29話 籠の中
タチアオイの花のてっぺんに蜻蛉が止まっている。羽を休めたその姿に、浅葱は気配を消して近づいた。手が届く距離まで詰めた瞬間、すかさず羽を摘む。
「浅葱すごーい」
伊豆千代丸の称賛の声をくすぐったく聞きながら、浅葱は振り向く。
待ち構えたように伊豆千代丸は、竹製の虫かごの蓋を開け、浅葱はその中にそっと虫を差し入れる。
小さな籠の中に閉じ込められ、蜻蛉は窮屈そうに羽を震わせた。
「浅葱、虫取り名人だね。ほら、母上」
「本当に⋯⋯私は虫が苦手なので羨ましいです」
伊豆千代丸に向けていた笑みを、芙蓉はそのまま浅葱に向けた。
(お方様、苦手なものあるんだ)
「⋯⋯幼い頃よく遊ぶ友と虫を取っていたので」
浅葱の脳裏に在りし日の江戸城が浮かぶ。資高も浅葱も伊豆千代丸くらいの年齢で、虫を取ったり追いかけっこしたり。
他愛もない思い出しかないのに、凄く楽しかった気がするのは何故なのだろう。飛べないと諦めたのか、籠の中のは大人しくなっている。
満足気に自分の部屋に持ち込もうとする伊豆千代丸を、浅葱は思わず引き止めていた。
「若様」
「ん?」
「蜻蛉は、浅葱がまたいつでも捕って差し上げます。この子を逃がしてあげてもよろしいですか」
「せっかく捕まえたのに?」
伊豆千代丸の眉が下がり、不服そうに口を尖らせる。横から芙蓉も浅葱の意見に後押しした。
「伊豆千代丸、蜻蛉は広い世界で飛び回って生きるもの。放してあげなさい」
伊豆千代丸は惜しそうに、なおも虫籠を小さな胸に抱きしめていたが、しばらくして思い切ったように蓋を開ける。
放たれた蜻蛉は一度先程のタチアオイに止まってから、城の中庭から飛び去っていった。
「若様、お優しゅうございます」
「浅葱が逃がせ、って言ったから逃がしたんだ。優しいのは浅葱であって、私じゃない」
そう言って空の虫籠を浅葱に押し付けると、芙蓉の腰にしがみつく。その声は少し潤んでいた。
(まずかったかな⋯⋯)
芙蓉に目線を送ると、伊豆千代丸の背中を撫でながら、芙蓉は浅葱には心配要らぬと言いたげに首を横に振る。
籠の中の蜻蛉が、資高の姿と重なっていた。自由を得てはばたく様を、浅葱は視界から見えなくなるまで追っていた。
「――頼む、梓。小田原に行ってくれ」
資高の命で自分はここにいる。自分という糸がここにいるのは――。
資高の声にならない叫びのようなものが、時を経て、場所を超えて、やっと届いた。
「お方様」
浅葱は芙蓉の足元に跪く。芙蓉が浅葱に視線を落としたのを合図に続けた。
「お話したい儀がございます」
浅葱を伴って部屋に入ると、芙蓉はまず空木に命じて、他の侍女たちを全て下がらせる。
芙蓉の部屋は季節に拠り様々な香の香りに満ちていた。
今日のこの香りは何というのだろう。夏らしく爽やかで軽い。手を延べられて、浅葱は用意された円座に腰を下ろした。、
いざ二人で対面すると何をどう話せばいいのか、言葉が出てこない。
けれど、まずはこれからだと思った。
「長年、お仕えしておりましたが、お方様に謝らねばならない儀がございます。既にご存知とは思いますが、私は扇谷上杉家家臣太田資高より伊勢家の内情を探るために遣わされた斥候でございます」
震える声で、けれど浅葱は一気に言った。怖くて顔が上げられない。
芙蓉からは怒りも、驚きも、呆れも、何も感じない。その場の空気は何一つ変わらなかった。
小さく芙蓉が笑う声がして、浅葱は恐る恐る顔を上げる。
「私を騙していたとそなたが謝る必要はありません」
「え」
「だって、自分の母の身内だからと、偽りの素性を言って、お前をここに置いているのは殿でしょう?」
芙蓉は説明してから、にっこりと笑う。
言い方の柔らかさと言葉の鋭さが、全く噛み合ってない。許容された感は全くなく、夏なのに、背筋にぶるっと震えが走った。
(そもそも、お方様、私の正体ほぼ見抜いてたもんな)
「それで?」
「え」
「今更、お前が小田原に来た本当の目的を話すのには理由があるのでしょう?」
芙蓉の瞳が一段と鋭くなった。
「はい」
板目についた指に自然に力が籠もる。
「⋯⋯お前は今、太田家家人として伊勢氏綱の正室である私に話しているのね」
無意識だったが、芙蓉の指摘の通りだった。
浅葱としてでなく、梓として芙蓉に対峙している。
浅葱は小さく頷いた。
「で、あれば私もお前の主ではなく、伊勢家の正室として振る舞いましょう」
扇を開き、口元を隠す。芙蓉の纏う空気が変わる。普段の柔らかさがなく、部屋の香の香りまで引き締まったように感じた。
「恐れながら申し上げます。江戸城城主太田資高について、伊勢氏綱様にお話したい儀があります。どうぞお方様からお取次ぎ頂きたいのです」
「――それは伊勢家にとっても実りのある話でしょうか」
伊勢家に有益でない、ましてや害を及ぼすようなものなら、絶対に許さない。言外に込められた芙蓉の圧力がすさまじく、呑まれそうになる。けれど資高の為に負けるわけに行かなかった。
(太田家と伊勢家を結ぶ――)
資高も氏綱も願うことは同じではないのか。
そうでなければ、自分を何度も江戸小田原を往復させぬはずだ。
「はい」
迷いなく言い切ると、芙蓉は深く頷いた。
「⋯⋯私には政略のことはわかりかねます。殿がどう判断されるか。対面の約束はできぬが、そなたの希望はお伝えします。それでよろしいですか?」
「何卒よしなにお願いいたします」
芙蓉はパタリと扇を閉じる。
「浅葱」
呼びかける声はいつもの芙蓉のそれだ。
「資高殿が大事なのですね」
芙蓉には珍しい真正面からの言葉を投げられ、浅葱の体温が上がる。
「⋯⋯はい」
ふふっ、と芙蓉は楽しげに声を立てて笑う。
「そなたの思いが通じるよう祈っております」




