4話 貝合わせ
桜が散り、庭のヤダケが伸び始めている。
芙蓉がこの城に来てひと月程が経っていた。
「何か不自由していることはないか」
昼、妻の部屋を訪ねた氏綱は、そう話を切り出した。
「お心遣い痛みいります」
美しい所作で礼をしてから、芙蓉は辺りを見回した。
二の丸の曲輪内の屋敷の一つを芙蓉に使わせているが、小田原城の中で、ひときわ異彩を放つ空間になっていた。
まず、香りが違う。常に香が焚きしめられ、一歩入った瞬間にいい香りが漂う。ずらりと黒塗りに蒔絵の施された長持や姿見。そして、芙蓉の連れてきた女房たちの華やかさだ。
言ってはみたものの、不自由しているものなどなさそうだと氏綱自身も思ったが、芙蓉は意外なことを言い出した。
「貝合せのお相手が欲しゅうございます」
「貝合せ?」
「女房たちとはもう遊びすぎて、飽きてしまいました」
つまらなそうに芙蓉は言う。しかし、芙蓉の相手になるような女性が城内に思い浮かばなかった。
「では、わしではどうか」
「殿がお相手くださるのですか」
「だめか」
「いえ。面白そうです。手加減いたしませぬが、よろしいですか」
芙蓉は妖艶な中にも勝ち気な笑みを浮かべ、地貝を円状に並べ始めた。
思ったより数が多い。並べられた地貝と出貝を合わせるのだが、慣れていない氏綱には貝の柄が全て同じに見える。
「合いました」
芙蓉がぴったり合った貝を重ねると、カチリと独特な音が鳴る。単純な遊びだけに、実力差がはっきり表れた。
「私の勝ちでございますね」
最後の貝を合わせて、芙蓉は楽しそうに笑った。芙蓉の半分も取れなかったので、氏綱は完敗だ。
「戦であれば敗走じゃな」
「もう一戦致しますか?」
「いや、態勢を整えてからにしよう」
では、と芙蓉の女房の一人が貝の入っていた蒔絵の貝桶を持ってくる。
しまおうと手にした貝を見て、氏綱はふと気付く。
「これは欠けてしまっているのじゃな」
出貝の縁が少し削れてしまっている。源氏物語の一部が描かれた美しい絵柄なだけに、惜しい。
氏綱が拾い上げた貝を、芙蓉は両手に受け取り、遠い目をした。
「そうなのです、いくつか欠けたり、割れてしまって、泣く泣く捨てたものもあります。代々受け継いできたものなので」
「代々……というと」
「これは曾祖母の嫁入り道具だったと聞いております」
「ほう」
改めて氏綱は床に広がる貝を拾って眺める。曾祖母ということは、最低でも五十年は経っているのではないだろうか。
「では、より大切にせぬといかんな」
改めて、今川から来た姫の家格を、歴史を思い知る。
「娘が生まれたら、この貝桶を持たせたく思っておりましたが、殿が新しくお作りいただいても構いませんよ」
「何じゃと?」
芙蓉の突拍子もない言葉に、焦りで貝を落としそうになり、慌てて左手で受け取る。蒔絵の貝桶に金箔を貼った蛤に優美な絵柄。何処に行ったら手に入るのか、氏綱には想像もつかない。
「駿河には、これを作れる職人がおるのか」
「はい」
芙蓉は間髪入れず答える。
腕利きの漆工や絵師が揃っていなければ、こうも見事な細工はできまい。圧倒的な文化の違いを、掌に収まるほどの小さな貝に思い知らされた。
「この一対は、わしが貰ってもいいか?」
欠けた出貝と地貝の絵柄を合わせ、氏綱は芙蓉に尋ねる。平安貴族の一対の男女が、氏綱の手中に表れた。
「殿が?」
「だめか?」
氏綱の手から、芙蓉は片方の貝殻だけを手に取った。
「葵の上ですね。源氏とすれ違ったまま、夕霧を残して逝ってしまう薄幸の女性」
「⋯⋯他意は無いぞ」
「わかっております」
ふふ、と芙蓉は笑う。
「では、殿が葵の上をお持ちください。私は源氏の君を」
そう言うと、芙蓉は自分の手の中の葵の上と、氏綱の掌に残されていた源氏の貝を取り替える。欠けているのは源氏の方であるのに。
「そちの言い方はいちいち含みがあるのう」
「殿が勘ぐり過ぎなのでございます」
「――まあ、いい。貰うぞ。欠けぬよう大切に致す」
貝の中の葵の上は長い髪に覆われて、表情も見えない。氏綱はぎゅっと掌の中の貝を握りしめた。




