十九枚目 早起きは気持ちいい時もある
「所長。最近、海って行きましたか? いえ、海には不思議な話が沢山あるじゃないですか? もちろん、海に面した他の観測所が研究していますけど、自分たちの目で実際に見ることも、研究者として大切なことだと思いません?
だから、もしよかったら今度、海に行きましょう。ふふっ、研究でですからね?
でも、所長がどうしてもっておっしゃるなら、水着も用意していいですよ? たまたま、私も水着を買ったばかりでして……。
あっ! 特定の異性がいるわけじゃないですよ? なんとなくです、なんとなく。
ちょっと過激かもしれませんけど……でも、遊びに行くわけじゃないですからね? 少し泳ぐぐらいならいいですけど……。
もう! 所長! 何を考えてるんですか? そんなに……見ちゃだめですよ?」
灰原は水着姿で、技術開発部長室に置かれた姿見を前に、ぶつぶつと呟いていた。
「ふふっ、所長と海に……」
隈の浮いた目で鏡を見つめ、灰原はニタリと笑う。
そのとき、ハンガーラックに掛けた白衣のポケットから、ガラケーの着信音が鳴り響いた。
「……」
灰原はジトリとした目で白衣を睨みつけると、ゆっくりと近づいて電話を手に取った。
「……灰原です」
小さな声で応える。
「お疲れ様です。風です」
副所長のウミからだった。
「先日の呪い返しについて、判明したことがあります。地下会議室に集合してください」
「……かしこまりました」
灰原は通話を終えると、電源ボタンを押した。
水着の上から黒いボタンシャツを羽織り、第三ボタンまで留める。胸元は大きく張り、ボタンの間にわずかな緊張感が生まれていた。
その上からパンストを履き、膝丈のタイトスカートを身につける。最後に白衣を羽織り、長い髪を襟の外へと出した。
「今日こそ練習の成果を……」
ボソリと呟く。
灰原はヒールの音をコツコツと響かせながら部屋の鍵を開け、地下会議室へと向かった。
*
「あーん」
イタミは公園のベンチで、ハンバーガーにかぶりつく。
「ったく、よく食うガキだな」
横に置かれたカバンの上で、うつ伏せになって寝ていた痛みが呆れたように言う。
「へへっ」
イタミはポテトを頬張りながら笑った。
「まあいい。続きを話せ」
痛みは手をパタパタと振る。
「はいはい。とりあえず、痛みちゃんには九重観測所に潜入してもらうから。厳密に言えば、地下施設にね」
イタミは紙コップに入った炭酸ジュースを飲む。
「そんなデカい施設なのか?」
痛みはカバンの上に座り直し、体をイタミに向けた。
「そんなに大きくはないと思うけど、イタミの知らない地下施設があるはずなんだよね」
「なんでわかるんだ?」
「イタミちゃんパワー」
イタミは痛みの目の前で指をくるくると回す。
「アホくさ」
痛みはその指をはたき落とした。
「ふふっ。でも、あると思うの。感じるから」
イタミは不敵に笑う。
「……わかったよ。まあ、俺様にかかりゃ楽勝だろ」
痛みは膝をポンと叩いた。
「そんな簡単じゃないんだよねー」
イタミは二個目のハンバーガーの包みを開け、かぶりつく。
「なに?」
「そもそも、九重観測所にいる人って、大なり小なり霊感があるの。派手に動き回るとバレちゃうんだよね」
イタミは口の端についたソースを舌でペロリと舐めた。
「それに、要注意人物もいるしね」
「要注意人物?」
痛みは首を傾げる。
「うん。まずは、副所長のウミさん。巫女服のお姉さんなんだけど、勘が鋭いし、とってもこわーいの。痛みちゃんなんか見つかったら、すぐに祓われちゃうよ?」
「はっ! 上等じゃねーか!」
痛みはシャドーボクシングのように拳をシュッシュッと振る。
「話は終わってないよ? もう一人いるの」
イタミは痛みの頭をポンと叩いた。
「ちっ、なんだよ?」
「技術開発部長の灰原詩音さん。この人も厄介なの」
イタミはため息交じりに言った。
「そいつがなんなんだ?」
「なんか、じっとりしてるし、ボソボソ喋るし、イタミよりおっぱい大きいし」
「……関係あるのか?」
「あるよ! 所長と喋るときなんか、顔を真っ赤にしながら距離なんてこんななんだよ?」
イタミは痛みを片手で持ち上げ、自分の顔に近づけた。
「ええい、邪魔だ! それに、やっぱ関係ねえじゃねーか!」
痛みはイタミの顔をポカポカと叩く。
「まあ、真面目な話、霊感だってウミさんと同じくらい強いの。他人への警戒心も強いし」
イタミは痛みをカバンの上に戻した。
「じゃあ、やめるのか?」
痛みは自分の体をパッパッと払う。
「まさか! だからこそ、痛みちゃんには強くなってもらいたいの」
イタミは包み紙をくしゃくしゃっと丸めた。
「あん?」
「霊感をコントロールできるようにして」
イタミは紙ナプキンで口を拭く。
「……感知されないようにしろってか?」
「ふふっ、痛みちゃんを選んでよかった。さすが、強い地縛霊だけあるね。話が早ーい」
イタミは楽しそうに笑った。
「俺様に共食いさせる気か?」
「うん。いっぱい食べて強くなって」
イタミは痛みを見つめる。
「……本当に、狂ってるなお前」
「イタミは所長の全部を知りたいだけなの」
「喰われた霊は、この世からもあの世からも消えるんだぞ?」
「イタミに関係ある?」
「……」
「もちろん、地縛霊だけ。消えても問題ないでしょ?」
「……厄介なのと組んじまったな」
「やめてもいいよ?」
「減らすりゃ、人間の犠牲だって出るぞ?」
「だーかーらー、イタミに関係ある?」
「……わかったよ」
「じゃあ、明日から頑張ろー」
イタミは両手をグッと伸ばした。
「……」
痛みは、イタミの底知れなさに久しぶりの恐怖を覚えた。
終




