危険信号を送っている。
それなのに、確認しなくては…。そんな思いがあるからか、気持ちとは裏腹に躯が後を向こうとしている。
―――駄目だ!見ちゃ駄目だ!!
心は烈しく訴えているのに、もう…動いてしまっている。躯が…首が…目が…
捕らえてしまった。
「・・・・・!!」
見開かれた瞳に声にならない叫び。
電灯に照らされた異業な姿。一度見たら忘れることなど出来ないそれは、漆黒に塗られた顔の無い人型。
それが―――背後に立っていた。
一瞬にして身体が弛緩し、手にしていたバックとスーパーの買い物袋が放され、地面に重い音と崩れる音を立て、落下した。
落とした荷物なんて気にしてはいられない。真の瞳は目の前の暗鬼に捕らえられていた。
頭上から照らす光によってはっきりと確認出来るのは一体のみ。
他にもいるであろう暗鬼は、黒い肢体が闇に溶け込み確認出来ない。
極度の緊張と恐怖。
後退ろうと動けない身体に鞭打って必死に動かすが、バランスを崩し後へと尻餅をついてしまう。
痛みより恐れが大きい。
このままでは殺されてしまう。
だか、頭は真っ白で、何も考える事など出来ない。
それでもどうにかして逃げる術を必死で模索していた時、力無く真を見下ろしていた暗鬼がゆっくりと動き出した。
一歩。…また一歩。
暗鬼が距離を縮めてくるにつれ、真は息が出来なくなっていた。
そして、黒塗りの手が真に伸びる。
―――ふと。
こんな事を思い出した。
今まで一度も思い返した事の無い幼い記憶。
それが、何故今なのか…急に記憶の底から溢れ出した。
物心が付き始めた幼い頃、親は忙しく、一人で遊ぶ事が多かった。
当時は活発で好奇心旺盛な真は兄が目を離す隙に居なくなっては兄を困らせていた。
その日も、季節はいつだったか…真は一人、近くの公園まで来ていた。
遊具で遊ぶ訳でもなく、ただ、公園の隅に位置する花壇に居た。
今では条例などで禁止されているが、昔の話。花壇に咲いている花を摘んでは出来もしない首飾りを作ろうと奮戦していた。
そこで目に入ったのは土の色に紛れている蟻。しかし普段見慣れている蟻よりか、数段大きく、立派な羽が付いていた。
暫くその蟻を眺めていたが、何を思ったのか、近くにあった掌程の石を掴んで、蟻を・・・潰した。
敷かれた土の御蔭で、多少の衝撃は防げたものの、石を除けると羽と足が有らぬ方向へ曲がった蟻が僅かな生命力を振り出して、足を動かしていたが…止まった。
死ぬまでの瞬間をただ眺めていた。
少しして、蟻の死に気付いたのか、小さな、いつも見慣れている蟻が葉の影から現れ、近づいて来た。
亡骸に近づくだけで、何もしない蟻。
死んだ。
と言うのを理解しているのだろうか。
だが、蟻は徐々に数を増やしていき蟻の亡骸を囲む。
土に出来上がる黒の空間。
急に恐くなって、今度はやや重さのある大きめの石を掴み、蟻の集団に投げ入れ…その場から逃げ去った。
あの石で、蟻達が死んだのかは解らない。
今考えれば、あの蟻は女王蟻だったのだろう―――
ならは―――中心。と言う名の統括官を失った蟻は、どう生きるのだろうか。
また新たな人物を立て、生きるか。
行き場を失いさ迷い果てるか。
―――嗚呼。
何故、今こんな事を回顧するのか―――
少しだけ、解った気がした。
「・・・と・・・真っ」
自分の名の呼び声と、肩を揺すられる衝撃により体をビクッと震わせ、我に還る。
目の前に居たのは―――遥鳴。
「…あ…えっ?」
真の瞳が宙をさ迷う。
真の無事な様子を見た遥鳴は安堵の表情を零した。
辺りを見回すと街灯と月明りに照らされた普段見る夜の景色。肌を突き刺す冷たい夜風。
その路上に経たり込んだままの真。
今の情景が理解出来ない。
確かに、つい先程迄眼前には暗鬼が居たではないか。
殺された。
とも思ったが、紛れも無く今此処で息をして生きている。
―――夢。だったのだろうか。
夢にしては記憶が鮮明過ぎる。
―――それよりも…何故、ここに遥鳴が居るのだろうか。
思い煩う真に遥鳴が掛けた言葉によって、暗鬼の件は核心に代わる。
遥鳴が掛けた安否の問いに真の表情は凍りつく。
―――夢ではなかったのだ。
残り僅かな家路を二人で歩む。真の荷物を持った遥鳴が覚束ない足取りで歩く真に歩幅を合わせる。
言葉は無い。
「暗鬼は…人を誘うんだ。」
先程まで、遥鳴から説明を受けていた。
暗鬼は人を呼び込み、自らの空間に誘い入れる。
そして、自分のテリトリーに入り込んだ獲物の息の根を止める。
それが、暗殺の手口。
つまり、真はまんまと暗鬼から無意識に呼び入れられたのだ。
あの闇が、暗鬼の空間。
それによって、幾人の蒼間が命を落としていると言う。
だが、暗鬼がその空間を作る時。
歪みが生じる。
誰もが気付く訳では無いが、解るものには解る。
遥鳴もその一人。
歪みを感じ取った遥鳴が駆け付けてたことにより、真は助けられたのだ。
平静を装っている真だが、遥鳴の言葉は頭の上を通り過ぎるのみ。
気を緩めば腰が抜けてしまいそうである。
それほど―――混迷していた。
暗鬼に―――暗鬼が―――とても恐ろしかった。
少し前までは、『死』そのものに恐怖など感じた事はない―――。
クラスの疎外からの苦。というのもあるが、寧ろ死後の世界に興味すら持っていた。
だと言うのに、あの状況下で、初めて『死』と直面して、いつか望んでいた筈が―――待ちわびていた筈が―――
―――何故か…それを拒んでいた。
一体何処に、生きる事への執着があったのだろうか・・・
それにより、一つ。嫌悪の心を生んだ。
そして何故、何も出来なかったのか。
あの時の襲撃では確かに真自身の手で暗鬼を打破した筈だ。
殆ど我を忘れていたため、どのように打破したかなどは覚えていないが…
ただ『恐れ』という感情はあの時無かった。
だからこそ、それが嫌で仕方ない。
遥鳴にも、あんな醜態を見られてしまったのが情けないが、きっと遥鳴も真と同じように思っているに違いない。
自分は何の為に蒼間へ向かったのか―――。
それによりまた一つ。嫌悪の心が生まれた。
俯きながら真は遥鳴に遅れまいとふらつく足に力を込める。
遥鳴もまた、真の様子を確かめるように歩幅を縮めている。
真は遥鳴の後ろ人一人分の距離を取って歩く。
ふと気が付いて遥鳴を見ると、こんな夜風の強い真冬だというのに、上着を着ていなかった。
―――…また、迷惑しただろうな…
胸に微かな痛みを感じ、遥鳴の背中に心の中で詫びの言葉をかけた。
家まで辿り着くと遥鳴は階段を上り玄関まで送った。
「わざわざありがとう…ございます…」
大丈夫かと言う遥鳴の問いに持たせていた荷物を貰い、不安を隠し答えるが、罪悪感の面で語尾の声音は下がる。
それでも遥鳴には解っているのだろう。
「この家の土地には護を張り巡らせてあるから、暗鬼に気付かれないし襲われれる事もないよ。」
多少の気休めにはなるかめしれない。
…その言葉に真の面持ちが少し変わる。
疲れ切っているだろう真を案じ、遥鳴は早々別れを告げた。
階段を下り少し歩くと遥鳴は振り返り真の部屋を見上げた。
まさかもうこんなに早く気付かれるとは思ってもみなかった。
懸念していたことが既に起こってしまったのだ。遥鳴にもまた、自分の軽率さと、真とは違う罪悪感が降り注ぐ。
真を蒼間に連れて来たのは真の身を守る為でもある。
真が何者かはまだ解っていない。
解らないからこそ、まだ真は一般人で、守る必要がある。
一般人が暗鬼から襲われるというのは今まで聞いた事もない。
もし殺されたりなんかすれば、何の為の蒼間の存在か―――
「そろそろか…」
そう呟いた遥鳴は夜の闇に消えた。




