9話 海を統べる-①
伊豆千代丸の誕生後、小田原城には来客が増えた。今川からも祝いの品が贈られ、改めて氏綱は新しい生命の誕生の重みを知る。
周囲の喜びや期待などどこ吹く風で、伊豆千代丸はすやすやと眠っている。赤子というものがこんなにも無防備で無力なものだと、氏綱は己が父になるまで知らなかった。
「また重くなったか?」
目を覚ました我が子を氏綱はすかさず抱き上げる。まだ首が据わっていないから、優しく抱いてくださいね、といつも芙蓉に釘をさされるので、氏綱の手つきも顔つきも普段の彼とは比べ物にならないくらい優しい。
「近頃は母の顔を見ると笑むようになりました」
そう言って芙蓉が伊豆千代丸の顔を覗き込むと、確かに伊豆千代丸の目が細められ、口元が大きく開く。
「賢い子じゃ。父は? 父の顔は覚えたか?」
だが、伊豆千代丸は父の顔には反応してくれない。必死な氏綱の様子に芙蓉だけでなく、伊豆千代丸の乳母のたけまでくすくす笑いを漏らしている。
小春日和の柔らかな日差しが城内の隅々まで暖かく照らす。秋の空のように晴れやかな小田原城にいると、氏綱は城の外の世界を忘れそうになる。
抱き上げていた伊豆千代丸を乳母のたけに渡すと、氏綱は縁に立ち、外を眺める。海は凪いでいて、早川の港に漁師船が浮いていた。
相模国の南端、三浦半島で伊勢軍と三浦軍の泥沼の争いはまだ続いていた。芙蓉が身籠って、子が生まれ、三ヶ月が過ぎようとしている。
一向に進展のない戦に、氏綱は焦燥を覚えていた。
(跡継ぎが産まれた以上、父上がわしの参陣を拒む理由はないはず)
「芙蓉。近々出陣致す。その心積もりでいてくれ」
「かしこまりました」
だが宗瑞に宛てた参陣伺いは、瞬く間に撥ねつけられた。
「小田原にて兵と兵站の補給に努めよか」
当てが外れて、自嘲にも似たため息がこぼれた。宗瑞が遣いとして寄越した多米権兵衛が恐縮したように畏まる。多米は今回の戦の先陣の大将も務めていた。
「戦況を詳しく教えろ」
「しからば⋯⋯」
と権兵衛は語り始める。
新井城は三方を海に囲まれた天然の要害だ。唯一島と陸を結ぶ引き橋手前に、伊勢軍は陣を敷いている。
昨年末に一度本隊を韮山に引き揚げた宗瑞だったが、今年の夏に再び兵を率いて出陣している。
城を囲みつつ、降伏を促しているが、三浦側に応じる気配はない。
補給路は陸は完全に断っているが、海路は手の打ちようがなく、それが籠城戦が長期化している要因とのこと。
「海路は誰が担っている」
「三崎の海賊衆に加え、浦賀を本拠とする横須賀氏が船を出し、新井城へ兵糧を運び入れているようです」
「横須賀――三浦の一族か」
海側から物資を輸送されていては、幾ら城を囲っていたとて、ざるで水を汲んでいるのと同じだ。
「父上は横須賀氏に接触はされぬのか」
「当主連秀の娘が、三浦道寸の妻であります」
「⋯⋯そうか」
安易な接触は逆効果の恐れもある。
「それではまだまだ時がかかるな」
参陣せずともよい、という父の仕置きが妥当に思えてきた。
「仰せのとおりにございます。故に若には今少し、後方からの支援を願いたく⋯⋯また、生まれたばかりの若君との時間を大切に⋯⋯と」
権兵衛はそう言って、書状には無かった宗瑞の意図を伝える。
「父上もよう言うわ」
思わず皮肉な笑いが漏れてしまった。
「京で生まれたわしと母上を残して、幕命で駿河に行ったまま帰ってこなかったと言うに」
氏綱の生まれた年に、宗瑞は駿河国で小鹿範満を討っている。無論、氏綱は覚えていないが、母がよくこの頃の父のことを愚痴っていたのは記憶している。
「あ、いや、それはその⋯⋯」
無論、多米権兵衛も宗瑞に付き従っている。
「ご自身の経験から、若には同じ悔いを残していただきたくないものかと」
しどろもどろになりながら、権兵衛はそう繕った。
「戦の情勢は相わかった。父上のおっしゃる通り、兵站の補給に務める故、安心されたしと伝えてくれ」
「御意」
平伏してから、権兵衛は遠慮がちに切り出す。
「あの⋯⋯若君の顔を拝見してもよろしいでしょうか」
無論、氏綱は快諾する。
芙蓉に抱かれて現れた伊豆千代丸に、権兵衛はまるで仏像を前にしたかのように、手を合わせて拝み始めた。
「こんなに聡明そうで麗しい赤子は見たことがございません。本当に⋯⋯伊勢家の行く末も安泰でございます⋯⋯」
涙を流さんばかりに言うので、氏綱の方が「やめろやめろ」と制す程だった。
権兵衛の反応は大袈裟に過ぎる、と氏綱は思う。けれど、「家」というものの重みは、伊豆千代丸を抱いていると感じる。
この子に、少しでも多くのものを遺したい――。
ヨネらに命じて、氏綱は横須賀氏や周囲の国衆らについて調べさせた。
浦賀の沖から月に二度ほど、新井城への補給用の船が出ているようだ。何艘にも分けて、小舟で運んでいるらしい。
「運ぶ日にちなどは決まっていないようです。潮の満ち引きや波のうねりなどで出航を決めているのかと」
ヨネの分析はさもあろうと思えた。
「流石の風魔も潮目は読めぬか」
「申し訳ございません」
「いや。無理を言うたな」
海に生きてきた一族の知恵と経験に、勝負を挑む方が愚かだ。
しかしこれを止めねば、いつまでたっても相模は統一出来ない。
横須賀連秀は浦賀の船持ちや商人たちに顔が利く。新井城へ向かう船のすべてが横須賀氏のものではないが、連秀が船を出さぬと決めれば、従う者は多いだろう。
「連秀に近づける者はいるか」
「探してまいりましょう」
五日後、ヨネが連れてきたのは、早川と浦賀の間を行き来している商人で名は正吉、年の頃は五十に届かぬほど。
正吉は氏綱の前に平伏したまま、なかなか顔を上げようとしなかった。
「畏まらずともよい。頼みがあって、呼びつけた。会ってもらいたい男がいる」
やっと正吉は顔を上げる。日に焼けた顔に、潮風に晒された深い皺が刻まれている。
「どなたにお会いすれば」
「横須賀連秀殿じゃ」
名を出すと、黒目が大きくなり、目線が一点で止まる。どうやら知っているようだ。
「お殿様のお言葉をお伝えするだけならば」
「それでよい。こう、伝えてほしい」
氏綱は文ではなく、伝言という方法を採った。連秀が拒めば、伊勢家からの働きかけがあった証を、その手に残すことになる。
「新井城への船を止めよ。さすれば、浦賀の所領は安堵する。横須賀家の者も、船を操る者も、伊勢家が保護する」
正吉は畏まったまま、わずかに身じろぎした。
「それだけで、よろしいのでしょうか」
「ああ、それでいい。返事を無理に求める必要はない。話を聞かぬと言われたならば、そのまま戻れ」
「かしこまりました」
正吉はそう言い、再び深く頭を下げた。
数日後、正吉は小田原へ戻ってきた。
海が荒れ、浦賀で二日足止めされたらしい。旅塵の残る姿のまま、氏綱の前に畏まった。
「いかがであった。横須賀殿には会えたか」
「はい」
「何と申した」
氏綱が返事を求めると、正吉は言いにくそうに口を結んだ。
「構わぬ。そのまま申せ」
では、と正吉は意を決したように切り出す。
「船は止められぬ、とのことです」
回答は明快だった。氏綱は黙って続きを待った。
「新井城への船を止めれば、城内の者は飢えて死を待つのみ。三浦の一族として、己の家のみ残そうとは思わぬ。伊勢殿の申し出を受けることはできぬ、と申されました」
「そうか。――他に何か言っておったか」
「いえ」
正吉の返答に、氏綱は視線を戻す。
「ただ、横須賀様は、若殿のお言葉を二度、繰り返させました。浦賀の者たちも保護するというのは、船乗りやその家族まで含むのかと」
「そなたは何と答えた」
「某がお預かりしたお言葉のまま、横須賀家の者も、船を操る者も、と」
「そうか」
氏綱は静かに頷く。
「正吉、ご苦労であった。これは礼じゃ」
氏綱が言うと、脇に控えていた小姓が銭の入った巾着を正吉の前に差し出す。
交渉は決裂したにも関わらず、見合わぬ対価を示され、正吉は驚いて手をつけられずにいる。
「遠慮は要らぬ」
重ねて言われ、正吉はまだおっかなびっくり、巾着に手を伸ばす。正吉が懐に報酬を収めたのを確かめてから、氏綱は対話を再開した。
「正吉、今ひとつ聞きたいことがある」
「は、何なりと」
「その方も自身で船を操れるのか?」
「普段は水夫に任せますが、いざとなれば漕ぎ手にもなります」
「ほう、頼もしい。では、舟出に良き日などもわかるか」
「無論にございます」
今日一番の笑顔とはきとした回答だった。
「相わかった」
氏綱は立ち上がる。
視線の先に水平線が広がった。秋の澄んだ空気が遥か彼方の半島まで明瞭に映し出す。
(海を制さなければ、この戦は勝てぬ)
だが、茫洋とした波のように掴みどころのない手応えであった。




