3話 芙蓉
まだ宴席の名残りの喧騒が聞こえる。
静寂と緊張に包まれた部屋に一人取り残されたこと姫には、やけにその声が大きく響く。
こと姫の待つ人はまだ来ない。
城内で異変があったのだろうが、先に休めと言われても、婚姻して初めての夜。眠れるわけなどない。
女房の空木などは、これは今川に対する侮辱では、と憤慨していたが、こと姫はそれを宥め、下がらせた。
ふうっと息をつくと、か細い灯りが闇に揺れる。彼女の背後の真綿の寝具だけが、闇に浮かび上がっているようだった。
氏綱が現れたのは、夜半過ぎだった。
端座して彼を迎えたこと姫に、氏綱は驚いたようだった。気まずそうに腰を下ろす。
対面して改めて、じっくりと夫になる人を見つめた。
骨ばった輪郭に、切れ長の目が鋭い。武士らしい精悍な顔立ちだ。知性もありそうな佇まいを、こと姫は好ましく見た。
今川氏親とは従兄弟のはずだけれど、余り似ていない。
氏綱がこと姫をどう見たかはわからない。けれど、氏綱は指一本こと姫に伸ばすことなくこう言った。
「長旅、疲れたであろう、今宵はゆるりと休め」
そう伝えると、氏綱はさっさと自分だけ寝具に身を横たえる。
想定していた流れと異なり、こと姫が戸惑っている間に、氏綱の寝息が闇に響き始めたので、燭台の火を消し、自分ものそのそと寝具に入る。
(お気に召さなかったのだろうか)
不安と寂しさが一気に去来し、こと姫は声を殺して泣いていた。海からの風が城の板戸をカタカタと揺らしていた。
床を歩く人の足音でこと姫は目を覚ました。空はまだ仄暗く、明け六つの鐘も鳴っていない。
眠い目を擦りながら、隣を見ると、夫である氏綱はもういなかった。寝具に手をのべると既にひんやりしている。
昨夜も遅かったのに、朝の早い一家だ。今川家中なら、恐らくまだ誰も起きていない。
「姫様」
遠慮がちに話しかけてきたのは、女房の空木だ。居住まいを正し、声へ応える。
「いかがでしたか、昨夜は?」
宴席の後、閨までなかなか現れずにいた氏綱に、空木は不快感を露わに尋ねる。
答えに惑う。余計な心配は掛けたくない。
「大丈夫よ」
「つつがなく床入りされたのなら、ようございました」
と満足げな空木の声を合図にするように、膳が運ばれてきた。
焼き魚に貝の汁物。香の物と白米。
駿河での食事と大きく変わらないが、器は素朴な素焼きの碗であった。昨夜の祝宴の際の漆塗りの膳とはだいぶ異なる。
気が進まないながらも箸を取る。香の物の塩気が強い気がしたが、魚は新鮮で美味しかった。
「氏綱様は⋯⋯」
膳を下げに来たものに尋ねてみても、当たり前だが知らぬと言う。
「お忙しい方ですので」
とそそくさと膳は片づけられてしまい、こと姫はまた手持ち無沙汰になる。
鶯の鳴き声に導かれるように、縁に出てみると、庭の桜が蕾をつけ始めていた。
枝に止まったと思ったら、薄水色の空に飛び立った小さな翼を目で追っていると、軽快な足音がした。
振り返ると氏綱が立っていた。
「姫」
呼びかけてから氏綱は少し首を傾げた。しっくり来なかったようだ。
「何と呼んだらいいか」
真っ向から聞かれて、こと姫は惑う。泳いだ視線の先に、駿河で見るより小さくなった富士の山があった。
相模でも見られるのか、と感じた懐かしさを、こと姫はそのまま口に出す。
「芙蓉、とでも呼んでいただければ」
富士の別名を告げると、氏綱も顎に手を当てて、「なるほど」と頷く。彼の視線も富士に向いていた。
「では、これよりは芙蓉と呼ぼう。ところで」
と氏綱はこと姫改め、芙蓉の前にしゃがみ込む。
「小田原の城を案内したいがいかがか」
「⋯⋯よろしいのですか?」
城の内部構造など、隣国より来たばかりの妻に教えていいのだろうか。
しかし氏綱は芙蓉の危惧を全く頓着しない。
「虎口だけは知っていないと逃げられぬであろう」
「逃げるような事態になりますか?」
「ならぬよう最善の努力は致している」
大真面目に氏綱は答える。
「支度を」と言われ、軽装に着替え、髪を後ろで束ねる。手伝ってくれた空木は、終始不審そうだった。
小田原の城内を氏綱に連れられて歩く。空間の使い方が実戦的で、曲がり角が多く、視界を遮るように作られている。また、曲輪の周囲には土塁が廻らされ、曲輪と曲輪の間には堀があった。
「⋯⋯守るためのお城でございますね」
いくつめかの曲がり角で、ふと感想が口をついて出てしまった。
今川館とて、堀も土塁もある。けれど、こんなに深くもないし、数もない。
前を歩いていた氏綱は立ち止まって振り返った。
「差し出口を申しました」
だが焦った芙蓉と対照的に、氏綱の眼差しはおだやかだ。静かに芙蓉から土塁へ視線を移す。
「確かに。優美さと贅を極めた今川館とは天地ほども違うな」
「そういう意味では」
「寡勢で守るには知恵がいる。そのための工夫じゃ」
氏綱は特に引け目を覚えていないようで、堂々と言う。その後も迷路のような城を歩き回り、
「ここが早川に抜ける虎口じゃ」
と氏綱に説明されても、一人でもう一度ここまで来られる自信は無かった。
「せっかくだから領内も案内したいが、疲れたか?」
正直に言えば疲れはある。芙蓉は昨夜、ほぼ眠れていない。明け方微睡んだ程度だ。
けれど、否は言えなかった。
「いえ」
「なら行くか」
氏綱は真っ直ぐに厩舎に向かう。
「またお忍びでお出かけですか」
厩番の男は少しあきれたように言いながら、黒鹿毛の馬を引いて来る。他の馬より圧倒的に良質なことは、芙蓉にも一目でわかった。
鐙を踏んで颯爽と馬に跨ると、氏綱は芙蓉に手を伸ばす。
「私、馬など」
思わず拒絶の態度を取ってしまう。
相模は家来筋の国だから、駿河と大きく変わらない。婚姻前にそう諭してきた空木を恨むくらい、芙蓉は混乱していた。
何もかもが芙蓉の想像と違う。
氏綱は一度跨った馬から降りてきて、芙蓉の前に立つ。
「そうか、馬は初めてか」
「⋯⋯」
昨夜は放ったらかしにしていたくせに、今はこうして強引なまでに、芙蓉に国内の様子を知らしめようとする。
芙蓉には本当にこの男の意図がわからない。
「馬の方が景色はよく見えるが⋯⋯輿を用意するか」
無言の芙蓉に否を感じ取ったのであろう、氏綱はさっと自分の申し出を翻す。
「お待ちください」
手綱を厩番に渡しかけた氏綱に、思わず言っていた。
「遠がけ、お連れくださいませ」
芙蓉の申し出に氏綱は満足そうに微笑んだ。
「落とさぬから心配いたすな」
氏綱はそう言い、自分が馬に乗ってから芙蓉に手を差し出した。
触れ合うのはこれが初めてなのだが、意識しているのは芙蓉だけのようだ。差し出された大きな手に芙蓉は恐る恐る手を載せる。ぐっと手首を掴まれると、腰にも腕を回され、あっという間に芙蓉は馬上に乗せられていた。
高い。率直な感想はそれだった。
視界が変わると見える世界が全く違う。
「怖くないか」
芙蓉が頷くと、氏綱は馬腹を蹴って駆け出す。土埃が舞い、圧倒的な土の匂いにむせかえりそうになった。
空が青く、八幡山の丘陵から見る海は陽射しに輝いている。昨日も輿の中で同じような道は通ってきている筈だが、輿の中からでは、たまに簾を上げて覗くくらいしか出来ない。視界の広がりが全く違う。
川沿いの農村にはいると、田んぼの中の細い道を氏綱はゆっくり駒を進めていく。
ここでも芙蓉は驚いたのだが、何故か農民たちが氏綱の顔を知っているのだ。
「あ、殿様だ」
「こんにちは」
などと気さくに氏綱に声を掛けるし、氏綱も馬上でその声に応える。時には馬から降りて、親身に農民たちの相談に乗る一幕などもあった。
「疲れたのではないか」
馬上の芙蓉に手をのべ、氏綱は彼女を馬から降ろす。直垂の袖から表れた腕は日焼けし、しなやかな筋肉に覆われている。
促されるままに、川辺の土手に腰掛け、芙蓉は彼の背中をじっと見つめる。
手綱の捌き方や農村でのやり取りをみるに、こういった領内循環は彼にとって日常なのだろう。
渓流の水を馬に飲ませ、芙蓉の元に戻ってくると、氏綱は芙蓉に竹の包みを差し出した。
「これは?」
「先ほどの農村で貰った」
包を解くと、形の歪な握り飯が二つ入っていた。「食べるか?」と問われ、芙蓉は恐る恐る一つを手に取る。残った一つを氏綱は手に取り、真っ直ぐに口に運ぶ。
「殿は領民の方々に慕われておりますのね」
「そうか?」
氏綱の手のなかでおにぎりはどんどん形を崩してゆく。野外で食事をするなど、はしたないと駿河でなら咎められそうだが、ここには芙蓉の行動に小言を言う者はいない。
一口食べてみると、米の甘みと仄かな塩味が口のなかに広がった。
「美味しいです」
「そうであろう」
貰った物なのに、氏綱は自分のことのようの嬉しそうにする。
目の前の早川のせせらぎが耳に心地よく、穏やかな時間が流れていた。
「芙蓉」
芙蓉が握り飯を食べ終えると、氏綱はそう言って立ち上がる。芙蓉がぼんやりしていると、氏綱は小さく笑ってから指摘する。
「そちのことではないのか」
呼び名を聞かれ、「芙蓉」と答えたのを芙蓉はすっかり失念していた。
「申し訳ありません」
慌てて立ち上がると、膝に載せていた竹の包が足元に落ち、氏綱がそれを拾い上げる。
「焦らずとも良い」
来た時と同じように、氏綱が芙蓉を抱き上げ馬上に乗せる。触れられた場所がじんわりと熱を帯び、くすぐったくて顔を上げられない。
「他に行きたいところはあるか?」
馬上で氏綱に尋ねれたが、芙蓉にはまだ相模のことは殆どわからない。答えの代わりに別の問いかけをした。
「また、このように連れ出してもらえますか?」
「無論」
「では今日はお城に帰ります」
氏綱が手綱を引くと、嘶きを合図に馬が駆け出す。振り返ると、箱根の山越しに富士の山が美しく見えた。
その夜もまた遅くになって、氏綱は芙蓉の元を訪れた。か細い蝋燭の火が揺らぎ、顔を芙蓉が顔を上げると、氏綱はゆっくりと芙蓉の前に腰を下ろす。
小さな灯りが照らし出すのは、お互いの表情だけという心許なさであるのに、二人の間に漂う空気はまるで違う。
「昼間はあちこち連れ回して悪かった。大丈夫であったか?」
本音を言えば、慣れない馬に乗せられ、下半身のあちこちが痛むが、芙蓉は表情を変えず、「いえ」と短く答える。
だが、芙蓉の強がりは見透かしているのだろう。刹那、氏綱の口元が柔らかく緩む。
懐手を組んだまま、氏綱は芙蓉にこう告げた。
「わしはこの国が好きだ。故にそなたにも好きになってもらいたい」
面白い男だと思った。自分ではなく、国を好きになれと言う。
「氏綱様は……私をお気に召さなかったのかと思っておりました」
昨夜の寂しさを思い出し、つい卑屈な発言が出てしまう。
「ばかを申すな。何も知らぬ相手とそなたは契りを交わせるのか」
「そういうものだと思って参りました」
「そうか。世の倣いと受け入れるか。わしは嫌だ」
その語気の強さに、芙蓉は昨夜からの氏綱の一連の行動の意味を悟る。
城内を歩かせたのも、村へ連れ出したのも――氏綱自身を教えるため。そして氏綱を芙蓉がどう受け止めるか知るため――。
もっと簡単に女を意に添わせる言葉も手段も、沢山あるはずなのに。
(意味がわからないお方)
そんな氏綱に昨夜から振り回されっぱなしの自分にも、可笑しさがこみ上げる。
「――私も相模国を好きになろうと思います」
芙蓉の答えに氏綱は目を細めた。昼間と同じように、大きな手で手首を掴まれ、氏綱の胸元に引き寄せられる。
「ゆっくりでいい。相模は逃げぬ」
「はい」
けれど芙蓉の胸の内に予感はある。駿河の富士より相模の富士を美しいと仰ぎ見る日がそう遠くないことを。
「伊勢家は敵も多い、苦労はかける」
「はい」
「だが、必ず守る」
何を、とは氏綱は言わない。国か、家か、自分なのか。
恐らく、全てをこの人は自分の背に負おうとしている。
「芙蓉」
まだ馴染まない名なのに、氏綱に呼ばれただけで、ぎゅっと心が鷲掴みにされたようだった。
この名で生きていく。この国で、この男と生きていく。そんな覚悟が伝わればいいと思いながら、答える。
「⋯⋯はい」
氏綱が手で空を切ると、ちろちろと燃えてた炎が消え、闇に包まれる。
芙蓉の声も熱も、小田原城の夜に溶けていった。




