七枚目 ホームセンターで買ったカブトムシ
「まーだー? お昼ご飯食べたいんだけど」
イタミはスマホを弄りながら、退屈そうに歩いていた。
「まだじゃ」
少し先を、腰の曲がった老婆が杖をつきながら歩いている。
「もう二時間くらい歩いてるんだけど? 本当に思い出せるの?」
「もう少し!」
老婆は住宅街をきょろきょろと見回しながら、歩き続ける。
三時間前。
駅前の商店街で、イタミはガラケーにメッセージを受信した。
『アイニイキタイノニ』
気配を辿って向かうと、歩道橋の下に座る老婆を見つけた。
イタミは慣れた様子で、ガラケーや使い捨てカメラについて説明する。
老婆の願いは、一つだけだった。
「もう一度、孫に会いたい」
話を聞くと、十年ほど前、孫に会いに行く途中で心臓発作を起こし、亡くなったという。
気づいたときには、この場所から離れられなくなっていた。
それから長い間、呆然と過ごしていたところに、イタミが声をかけたのだ。
イタミに取り憑くことで、その場所を離れられるようになった老婆。しかし、孫の家がどこにあったのか思い出せず、住宅街をあちこち歩き回り、今に至る。
「死ぬ前にボケてたの?」
「うるさい! あんたはちゃんと敬語を使いな!」
老婆は杖を振り回す。
「だって、ちっとも思い出さないしー。反対側なんじゃない?」
「んー。アタシは幽霊なのに、飛べたりせんのかね」
「イタミ、死んだことないから知らない」
「生意気な子。なみちゃんと大違いだわ」
「孫? それは覚えてるんだ」
イタミはスマホから老婆へ視線を向ける。
「当たり前よ。アタシがなみちゃんを忘れるなんて、ありえん」
老婆は誇らしげに言った。
「いくつなのー?」
「そうねえ。今は十四歳か十五歳かねぇ」
「会っても、なみちゃんだってわかるの?」
イタミは呆れたように笑う。
「うん、わかる。絶対に」
老婆は優しく笑った。
「……」
イタミはスマホへ視線を戻す。
「家の場所も忘れてるんだし、信用できませーん」
興味なさそうに言うイタミに、老婆は杖を振り回す。
「もうちょっと行けば、きっとわかるわよ! ほら! 歩きなさい!」
そこから、さらに一時間歩き回った。
老婆は「あっちかも。こっちかも」と言いながら、右往左往している。
イタミはその姿を呆れたように眺めながら、幼い頃の自分を思い返していた。
「お母さん! 今日はね、赤い服のお姉ちゃんと遊んだの!」
「……イタミ、あなた、今日、家から出てないでしょ?」
「うん。だから、お部屋に遊びに来てくれた」
「……馬鹿なこと言わないで」
「イタミはね、友達いっぱいいるの!」
「……やめて」
「本当だよ?」
「……いい加減にしてよ!」
別の日、イタミは扉の向こうから聞こえてくる両親の声を聞いていた。
「あなた、イタミを病院に……」
「病院? それよりお祓いだろ。あの子はおかしい」
「違う! 病院に行けば治るのよ……そうだわ! 病院よ! きっと、生まれたときに他の子と取り替えられちゃったのよ! 病院のミスよ!」
「……落ち着けよ」
「私たちのイタミは、あの子じゃない。あんな可愛くない子、私たちの子供じゃない」
「ごめんな。大丈夫、大丈夫だから」
母親の声が、父親の胸に顔を埋めたようにくぐもる。
「あのブスはいらない。あのブスはいらない。捨てなきゃ。捨てなきゃ」
「大丈夫。お前は悪くない」
「あのブス。あのブス。あのブス」
イタミは扉のこちら側で、その言葉を聞いていた。
「……ちゃん……おじょ……」
「お嬢ちゃん!」
イタミははっとして、老婆に顔を向けた。
「聞いてんのかい?」
老婆は不機嫌そうに聞く。
「……なーに?」
「あんた、耳が遠いんじゃないかい?」
「声が小さいんじゃないですかー?」
「ふん! 生意気な子だよ」
「で、なんか用?」
「ここだよ」
老婆が杖で指し示した先には、似た建物がいくつも並ぶ団地があった。
「いやー、似た建物ばっかりだから、思い出せなかったんだねぇ」
老婆は腰を叩きながら言う。
「ここのどの建物? それで、何階?」
イタミは疲れた声で聞いた。
「C棟の七階だね」
老婆はそのまま歩き出す。
イタミはスマホで時間を確認した。
「げっ、もう十七時じゃん」
不機嫌そうに、老婆の後を追った。
建物のC棟の下に着いた二人。
「会えると良いねえ」
老婆がぽつりと呟く。
「イタミ、あそこで待ってるから」
イタミは近くの公園を指差した。
「おや、上がらないのかい? お礼にお茶でもと思ったんだけど」
「誰が淹れるのよ」
「それもそうだね!」
老婆は口を開けて笑う。
「はい、ちゃちゃっと行ってきて」
イタミは虫を追い払うように手を振った。
「アタシにエレベーターが使えるのかね?」
「いけるみたいよ。頑張ったら」
「じゃあ、ちょっと待ってておくれよ」
「はいはい」
イタミは老婆の背中を見送り、公園へと向かった。
カバンを背中にかけたまま、ブランコに腰を下ろしてスマホを弄る。
そこでまた、昔のことを思い出していた。
小学校低学年の頃。
「イタミ……学校行きたい」
「あなたは病気なの。大人しくしてなきゃ駄目なの」
「イタミ、元気だもん! もう病院もお寺もやだ!」
「うるさい!」
母親がイタミの頬をビンタした。
「えーん!!」
イタミは泣き出した。
「お母さんもお父さんも、あなたのためにやってるの!」
「えーん!」
イタミは泣き続ける。
「ブスな顔でいつまでも泣くな! このブス!」
母親はイタミを引きずりながら階段を上っていく。
「いたい! ごめんなさい! お母さん!」
二階に着くと、母親はイタミを部屋の中へ放り投げた。
そして、外から鍵をかける。
「出して! ごめんなさい! イタミ、ここやだ! お母さんとお父さんと一緒がいい!」
イタミは扉に駆け寄り、何度も叩いた。
扉の向こうから母親の声が響く。
「黙れブス! 反省したフリをして扉を開けさせるなんて! 汚い子!」
そこは物置のような部屋だった。
イタミが寝転ぶだけで、ほとんどスペースが埋まってしまう。
イタミは扉を叩き続けた。
「ごめんなさい! イタミ、良い子にする! 病院もお寺も行く! 学校行きたいなんて言わない!」
「うるさい! ブス! 嘘つき! 悪魔!」
母親が外から何度も扉を叩く。
やがてイタミは震えながら泣き、両手で耳を塞いだ。
扉を叩く音と母親の罵声だけが、部屋に響き続ける。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
――別の日。
物置部屋から出されたイタミは、虚ろな目をしていた。
服は汚れ、長い髪はごわごわに絡まっている。身体も痩せ細っていた。
「今日はどうかしらね……」
母親が心配そうに父親に尋ねる。
「何でも、幽霊やら超常現象やらを観測しているところらしいけど……」
「大丈夫なの、それ?」
「わからん。でも、若い所長らしくて、こういったものには詳しいらしいけど……」
「はぁ……」
母親はため息をついた。
「それより、それ着替えさせろよ」
父親がイタミを指差す。
「着替え、リビングに置いてあるから。自分で行きな」
イタミは何も言わず、リビングへ向かった。
そこで、両親の会話が聞こえてきた。
「あなた、なんてとこなの、そこ?」
「ええっと……なんだっけな。確か、ここのえ……」
そのとき。
地域放送の音が聞こえ、イタミの意識は現在へと引き戻された。
持ったままだったスマホに目を落とす。
時刻は十八時を過ぎた頃だった。
「……お腹すいたなあ」
そう呟き、イタミはブランコに座ったまま背伸びをした。
そこから、三十分を過ぎた頃、老婆はイタミのもとに帰ってきた。
会った時よりも、こころなしか穏やかな顔になっている。
「終わったー?」
イタミは欠伸をしながら聞く。
「ええ。ありがとう。本当にありがとね」
老婆は穏やかに笑う。
「じゃあ、早くやるよー。イタミお腹すいた」
カバンから使い捨てカメラを取り出す。
「ありがとね。長い時間。それじゃあ、よろしく」
老婆はイタミの前に立つ。
「……」
イタミはファインダーを覗く。
「……」
そして、ゆっくりと手を下ろす。
「ねえ、そんなに家族っていいもの?」
「えっ?」
老婆が首を傾げる。
「死んでも会いに行きたいって思うの?」
イタミは伏し目がちに聞いた。
「さあねぇ?」
「はあ? 意味分かんない」
イタミは不機嫌そうに言う。
「アタシがね、なみちゃんに会いたかったのは、もちろんかわいい孫だからってのもあるわよ? でも一番はね、なみちゃんだったからよ」
「……」
「優しいなみちゃんが好きだから。それだけ」
老婆は優しく微笑む。
「……」
「大切に思い思われる人が家族かそうじゃないかなんて関係ないわ。血の繋がりが全てじゃないもの」
「……意味わかんない」
「あなたもアタシにとっては大切な子よ。今日一日ありがとう。あの世に来たらご馳走作ってあげる」
「……縁起でもない。はい、もういい?」
老婆はふっと笑い、顔の前でピースサインをする。
「はい、チーズ」
フラッシュと共に、老婆は消えた。
イタミはしばらく、老婆が立っていた場所をぼーっと眺めている。
少しして、お腹を擦った。
「あー、お腹すいた」
スマホを取り出し、どこかに電話をかける。
「あっ、所長! 今、バイト完了しました! 朝からイタミ頑張ったんですよー」
イタミは弾むような声で喋っている。
「それでぇ、イタミ朝から何も食べてないんです……だから、所長とご飯行きたいなーって……えっ、良いの!」
イタミは飛び跳ねて喜ぶ。
「あのね! イタミ、ハンバーグが食べたい! 炭酸も飲んでいいですか? えーっ! 好きなだけ? あーん、所長大好き! 愛してる!」
イタミは嬉しそうにくるくる回る。
「イタミ、今日も頑張ったから、たくさん褒めてくださいね!」
夕暮れが、イタミを朱く染めていった。
終




