6話 浅葱
足柄山の朝は寒い。板敷きから伝わる冷たさに浅葱は目を覚ました。寝返りを打とうとして、腰に巻き付けられている縄で自由を奪われていることを思い出す。
縄尻はヨネという女の手首に繋がっている。生命は助けられたが信頼はされていない。
ヨネはまだ寝息を立てていて、起きる気配はない。ぼんやり明るくなっていく家の中で、萱の天井を見上げた。
風魔の根城だというこの屋形に連れてこられて十日ほどになる。同じ屋形に起居している仲間は十人ほどだが、ヨネ以外とは口を聞いたこともない。
連れて来られた日に風魔の長に会った。
「若殿から風魔にて預かれと命を受けました」
ヨネは目の前の男にそう説明する。再び縄を打たれたまま、浅葱はその男の前に引き出された。
浅葱の前に立ったのは、初老の小柄な男だった。眉が太く、眼光は鋭い。対面すれば男とわかるが、体躯は線が細く、夜目であれば女性にも子どもにも見紛いそうであった。
(こんな男が長なのか)
意外に思っていると、かさついた手で顎を持ち上げられ、上を向かされた。窪んだ眼窩から、じろじろと遠慮のない視線を向けられる。不快でも逃げようが無く、浅葱は黙ってその視線を受け止めた。
「若殿も酔狂じゃな」
浅葱から手を離すと、長は吐き捨てるように言った。
「何かお考えがおありなのでしょう」
「命ならば仕方ない。ヨネ、手が掛かるが頼む」
短いやりとりがあっただけで、以降その長の姿も見ていない。
不思議で不気味な集団だ。
「起きたのか」
隣から声を掛けられ、浅葱は顔だけを右に向けた。
「お前は朝が早いな」
言いながらヨネは自分の左手から縄を外し、浅葱の腰縄も解く。これでやっと一日が始まる。
井戸で汲んだ冷たい水で顔を洗い、身支度を整える。
食事の前に訓練が始まる。
持たされるのは短めの直刀。構えから、振り方、下ろし方、受け方。徹底的に型を叩き込まれる。隣でヨネが見ていて、彼女が納得いくまでは何度も繰り返させられる。
褒めもしなければ、罵倒もされない。淡々と続く修行に、何某かの答えが欲しくて、刀を振り下ろした後で、縋るようにヨネを見てしまう。
「ヨネ」
ヨネからは対等な言葉遣いでいい、と最初の日に言われている。ヨネは浅葱より年上のようだし、何より組織の先輩だ。尻込みしていたら、「周囲の者に関係性を探られる必要が何処にある」と言われ、納得してしまった。
これまでの浅葱の常識が通用しないのだということも理解した。
「直すところがあったら、言ってほしい」
「特に無い」
「じゃあ何故、何度も同じことをさせる」
浅葱が不満をぶつけると、ヨネは無言のまま俊敏な動きで、浅葱の着物の襟を掴み、彼女の喉元に己の短刀を突きつけた。鞘は抜いていないが、敵であれば生命が無い。
「⋯⋯っ」
「反応できぬであろう」
悔しいがその通りだ。訓練が身についていないことを露呈している。
「覚えが悪いということか」
初日の長の言葉が否応なしに甦った。
――若殿も酔狂じゃな。
――手がかかるが頼む。
ここにしか居場所がないのに、ここですら否定されるのか。喉元の短刀を避けるように膝から崩れ落ちた。
「一朝一夕に身につくか。悔しいなら鍛錬しろ」
慣れた手捌きで、ヨネは短刀を腰にしまった。
「ヨネはうんざりしないのか、こんな素人を相手にしていて」
「――素人だから、お前は生命を助けられた。迷いがあっては、稽古していても無意味だろう」
さっと、ヨネは屋形に引き上げる。
怒りもしなければ、宥めもしない。
感情の制御すら、ここでは全て己で行えということか。
膝の泥を払って、浅葱は立ち上がった。
田に水が張られ、農村が活気づき始める。浅葱が朝方寒さで目覚めることもなくなった。腰の縄は未だにほどかれていないが、訓練の苛烈さで浅葱の眠りが深くなり、ヨネに起こされる日が増えている。
風魔でも田畑を持っていて、手の空いているものは田植えや種まきをしている。
小田原城主伊勢氏綱という男は、頻繁に城外へ出ていくようだ。伴も僅かで、時には騎馬単騎で城下の街やら農村へ出向くのだ。
(そんなことある?)
武蔵では見たことのない光景だ。
氏綱がお忍びで出る時は風魔の誰かが、密かについて回ることが多い。大分、刀や秘密裏の行動が出来るようになった浅葱は、ヨネと共に氏綱の護衛につくことになった。
「お方様もか」
馬上の氏綱の姿を確認して、ヨネが珍しく独りごちた。
氏綱の姿をみるのは、祝言の夜以来だ。命を助けられはしたが、恩人などとは思えない。浅葱の氏綱に対する印象は冷ややかなままだ。
二人乗りの駒はゆるゆると進むので、見習いの浅葱でもついて行きやすかった。追いつけないなら、置いていくとヨネからははっきり言われている。
城の北側の久野の農村で、氏綱は駒を停める。
自分が先に馬から降りると、馬上の女性に手をのべる。あれが氏綱の正妻らしい。図らずも調べようとしていたことが目の前にある。
腰に手を添え抱き上げながら、ゆっくり地に下ろす。表情も所作も浅葱が目を瞠るくらい柔らかい。
(あんな顔出来るのか⋯⋯)
自分に向けられた冷酷な眼差ししか知らない浅葱からすると、あの夜とは別人みたいだ。
地主のところへ馬を繋ぐと、あっという間に氏綱の周囲に人が集った。
(なんじゃ、ありゃ)
村の入り口の木の上から、氏綱の様子を見ていた浅葱は異様な光景に呆気に取られる。
会話の内容は具に聞き取れないが、村人の様子から察するに、切羽詰まったものではなく、世間話に近そうだ。
「今年の苗の調子はどうか」だの「田植えの人手足りてるか」だの。
氏綱はこの後も二、三の村を回っていたが、全て同じような調子だった。
「殿様が城内の田んぼを見て回ってるのか」
それに風魔はわざわざついて回るのか。ばからしく思えた。浅葱には理解不能だ。
「何のために」
「見ていれば、わかる」
相変わらずヨネは浅葱の疑問に、回答を用意しない。
(見てろと言われても)
村内を隈無く巡回し、話しかけられれば立ち止まって答え、田植え中の農民には「精が出るな」と声をかける。
平和過ぎる光景で、浅葱は欠伸を噛み殺すのに精一杯だ。
だが、四つ目の村を出る時、氏綱はわざわざヨネの潜んだ木陰までやってきた。
村を出る素振りで、ヨネに何か言葉を残す。ヨネが短く頷くと、すぐに待たせてあった馬に乗り去っていってしまった。
「降りろ」
ヨネに言われ、浅葱は木から飛び降りた。
「何かあったのか」
「この村の名主を夜明けまでに城まで連れてこいとのことだ」
「なんで」
浅葱の疑問にヨネはじっと村の方へ目を向けた。何事もなかったように、皆、田に戻っている。
「恐らく隠し田であろうな」
台帳に載っていない田があるということか。
ヨネの回答に浅葱の背筋をぞわっと冷たいものが走った。
(ならば今日の巡回は)
村人と握り飯を食い、農民の話に耳を傾け、何食わぬ顔をして、田のあぜ道を歩いていた男の姿を思い返す。
あれは全部、目と耳で勘定していたということか。可能なのか?そんなことが。
「相模国は他国より取り立てる税が少ない」
ヨネがぽつりと説明を加える。
「だから年貢の取りこぼしは許さない、ということか」
ヨネは答えない。答えないのが肯定だと、最近ようやくわかってきた。
人が寝静まるのを待って、ヨネと浅葱は久野の名主藤兵衛の家に忍んだ。
「殿からのお召しだ。手荒な真似はしたくない」
暁闇の中、ヨネは後ろから藤兵衛の首に華奢な腕を巻きつけ、もう片方の手で短刀を突きつける。
藤兵衛は大きく息を呑んだが、抵抗はしてこない。がっくりと肩を落とし、力の抜けた手を、浅葱はひとまとめにし、縄でぐるぐる縛った。
小田原城の裏手門に待機していた侍に引き渡して、ヨネの仕事は終わりらしい。
既に空は白みかけていた。
「あの人これからどうなるんだ?」
足柄への帰路、浅葱はヨネに尋ねてみる。
「隠し田についての審議をして、故意に隠してたことがわかれば⋯⋯」
「斬首?」
「まさか。これまでの分を納めさせて、今後はきっちり取り立てる。それだけだ」
ヨネが少し足を早める。会話を終わらせたい意思表示か。
「けどさ、やり方が陰湿だよな。」
わざと強い表現を使うと、ヨネは即座に振り返る。
「殿の悪口はやめろ」
「ヨネは殿が好きだからな」
浅葱がからかっても、ヨネは顔色一つ変えない。
「お前と同じだ」
「同じ? いやいや私は」
好意を否定しようとする浅葱を遮って、ヨネは続ける。
「――七年前、酒匂川が氾濫した。村ごと流された。柱にしがみついて、中州に引っかかった私だけ生き残った。途方に暮れて泣いてたら、殿が拾ってくれた」
ヨネの身の上話は初めて聞いた。凄惨な、けれど今も何処かの国で起こっていそうな話だ。
そして――あの若殿なら、領内の洪水の被害を見て回るなんて、いかにもやりそうなことだ。
「恩がある。だから――信じてるのか」
「お前もそうしろとは言わん。だが――生かされてることは忘れるな」
浅葱の嘲りの色を感じ取ったか、ヨネは吐き捨てるように言って、また背を向けた。
下手なことをしたら生命はいつでも取れるということか。釘の差し方がいちいち怖ろしい。
小さく息をついて、浅葱はヨネの背中を追いかけた。
「――もう、これはいいか」
寝る前の腰の縄を締めなくなったのは、浅葱が足柄に来て、三月が経たぬ頃だった。
「信頼されるまで大分時間かかったな」
「疑り深い一族で悪いな」
言いながらヨネは短刀で縄を切る。
久しぶりに思い切り寝返りを打てる。浅葱はヨネに背中を向けて、目を閉じた。
三日後は満月の夜だった。フクロウの鳴き声がやけに響き、その声に混じって、ヨネの寝息も聞こえた。
息を潜め、浅葱はゆっくりと身体を起こす。まだヨネの寝息は聞こえる。
(修行の成果だな)
身体は軽く、動きは疾い。またたく間に浅葱は屋形を抜け出した。
足柄山に懸かった月は大きく明るかった。夜目の効かない浅葱でも麓まで走れそうだ。
胸元に忍ばせていた草鞋を取り出したのだが、紐がうまく結べない。寒くもないのに、指先が震えていた。
(何でだ)
ここまで順調だったのに。焦れば焦るほど、紐がもつれる。
「江戸に帰るのか」
低い声で咎められ、浅葱は心臓が止まりそうになる。誰の声か認知していたが、それ故に怖ろしい。
ゆっくり振り返ると、仁王立ちの氏綱とその傍らに膝立ちのヨネがいて、浅葱は今度こそ死を覚悟した。
(こんなとこまで⋯⋯本当に神出鬼没過ぎるだろ)
「何でここに⋯⋯」
「逃げるなら今宵であろう」
氏綱も浅葱の背後の満月に目を向ける。
(やられた)
解いた縄は信頼したからではなく、逃げる機会をわざと与えるためか。
「斬ればいいだろ」
開き直って、二人に向かい合って胡座をかいて座り込む。強がってみても声は震えた。
「お前の生命などいつでも奪れる」
凄んで見せてから、氏綱は地面に片膝をついた。浅葱の両肩を引き寄せて、言う。
「――お前の主、扇谷上杉家家臣太田資高殿に繋ぎをつけたい」
決して明かしたくなかった主の名があっさりと出され、浅葱は慄いた。言うだけ言うと、氏綱は立ち上がり、浅葱の反応を窺うように、一歩下がる。
「⋯⋯」
何で、と喉元まで出掛かった疑問を、無理やり飲み込んだ。だが、表情には既に出ていたのだろう。
氏綱は懐から短刀を出してきて、空に投げ上げる。月明かりに照らされれば、見覚えがあるもの――捕らえられた時に奪われた、浅葱の短刀だ。
「鞘に施された桔梗の花は、太田家の家紋だからな。――違うか?」
落下してきた短刀を再びしっかり握りしめて、浅葱の顔を見る。
「いかが致す」
伊勢家の内部に入り込み、隙を窺って江戸まで逃げ帰るつもりであった。
まんまと泳がされていた。欺いているつもりで欺かれていたのはこっちだった。
全部この男の掌の上だったのが悔しい。
「私に何をしろと」
「これを渡してくれれば、いい」
氏綱は懐から書状を差し出す。何処まで周到な男かと、浅葱は舌を巻く。
「資高様を裏切れということか」
「違う。出来もしなさそうなことは頼まん」
「⋯⋯わかった」
選択肢などほぼ無かった。不承不承頷く。
ヨネが無言のまま、食料や路銀は持たせてくれた。怒ってはいるのだろう、目も合わせてくれない。
「これは返す」
と最後に渡されたのが、桔梗花の短刀だった。
『よいな。構えて無理はするな』
この短刀を浅葱に託してくれた主、資高の声と温度が甦る。じわりと掌が熱くなり、大きめの鞘は浅葱の手に驚くほど馴染んだ。
何が無理だったのか、何処で引き返すべきだったのか、もうわからない。
「必ず戻って参れ」
氏綱の言葉は奇しくも、自分を小田原へ送り出した時の主と同じものだった。
朝を待って、浅葱は江戸へと旅立った。




