26話 干菓子
江戸城に居場所は用意せぬ。
資高にそう言われたような気がして、浅葱は早々に城を発った。
(私は殿に何を期待していたんだろう)
良くやった、と言う褒め言葉か、かけがえのない存在だ、と認めて欲しかったのか――役目を与えて欲しかったのか。
玉川の土手から来た道を振り返る。
江戸と小田原の往復も三度目ともなると、迷わない。
丹沢の山を越え、足柄平野に広がる城郭は、江戸のそれと比べると遥かに広い。
(また大きくなった?)
城の東側で普請をしていて、それを横目に眺めながら、浅葱は城内に入った。
伊豆千代丸は浅葱の帰還に満面の笑みを浮かべた。
「浅葱、おかえり」
と小さな手を懸命に伸ばして、浅葱の手を掴もうとする。
「浅葱にね、見せたいと思ってリスの子を捕まえておいたの。だけど、空木が冬の間はリスは寒いから、山に返してあげてくださいませ、って。春になったら、また会いに行くんだ」
たどたどしくも、一生懸命話す様子が愛らしくて、聞いている浅葱も自然に口元が綻ぶ。けれど。
(春か⋯⋯)
中途半端な立場と心持ちでは、一つ先の季節でさえ、遠い未来のように思えてしまう。
「そうですね」
自分も行く、と約束は出来ずに相槌を打つと、浅葱の手を握っていた伊豆千代丸の手の力が弱くなった。
(あ、まずかった)
期待していた反応では無かったのだろう、伊豆千代丸は一瞬露骨に寂しそうな表情になった。
「浅葱もリスみたいに木に登って、若様のリス探しますね」
慌てておどけると、すぐに伊豆千代丸に笑顔が戻る。
「うん。浅葱も一緒に行こうね」
小さな手を振って、伊豆千代丸は守役と奥に行く。手習いの稽古があるらしい。
「浅葱」
小さな背中を見送っていたら、芙蓉に話しかけられ、慌てて膝を折ってその場に座る。
「少しいいですか」
勿論否はない。
(何を言われるんだろう)
緊張しながら、浅葱は芙蓉の後に続いた。
冬の夕方の日差しが柔らかく縁に差し込む。
「殿から頂いたお菓子があります。どうぞ」
三方の上に載っているのは、愛らしいうさぎをかたどった干菓子だった。見るだけで上等なものだとわかる。
「いただいていいんですか? お方様のでは」
「浅葱が戻ってきたか。と仰せになってから、このお菓子を渡されたので、殿がお前にあげたいのだと思います」
「そうなりますか?」
芙蓉の結論は一足飛びではないだろうか。浅葱が疑問を差し挟むと、芙蓉も少し首を傾げた。
「違うでしょうか」
芙蓉にしてみれば当然の帰結だったようだ。
「そもそも殿のお考えが浅葱にはわかりかねます」
江戸城から抱えてきた鬱屈した本心を、つい浅葱は芙蓉にぶつけてしまう。
資高のことも氏綱のことも。浅葱には何一つわからない。
何をしたらいいのか、何を求められているのか。
「わかりやすいお言葉を口にされる方ではないですからね」
「⋯⋯お方様には何でも話されているものかと」
思ったままを口にすると、芙蓉は小さく、くすっと笑う。そんなはずありません。否定が聞こえてくるようだった。
「わからないままで⋯⋯不満に思ったり、不安になることはないんですか。私は⋯⋯だめです。信じられないです」
自分の感情をそのまま言葉にしてしまう。声が震える。泣き出しそうだった。
「私が、殿のことではっきりわかることなんて一つきりです」
「え」
差し込んだ西日が、芙蓉の表情を背後から照らし、濃淡をくっきり描き出す。
「この人はこの国の為に生きてる。それだけ」
芙蓉はそう言い切って、目を伏せる。悲しそうでも、誇らしそうでもあった。
「それでお方様はいいんですか?」
芙蓉はにこやかな微笑みのまま、浅葱を見つめる。言葉の裏の感情まで見通すような真っ直ぐな柔らかい視線だった。
「昔話になるんですが、私の話をしてもいいですか」
「は、はい」
意外なことを言われ、浅葱は戸惑いつつも頷いた。
「私は駿河の国からこの国に嫁いできたんです。今川は伊勢家にとっては主家。大切にされて当然と思っていました」
「⋯⋯」
勿論、浅葱も知っている。資高からも聞いた話だ。
芙蓉は何を話そうとしているのか。小袖の中の掌にじわりと汗が滲んだ。
「けれど、祝言の夜、殿は夜半過ぎまで閨に現れませんでした。やっと来たと思ったら『今宵はもう休め』と。ひどくないですか。私をお気に召さなかったのかと、一晩中涙で枕を濡らしました」
「⋯⋯ひどい話ですね」
芙蓉が明るめの口調で語りかけるので、浅葱も同調して相槌を打つが、内心はとても平常ではいられなかった。
氏綱がその夜何をしていたのか、きっと芙蓉より浅葱の方が詳しい。動揺する気持ちを悟られないよう、視線は床へと落ちていった。
「次の日、いきなり『城内を案内する』って言われて、お城の虎口とあと相模国の領内連れて行かれたんです」
話が祝言の夜から離れて、少しだけ浅葱の緊張も解れる。芙蓉の昔話はまだ終わらない。
「私、生まれて初めて馬に乗りました。外でおにぎりも食べました。――その夜、言われたんです。わしはこの国が好きだ。そなたにもこの国を好きになってほしい、って」
「国を、ですか」
新妻に語る言葉としては、相当にずれている。が、氏綱なら言いそうだ。
「ああ、そうなんだって、昼間連れ回された意味がやっとわかって。この人は私より、ご自身より、国を大切にする方なんだって。でも⋯⋯私はそういう御方についていきたいと思ってしまったので、これはもう⋯⋯」
仕方ないですね、と芙蓉は照れ隠しなのか袖で口元を隠す。
「浅葱は浅葱の思うようにしたらいいと思います」
凛とした佇まいが息を呑むほど、強くて美しかった。
「私の⋯⋯」
ずっと資高の命に従うのが忠義だと思っていた。最初の小田原行きだって危険を顧みなかったのは、資高のためになると信じたからだ。
「何をしたらよいかわからなくて⋯⋯」
「殿はああいう方なので、何もおっしゃらないと思いますが、意味のないこともしない方です」
「⋯⋯」
(私を武蔵に帰した意味はある?)
自分で考えろということか。
そういえば手つかずのままだった干菓子に目を落とした。
何故互いの意思を確認するような書状も持たされぬまま、自分は小田原と江戸を行き来してるのだろう。資高は自分に何と言った。
「――わしの役に立ちたいとならば――梓、もう一度小田原に行ってくれ」
確かに頼まれた。けれど、小田原で何をしろとは言われていない。若様の相手をして、芙蓉の信頼を得て、その先は⋯⋯。
何か重要そうなことが頭に引っかかった。あの時、資高は浅葱にこうも言っていた。
『そうか? わしと通じる部分があると思うが』
すぐに似てない、と反射的に返してしまったのだが、会ったこともない男の何を見て、資高は氏綱をそう評したのだろう⋯⋯。
「浅葱?」
急に深刻な顔をして黙り込んでしまった浅葱を心配し、芙蓉が顔を覗き込む。
「あ、いえ。何でもないです。――お菓子、自室で頂いてもよろしいでしょうか」
「ええ。どうぞ」
「では⋯⋯」
腰を浮かしかけた浅葱に「そうそう」と芙蓉は思い出したように話を付け加えた。
「祝言の夜ですが、殿がいなかったのは女の斥候を捕まえていたからとのことです。近頃は城内で、そんな物騒な話は聞きませんが、気をつけてくださいね」
「か、かしこまりました」
と平伏したが、声は上擦ってしまった。
(完全にお方様は、私の正体知ってるじゃん)
泳がされているのか、遊ばれているのか。
小田原城怖い。改めて強く思う。
自室に戻り、一人になって浅葱は大きく息をついた。貰ってきた干菓子はうさぎの形をしていて、耳と目に朱がさしてある。
右耳の部分を一口齧ると、口いっぱいに甘みが広がった。
(美味しい⋯⋯)
江戸では口にしたことのない味だった。




