9話 海を統べる-➁
両軍対峙したまま、永正十二年も暮れていく。結局、氏綱が新井城の囲みに参陣したのは永正十三年の初夏だった。
玉縄より率いてきた兵は二千。
父の本隊と合流する前に、馬廻り衆五十ほどを選び、新井城の周囲を見回ることにした。
五月の長雨の中、名向崎の浜から、入り江を隔てて新井城を見上げる。
「これは⋯⋯」
氏綱は言葉を失う。
霧雨に燻る城は想像を超える要害であった。父が攻めあぐねるのも無理はない。
三方を海に囲まれ、急峻に聳え立つ島城。静かな入り江から、切り立った岩壁が地肌を覗かせていた。
「まさしく難攻不落の城でございますな。なかなか落ちぬ女を前にしたようで、攻略のしがいがありそうです」
他人事のような感想を口にしたのは、隣に馬首を並べていた大道寺盛昌だ。
「⋯⋯陣中で余計なことは口にするなよ」
「若の前なれば申し上げております」
ふざけた男だ。呆れてしまうが、不思議とこの男の軽口を聞いていると、肩の力が抜ける。そして、本人の言葉通り、氏綱の前以外では最低限の礼節は弁えているのが小賢しい。
「行くぞ」
鐙を踏んで乗馬する。しっとりした雨が手綱も氏綱の肩も濡らしていた。
宗瑞の陣に着いたのは夕刻であったが、空模様のせいか、既に辺りは薄暗く、陣幕の脇に篝火が赤々と燃えていた。
「新九郎、ただいま着陣いたしました」
「うむ、長いこと待たせたな」
嫡男の到着に宗瑞は破顔し、多米権兵衛がすぐに氏綱用の床几を用意する。多米権兵衛、笠原信為、荒木彦次郎等、父と歴戦を重ねてきた武将たちが絵図を囲むように座っていた。
中央の絵図は、勿論三浦半島のものだ。
朱筆で囲われているのが、既に伊勢家に落ちた国人衆の砦や要害か。住吉、衣笠、佐原⋯⋯半島の先端に行くほど、三浦一族との繋がりが深いのであろう。絵図の黒い部分が多くなる。
「先月も開城を求める使者を送っておる。が、一向に三浦父子は応じて来ぬ」
腹立たしげに宗瑞は采配の柄で膝を打つ。
「折り合わぬのは条件でしょうか」
「違う。伊勢家の軍門に降りたくないの一点のみじゃ。城中の兵もみな、同じ心持ちで戦っておるから、調略などされても無駄じゃ、と鼻息荒く返してきおったわ」
忌々しげに宗瑞が懐から出してきた文を、氏綱は開き目を通す。
署名は三浦道寸、義意親子二人でしている。道寸出家後、家督は嫡男の義意が継いだと聞いているが、連名で返事を出してくるのは珍しい。
親子同心だという証のつもりであろうか。
「ただ、朗報もある」
「どんな?」
「三崎の国衆、伊井が我が方に降伏する、と言ってきおった」
ちょうど今、陣を敷いている辺りを本領とする国衆だ。
三崎には小さいが港があった。
「舟を持つ一族でしょうか」
三浦半島の地図を目に焼き付けるように凝視しながら、氏綱は宗瑞に尋ねる。
「持つ、と言っても水軍などではないぞ。海賊のようなものじゃ」
氏綱の熱心さに危うさを感じたか、宗瑞は水を差すように言う。
だが、海賊ならば尚いい。
新井城への補給船。横須賀連秀。そして伊井の海賊――。
「伊井の当主と話をさせてください。加えて、小太郎をしばらく私の指揮につけていただけますか」
「何をするつもりじゃ、新九郎。伊井の小舟如きでは、補給路を断つことなどできぬぞ」
「断つつもりはございません。――舟を一艘、止めたいのです」
「たった一艘ですか? 若」
笠原が首を傾げる。
「それではとてもとても⋯⋯効果は見合わぬ」
荒木は氏綱の策をあしらおうとする。
けれど、宗瑞は笑わなかった。
「思うようにやってみよ」
そう言い、宗瑞は伊井家当主、伊井四郎右衛門との対面の場を整え、風魔小太郎を氏綱の陣に配置してくれた。
その夜、波は穏やかだった。氏綱と小太郎それと四郎右衛門を乗せた小舟は三崎の港を出、諸磯湾の岩壁近くに潜んでいた。待ち伏せは今宵で三日目。波の揺らぎにも大分身体は慣れてきた。
「若といつも共におられるあの背の高い男は、今宵は」
待つだけの時間を持て余したか、小太郎が尋ねてきた。盛昌のことを言っているらしい。
今宵殊更に静かな気がしたのは、あのうるさい男が同船していなかったからか、と氏綱は今更思い至る。
「舟の揺れが合わぬと、今宵はあの辺りに身を潜めている」
と、氏綱は背後の砂浜を指さした。
この辺りの海岸線は複雑に入り組んでいて、海に面した崖や丘が幾つもあり、一方で砂浜は狭い。小田原のなだらかに湾曲した海岸線とは全く様相が異なっている。
「口だけの男ですな、だらしない」
「海上の揺れは馬上とは違いますからな」
小太郎の辛辣な言から、さり気なく盛昌を庇ったのは、伊井四郎右衛門時長という男だ。伊井家は代々当主は四郎右衛門と仮名を名乗るらしい。
四郎右衛門はまだ二十代半ば。若くして伊井家を束ねているだけあって、知力も胆力もありそうな男だった。
「まあ、奴の使い所は他にある」
別に今いなくてもどうということはない。
氏綱は改めて、夜の海に浮かぶ小舟の群れを振り返る。浮かんだ舟には伊井の水夫と風魔の忍び、氏綱の馬廻り衆らが乗り込んでいる。
十の舟とこれらの者で今回、横須賀の舟を一艘だけ捕らえる。まずはそこからだ。
「伊勢殿」
四郎右衛門が低い声で言い、軽く右手を挙げる。周囲の舟が一斉に氏綱達の舟に向かってくる。
湾口の岩に隠れて、外海の様子を窺う。氏綱たちの小舟より二回りほど大きな舟が、列を組んで進んでいた。
八艘いる。
先船が一艘。その後ろに二艘ずつ三列が続き、殿に一艘。上から見れば、船首の尖った舟形になる。事前に四郎右衛門から聞いていたとおりの船列だった。
「狙うのは、ここでございます」
四郎右衛門は扇の先で、諸磯湾の湾口を示した。
「この刻は、湾から出る潮と沖の流れが重なって、潮が走ります。横須賀の舟は、八艘か十艘で船列を組むのが常。狙うのは殿の一艘のみ」
「何故じゃ」
四郎右衛門の物言いには迷いがなかった。氏綱は、あえて理由を尋ねる。
「先船が異変に気づく頃には、既に潮下へ流されております。帆を返し、舟首を潮上へ向けても、すぐには戻れませぬ。その間に殿の舟を船列から切り離します」
なるほど、と思った。陸地と違う海上での戦い方だった。
息を潜め、前方の舟が通り過ぎるのを待つ。こちらは灯りなどは一切ない。星の瞬きと水面に映る月の儚い影だけが、辛うじて空と海を分けていた。
七艘めの舟が通り過ぎたところで、さっと伊井の小舟が二艘外海に出、横須賀の舟の前につく。次々に伊井の舟は外海に出ていき、あっという間に前後左右で横須賀の舟を取り囲んだ。
船内には水夫が二人。横須賀家の兵が二人。
「賊か」
と慌てふためいた具足姿の男が、指笛で前方の舟に異変を知らせるが、船影は大分前方に押し流されていた。
熊手で四郎右衛門が舟を引き寄せると、小太郎と氏綱は横須賀の舟に乗り移った。同様に他の舟からも矢継ぎ早に伊勢家の兵と風魔の忍びが、乗り込んでゆく。乗り込めない者たちは矢をつがえ、相手の動きを封じる。
船の中央に追い詰められた横須賀の船員たちは、悔しそうに船床に膝をついた。
「賊ではない。伊勢宗瑞が嫡男、伊勢新九郎氏綱と申す」
「伊勢?」
訝しげにその名を呼んでから、長らしい男は挑発的な笑みを浮かべた。
「城が落とせぬ故、こんな海賊まがいのことをするのか。そこにおわすは伊井殿よな。長年の三浦氏の恩をお忘れか」
闇の中で目ざとく四郎右衛門を見つけると、四郎右衛門にも、吠えかかる。
四郎右衛門に尋ねると、横須賀家譜代の家臣、亀崎という男らしい。
「謗られようが、やることは変わらぬ。そなたたちの身柄、しばし預からせてもらう」
氏綱の合図で風魔衆が瞬く間に、水夫と武士たちも縛りあげる。
伊井の水夫が横須賀の舟を操り、盛昌たちの待つ浜に付けると、荷を運び下ろした。
「伊井殿、ご協力忝い」
氏綱は四郎右衛門に頭を下げる。
「うまく行ってようございました。――とはいえ、伊勢殿の本懐はこれから――でございますかな」
亀崎ら人質と奪った舟を担保に、横須賀連秀を談判の席に引きずり出す――氏綱の狙いを四郎右衛門は、とっくに知っている。
「いかにも」
「横須賀連秀は義に厚く、情に脆い男です。交渉がうまくいくよう祈っております」
「御心遣いいたみいります」
ここから先は、自分の領分だ。鋭い声で、この難しい交渉に最も適している男の名を呼ぶ。
「盛昌!」
「はっ」
「横須賀連秀に伝えよ。舟と亀崎等を返してほしければ、三日後、白浜の毘沙門堂まで来られたし、と」




