5話 今川館
芙蓉と貝合せに興じた三日後、氏綱は数名の近習と共に、駿河の今川館へ向かった。今川氏親へ無事に芙蓉と婚姻を済ませた報告と、今後、三浦半島への侵攻の際の援軍の依頼である。
途中韮山城に立ち寄り、宗瑞から今川氏親宛の書状を受け取り、長浜の港から駿府に向かった。
初夏の爽やかな風を受け、帆は大きく膨らみ、航路は快適に進む。
海路より駿府に到着すると、氏綱は大きく伸びをした。
眼前に聳える富士山は小田原から見るそれとは比較にならない存在感だ。
港からは徒歩で駿府の街に入る。京を模し、碁盤の目のように通りが整備された街並みを、氏綱はその場で簡単に模写する。
「若、それ何ですか?」
供回りでついてきた大道寺盛昌が、氏綱の手元を覗き込んだ。
「見るなよ」
「見えちゃったんですよ。某の方が背が高いので」
盛昌は基本的に口数が多く、ずけずけと物を言う男だ。氏綱より三つ程年若く、互いに元服前から知っている。主従というより、兄弟のような、悪友のような馴れ合いを、氏綱も盛昌だけには許していた。
「氏綱が参ったこと、今川館に知らせて参れ」
「若をお一人にはできませぬ」
「お前以外がいればいい」
うるさい盛昌は追い払って、氏綱は改めて駿府の城下町を歩いて回る。街の外れの寺には市が立ち、職人達の街と武家屋敷は明確に区分けされていた。
「なるほどな」
小田原の景観と比較し、呟く。芙蓉が親しんできたのは、こういう街並みであり、景色であったのか。駿河には何度か来ているのに、今までと異なる風景が広がっているようだった。
大通りを突き当たりまで進むと、ひときわ立派な建物――今川館が構えていた。館の周囲に水堀が廻り、中央に反り橋がかかっている。橋を渡ると門兵に守られた冠木門の横に、盛昌が待っていた。
「行くか」
「はっ」
他の供の者には近くで待つように言い置いて、門をくぐった。
「氏親様、お久しゅうございます」
「うむ、よう来られた」
今川氏親との対面は久しぶりだった。氏綱より一回り年上のこの従兄弟は、武より文に秀で、見た目の印象も柔らかい。
「父より書状をお預かりしております」
宗瑞からの書状を氏綱は手渡す。氏親はゆっくりと宗瑞からの書状を紐解いた。
「いよいよ三浦の本城を攻めるか」
読み終えた書を丁寧に畳み、氏親は氏綱に語りかけた。
「はっ」
目下、宗瑞の攻略目標は相模国の名家、三浦氏であった。数年かけて、岡崎城、住吉城と彼らの居城を次々に陥落させ、ついには三浦半島の突端にある新井城まで追い詰めた。
「新井城を落とせば、父悲願の相模国統一が叶います。城攻めの際、是非とも、氏親様のお力賜りたく」
「なかなかの堅城らしいな。弱音が文面からも伝わってきたぞ」
「仰せの通りにございます」
新井城は三方を海に面し、切り立った崖に聳える天然の要害。攻めるには相当の兵力も時間も要する。
「現在、急ぎ鎌倉は玉縄の地に、新井城攻略の拠点となる城を築いております。完成次第、伊勢家の総力を挙げ、新井城攻略に向かう予定にございます」
「叔父上もまだまだ血気盛んよのう」
氏親は親しみを込めてか、宗瑞を「叔父上」と呼ぶ。今川の客将という曖昧な地位にいながら、伊勢家が伊豆や相模で自由に領国の仕置ができるのは、氏親のこの庇護と鷹揚さに拠るものが大きい。
「あいわかった。新井城攻略の際は、必ずや援軍を送る故ご安心を、と叔父上に伝えてくれ」
「ありがたいお言葉、感謝致します」
援軍の確約を得、役目を終え、氏綱の肩の荷が軽くなる。少し緩んだ心の隙を狙ったかのように、氏親は氏綱自身のことに切り込んできた。
「ところで、嫁を得ての新たな生活はどうじゃ? こと姫は今川家中では、誰も手が出せなかった程勝ち気な姫じゃ。尻に敷かれておらぬか?」
「え」
絶句した氏綱の反応が期待通りだったらしく、氏親は声を立てて笑った。
従兄弟同士の気安さ故の物言いとわかってはいても、こういった艶めかしい話が氏綱は苦手だ。父からも散々、面白みのない男よ、と言われる所以でもあるのだが。
こめかみに手を当て、氏親の満足しそうな返しをしばし考える。思い出したのが、先日の貝合せだった。
「貝合せの相手を所望されて、一勝負いたしましたが、見事に散りました。夫の威厳台無しでございます」
「あんな時間の掛かる遊びによう付き合うわ」
ははっと氏親は愉快げに笑う。
それから、氏綱に一通の文を託してきた。
「此度そちが遣いに来ると聞いてな、こと姫の母から、娘への文を預かっておる。その様子では、変に里心がつく心配もあるまい。小田原へ戻ったら渡してもらえるか」
単に興味本位やからかいで、氏綱と芙蓉の夫婦仲を尋ねてきたわけではないようだ。
「かしこまりました」
母から娘への文は、最初に氏綱が氏親に渡した書とは、まるで趣が異なる。薄紫色の料紙に、花を添えた綴じ紐。懐にしまう際、甘く雅な香りが漂った。
七日の旅を終え、氏綱は小田原へ戻ってきた。
「お帰りなさいませ」
芙蓉は平伏し、氏綱を出迎える。たった七日なのに、夫の顔を見るのが、随分久しぶりに思えた。
氏綱の旅装を解き、着替えを手伝っていると、「そうじゃ」と氏綱は、懐から文を取り出してきた。
「そちの母上から預かってきた」
「ありがとうございます」
父を早くに亡くし、芙蓉は母一人子一人。母の弟である今川氏親の庇護の元、ひっそりと暮らしてきた。
だからこそ、恐らく、母も異国へ嫁がせた娘の身を日々案じていたのだろう。
文は他国で暮らす娘への愛情で溢れていた。
母の思いと懐かしさに、芙蓉の目頭が熱くなる。
「返書を書いたら、信頼のおける者に届けさせる」
手紙の内容などには触れず、氏綱はそれだけ言った。
「いえ。⋯⋯返書には及びません」
母の手紙は芙蓉の返事を求めるような内容では無かったし、芙蓉が返事を出せば、また母から便りが来る。いつまでも終わらなくなる。
「よいのか」
氏綱には意外だったらしい。珍しく念を押してきた。
「はい。それより、駿府のことをお聞かせください」
芙蓉の言葉に、どこか安心したように、氏綱の口元が柔らかく緩んだ。
文机に氏綱は折りたたまれた料紙を1枚広げる。碁盤の目と背後の富士山。上手くはない絵図だが、特徴的な街だからすぐに芙蓉にも容易に察せた。
「駿府の街ですか?」
「ああ。よう、わかったな」
「故郷ですから」
「駿府は、いい街よな」
文机に頬杖をつき、遠い目をしてから、氏綱は何かを思いついたように芙蓉に命じた。
「紙と筆を頼む」
芙蓉がすぐ用意させ筆にたっぷりと墨を含ませ、氏綱はまず城を書き込んだ。
背後の山々、全面の海。そして、町の両側を流れる川が二本。
「こちらは小田原ですね」
横から氏綱の書を覗き込み、芙蓉は尋ねた。
「ようわかったな」
答えながらも氏綱は、海沿いの街道や城の背後の寺社などを描き込んでゆく。描き終えた絵図を見て、氏綱は腕組みし、むうと唸ると、別の料紙を取り出し、改めて、駿府の街を描き始めた。
「芙蓉、駿府の町の様子はわかるか」
氏綱の記憶があやふやなところを芙蓉が補い、駿府と小田原の絵図が仕上がった。
氏綱はじっと二枚を見比べる。
「やはり町の規模も整備も比較にならないのう。だが、わしは小田原を駿府の町に負けない町にしたい」
『この国が好きだ』と宣言した時と同じくらいの熱量で、氏綱は言う。思わず、湧いた疑問をそのままぶつけてしまった。
「なりますか?」
「だからしたいと言っておる。理想や目標がなければ、漫然と時が流れてゆくだけであろう」
絵図の中に今はない神社や武家屋敷、そして市などを氏綱は朱の筆で書き込んでいく。
子どものように夢中になっている氏綱に芙蓉は微笑み、氏綱の左肩にもたれかかった。
「小田原が駿府に負けぬ街となる日。芙蓉は楽しみにお待ちしております」
刹那、氏綱の筆が止まる。
「楽しみに待っておれ」




