8話 江戸へ
じりじりと焼け付くような暑さが浅葱を照らし、思わず傘を取り汗を拭う。多摩川を越えれば武蔵国だ。大雨が降ったのか、川幅は増し、轟音を立てている。
前回この景色を見た時は、春先だったのに。
耳に心地良い鶯の声はなく、蝉がけたたましく鳴いている。川岸の渡しの舟から、梓は対岸に渡り、武蔵国に戻ってきた。
半年ぶりくらいに江戸城を見上げた。
(懐かしい)
江戸城は大きく三つに曲輪が分かれている。縄張りが大きく複雑で、名城と呼ばれる所以だった。一番海側の曲輪に夜陰に紛れて忍び込む。
太田資高の居室の中から灯りがともったのを確かめ、浅葱は窓辺に呼びかけた。
「殿」
すぐに板戸が開く。太田資高は幽霊でも見るような目で、浅葱を見た。
「梓」
久しぶりに「本当の名」を呼ばれ、懐かしさに涙が出そうになった。小田原ではずっと己を偽ってきたから。
「無事であったか」
「はっ。戻りが遅くなりました」
早い遅いはどうでもいい、と言いたげに資高は首を二、三回横に振ってから、静かに戸を大きく開いた。
「早く入れ」
資高に促され、浅葱は庭側より中に入る。音を立てない俊敏な身のこなしに、資高は首を傾げた。
「そなた⋯⋯変わったか?」
「実は」
と、浅葱は小田原での仔細を資高に語る。
扇谷上杉家では考えられないような氏綱の振る舞いに、資高は目を丸くしながら聞き入っていた。
「お前が無事で良かったよ」
捕まった件を辛そうに聞いていた資高の実感の籠もった言葉に、浅葱まで涙が滲みそうになる。
「文を預かっております」
託された使命を思い出し、浅葱は自分の心には蓋をした。
「誰から」
「伊勢氏綱です」
「⋯⋯」
浅葱が胸元から出した料紙を資高は信じられないという眼差しで見つめる。
「なんて」
「存じません。ただ、梓を生かしたのは、殿に通じたかったからだと、氏綱が言っておりました」
「ほう」
「梓がしくじったせいで⋯⋯」
浅葱の謝罪を遮り、読もう、と資高は浅葱から文を受け取った。
資高の目線が料紙の左端で止まる。浅葱は顔を上げ、資高を見た。
「伊勢家への内応を促された。――伯父、道灌が当主定正に騙し討ちにされたから、他国から見れば私は、主家に相当遺恨があるように映るのかもしれぬな」
資高は自嘲気味に言い、その言葉に浅葱の目が切なく揺れる。
浅葱の父も、道灌と共に斬られたからだ。
あの夜以降、江戸城での太田家の立場は大きく揺らいだ。浅葱の人生も変わった。
「殿のお立場は外からではわかりますまい」
資高も浅葱の言葉に頷き、氏綱からの文を小さく畳んだ。
「――つまるところ、そなた、伊勢氏綱という男、どう見た」
核心をつく問いを資高にされたが、浅葱は悩む。一言で言い表せない男だ。
「梓には計り知れぬ男です⋯⋯」
城に忍び込んだ斥候を捕らえて、わざわざ忍びの集団に放り込む。少ない供回りで領内を歩き回る。
風魔の長が「酔狂じゃな」と呆れたのも当然だ。
一方で、隠し田を暴く。浅葱が逃げ出そうとする頃合いを見計らって待ち伏せする。
無謀かと思えば、全部手の内を読まれているかのような、怖ろしさもある。
浅葱が悔しそうに語る氏綱の言動を、資高は興味深そうに聞いていた。
「さもあろうな。小田原の手の内を見せても、我らに通じたいと言うことなのだから――」
「返事はいかがされますか?」
「簡単に主を変えられたら苦労はせぬ」
資高は自嘲し、腹立たしげに続けた。
「こんな無礼な書にいちいち返事もいるまい。そちが小田原の様子を伝えてくれただけで、十分じゃ」
破り捨てようとするその手を浅葱は「あ」と声で止めた。
「なんじゃ」
「いえ。必ず戻って参れと、氏綱に言われたので」
「必ず?」
資高は不思議そうに念を押した。
「は、はい」
「お前に言ったのか」
「はい」
資高は首の根元に右手を添え、黙り込む。悩んでいる時の資高の癖だ。主を変えるつもりもないようなのに、何を悩んでいるのか。浅葱には資高の胸中は推し量れなかった。
「⋯⋯そうか」
大分間を置いてから、資高が呟く。彼の中で返書の内容が定まったらしい。
氏綱からの書状を脇に置き、資高はすぐに筆を墨に浸す。一気に書き上げた文を、資高は封をし、浅葱に手渡す。
「これを小田原へ」
「はっ」
「また危険な橋を渡らせるな」
「志願したのは私です。殿のお役に立てれば、梓の本望です」
浅葱に迷いはない。資高の方が少し切なげに目を細めた。
「急がずともよいぞ。かよ殿に顔を見せ、のんびりしてから行くといい」
母の名を出され、浅葱も苦しくなる。
「お気遣いありがたく頂戴します」
「くれぐれも無理はするな」
資高から無茶な行動を戒められる。
「わかりました」
浅葱は資高の元を辞した。
浅葱の母はかよ一人だが、父は二人いる。
だが、道灌と共に粛清された父の記憶は、殆ど無い。
父を亡くした浅葱を、資高の父、太田大和守資俊は、母もろとも、引き取ってくれた。
資俊はおおらかな人物だった。自分の子、資高も、兄の遺児資康も、浅葱のことも、愛せる人だった。
父に似たのか、資高自身も優しかった。
『じゃあお前は、私の妹みたいなものか』
幼かった浅葱が初めてこの城に来た時、資高がそう言ってくれたのを、今でも浅葱は覚えている。
「梓」
江戸城の奥にあるかよの居室を訪ねると、母の目には早、大粒の涙が浮かんでいた。
「生きていたんだね。何ヶ月も帰ってこないから、もうだめだとばっかり⋯⋯」
「ご、ごめん」
いいよいいよ、と言いながらも、とめどなく溢れる涙を、かよは袖口で拭う。母のこの反応だけで、何故資高がわざわざ『母に会いに行け』と指示してきたかわかった。
「毎日、お祈りしていたからね。あんたも、無事に戻った、って報告して」
と仏壇にかよは手を合わせ、それを浅葱にも強要する。
かよ用の小さな仏壇には位牌が二つ据え置かれている。
(どうしよう。また小田原に行くって、言えない⋯⋯)
しばらく浅葱は江戸城を動けなくなった。
年内を浅葱は江戸城にて過ごした。小田原への返書は浅葱の部屋の文箱に納めたままだ。里心がついてしまったのか、ずるずると時が流れていった。庭の柿に実が成り、渋を抜き軒に吊るす。葉が全て落ちた樹の地肌に、浅葱はそっと手を添える。昔、浅葱が登ってしまい、下りられなくなって、資高に助けてもらった記憶が蘇った。
年明け早々、浅葱の耳に資高の妻の懐妊の話が入ってくる。
城を挙げて祝いの雰囲気となり、居心地が何となく悪い。浅葱は再び旅支度を始める。
「また何処かへ行くのかい」
浅葱の背中にかよが尋ねる。一瞬、浅葱の作業の手が止まる。母に向き直って答える。
「返書を小田原に届けに行く」
「また伊豆に行くの?」
伊豆じゃなくて相模だよ。心の中だけで、母の誤りを指摘する。母にとっては、伊豆も相模も大差ない。
「うん。殺されるようなことはきっとないから、心配は要らない」
「⋯⋯あんたも、つらいね」
かよがぶっきらぼうに言う。
「⋯⋯何が。資高様のお役に立てるのは、いいことだろ」
母は何処か憐れんだような目で、浅葱をじっと見つめる。強がりを見抜かれているようで、きまりが悪かった。母に背中を向けて、再び浅葱は旅の荷を詰め始める。
「殿にはお暇を申し上げてから行くんだろ」
「⋯⋯言わない。何処に向けて旅立ったのか、知ってるから」
言ったら決心が鈍る。
前回、小田原に向かった時も挨拶などしていない。伊勢家の内情を探る為の偵察を資高が募っても、誰も手を挙げなかった。
「私が、参ります」
浅葱が志願した時、資高は一瞬だけ、驚いたように浅葱を見た。
それだけだった。止めもしなければ、礼も言わなかった。ただ静かに頷いて、視線を文机に戻した。
翌朝、枕元に小さな包みが置いてあった。
路銀と太田の紋の入った短刀。そして紙が一枚――資高の字で「浅葱」とあった。
今回も、資高は浅葱を止めない。それで、いい。
資高の為なら死ねる。大袈裟でなく、浅葱はそう思って生きている。
空にかかるは眉月。暁闇に一筋の糸のような頼りない光が煌めいていた。




