7話 父になる-➁
宗瑞が意を決して出兵した新井城攻めは思いの外手こずった。峻険な崖の上に立つ山城は寄せ手が圧倒的不利だ。更にここを取られたら後がない兵士たちは斬死覚悟で向かってくる。
勇ましく出兵したのは梅雨の頃であったのに、膠着状態のまま、年の瀬を迎えようとしている。
埒があかぬと宗瑞は、城を囲う一部の兵のみを残し、大部分を帰城させる命を下した。
「いやはや凄まじいですな。寝る場所もなく、人の上に人が寝るような状態です」
「今、戻ってまいりましたのは第一陣。続々と兵達が戻ってまいります。いかがいたしましょう」
遠山直景、松田盛秀らの報告に氏綱は眉をしかめた。小田原城内の兵舎で受け入れられる数には限りがある。
怪我をしたり、病を得ているものも多い。過密な空間では疫病などが発生する恐れもある。これ以上の兵の消耗は何としても避けたかった。
「小田原中の寺院に触れを出せ。怪我や病なき者は寺にて受け入れろと」
「それしかございませんな」
直景が頷くと、盛秀は別の問題を指摘してくる。
「兵達の食料はどういたしますか」
こめかみに手を当て、氏綱はしばし考える。
「蔵米を放出して構わん。寺には極力、負担のかからぬようにせよ」
氏綱の指示に盛秀は即座に反駁してきた。
「今、蔵米を放出してしまっては、来年の実りの時期まで保たぬ恐れがございますが」
「構わん。足りぬ時は商人から買えばよい」
「足元を見られ、法外な値で売りつけられますぞ。そんなことをしていては、伊勢家の台所は⋯⋯」
氏綱の視線が暗い光を帯び、盛秀は一旦押し黙る。
「そこをやりくりするのが、そちの手腕であろう、盛秀。――よいな、兵達の帰還と負傷兵の回復が第一だ。伊勢家の財政より、兵を救う道を考えよ」
伊勢家は何代も伊豆や相模の民と共にあった一族ではない。だからこそ、人心を掴むのを、宗瑞は優先してきた。
『民を大切にしろ。人は己を大切にする者を忘れぬ。それが我らがこの地で生き抜く術じゃ』
宗瑞は事あるごとに氏綱にそう諭してきた。
「仰せの通りです、若」
直景が全面的に氏綱に同意したため、盛秀も低い声で「御意」とだけ言った。
「よしなに頼む」
直景に寺への依願の文書、盛秀に米の調達の差配を命じ、氏綱は二の丸へと向かう。廊を歩く足裏に冷気が伝う。
(泥沼に足を踏み込んだような戦になりそうじゃ)
先行きを案じながら部屋に戻ると、文机で芙蓉が突っ伏して眠っていた。脇の硯に墨が残っている。
平素、きっちりした妻だけに、こうした姿は初めて見た。肩を叩き、芙蓉を起こす。
「芙蓉、休むなら床へ行け」
目を覚ました芙蓉は、自分の失態に取り乱す。
「と、殿。申し訳ございません。殿をお待ちしている間に⋯⋯」
「待ってなくてよいと、いつも言っておろう、さあ」
芙蓉の肩を抱き、立ち上がらせる。が、芙蓉はなかなか歩き出さない。
「殿にお話したいことがあり、お待ちしておりました」
弾んだ声色の芙蓉の言葉を、氏綱は聞き流す。
「明日、聞こう。今宵は疲れたので、わしも休む」
「お味方、苦戦と伺っております」
すぐに氏綱の疲労の原因を察し、芙蓉は声も表情も引き締めた。雅な色に染まっていても、やはり芙蓉も武家の女だと感じ入る。
「うむ。一旦、城への兵の出入りも激しくなる。騒がしくなるやもしれぬがこらえてくれ」
「心得ております」
翌日、氏綱はまだ寝息を立てている芙蓉を残し、床を出る。
支度を整えていると、何か芙蓉の女房達の様子がおかしい。妙に浮き足立っていて、氏綱に声をかけようかどうしようか迷っているような雰囲気だ。
「いかがした」
気になって仕方がない。芙蓉が一番信頼している空木という女房に尋ねる。
空木ははっとした表情をしたが、すぐに平伏し、氏綱が思いも寄らぬ一言を告げた。
「お方様、ご懐妊祝着至極にございます」
「なんじゃと?」
目覚めた芙蓉に確かめると、やはりそういうことらしい。
「それならそうと早く」
芙蓉に愚痴を言いかけて、言葉を止める。
「いや、そなたは言おうとしていたのだな、大事を聞き逃した氏綱が悪かった」
「お城が大変な時に申し訳ございませぬ」
「そちが謝るようなことではない」
慌てて弁解し、芙蓉を抱き寄せる。細い肩が尚更華奢に感じた。産み月は水無月。田植えの頃だと言う。
「大事に致せ」
そう言い残し、氏綱は城門に向かう。夫を振り返った芙蓉の不安気な表情は、氏綱の目に映らないままだった。
数日後、新井城攻めの本隊と共に、宗瑞が城を訪れた。捗捗しくない戦況に苛立っているかという氏綱の予想に反し、宗瑞は落ち着いていた。
「簡単に落とせる城では無いからの。根比べじゃ」
淡々と言うが、眼光は獲物を狙う獅子のように鋭い。還暦を過ぎて尚、衰えぬ父の胆力に氏綱は心底敬服する。
祝宴とはいかぬが、慰労の宴席を設けた。諸将が居並ぶ中、氏綱の隣に芙蓉の姿がないことを宗瑞はいち早く気づく。
「芙蓉殿はいかがした」
「生憎芙蓉は、臥せっておりまして、席に着けず申し訳ありません」
「病か?」
宗瑞が尋ねると、小田原城の面々がざわめく。
「実は、芙蓉は懐妊致しまして⋯⋯」
「めでたい」
氏綱の言葉を遮り、宗瑞は場に響くような大声で言った。
「ようやった。これで伊勢の家も盤石じゃ、重畳重畳」
宗瑞が満面の笑みを浮かべると、居並ぶ家臣たちも一斉に表情を綻ばせる。
宴席は一気に盛り上がり、普段は韮山にいる宗瑞の側近らからも、氏綱は祝杯を受けた。
三日ほど宗瑞は小田原に逗留した。芙蓉とも対面し、懐妊を心から歓び、身重の身体を労い、願を込めたという御守まで手渡していた。芙蓉の方が恐縮していた。
韮山に帰るという日の朝、宗瑞は城の南側の櫓に立って海を眺めていた。
朝焼けの海に霧が立ち込め、水平線と空の境界がぼやけている。海からの風は冷たく吹き付けるが、宗瑞は首を竦めることすらなく、かくしゃくとした立ち姿だった。
城内を探していた氏綱は、櫓を上がり、父の隣に立つ。
「三浦の岬は見えぬのう」
くぐもった視界に、宗瑞は残念そうに呟いた。
「冬の晴れた日であれば遙か房総まで見えるのですが」
「なるほど、三浦半島の更に先か。――新九郎、わしは必ず三浦を滅ぼし、相模国を統一する」
「及ばずながら、この氏綱、父上を手助け致しまする」
畏まって言うと、宗瑞は苦笑いをして、氏綱の肩をぽんと叩く。宗瑞の欲しかった言葉では無かったようだ。
「跡継ぎが産まれたら、また来る。男でも女でも構わん。正室から産まれし子は家の宝じゃ。大切に育てよ」
「はっ」
宗瑞は梯子を降り、厩へ向かう。既に韮山に帰城の兵は隊列を組み、宗瑞の指示を待っている。
厩まで共をしようとすると、宗瑞に断られた。氏綱は櫓に残ったまま、大手門を出ていく父の隊列を見送った。
日の出と共に、朝霧はまたたく間に消え、空と海と岸の境目が明瞭になる。うっすらと輪郭を表した遠い岬に、氏綱は目を細めた。
「殿」
呼ばれ、視線を下ろすと、櫓の下に芙蓉が立っていた。慌てて櫓の下に降りる。
「私も登ってみとうございます」
「櫓にか」
「はい」と芙蓉は微笑む。氏綱の手を借り、芙蓉は櫓へと上がる。
冬の日差しを受け輝く海の眩しさに、芙蓉はしばらく言葉もなく魅入っていた。
「大殿は旅立たれてしまいましたか」
「昔から朝の早い人故な。何か言伝でもあったか」
「いろいろとお気遣い頂いたので、お礼を言いたかったのです」
「あんなに嬉しそうな父上を久しぶりに見た」
それ程に待ち望んでいた生命なのだろう。嫡男を籠城戦の囲みにも参陣させない程だ。
「はい。優しいお言葉も沢山頂きました」
「あのくらい⋯⋯喜べば良かったのだな」
喜色満面の父の表情と声が今も耳から離れない。
「え」
「すまない。どうしても伝えるのが下手じゃな」
謝ると芙蓉は袖で口元を覆い、くすくす笑う。
「殿らしくないことをおっしゃる」
「わしらしくないか」
「はい。言葉が全てと芙蓉は思うておりません」
氏綱も平素は芙蓉の言う通りだと思っている。だが今は。一度くらいは。
「ではもう一つだけ、らしくないことを申す。聞いたら、すぐ忘れろ」
「無茶を、おっしゃいますね」
芙蓉の両耳に手をかけ、少しだけ上向かせる。
芙蓉の目元と口元から余裕が消えて、ふっと真顔になった。
「――わしの妻が、そなたで良かった」
「殿」
「身体をいとい、良き子を産んでくれ」
「⋯⋯はい」
年が明け、永正十二年、芙蓉は伊勢家にとって待望の男児を出産する。この男児が、後に相模の獅子という二つ名で恐れられる氏康となる。




