25話 鈍色の雪
鈍色の雲が江戸城の空を覆い尽くしていた。
(⋯⋯雪雲か?)
格子の窓から吹き付ける風は、首を竦めるほど冷たい。太田資高は堪らず、パタンと木戸を閉じた。その時だった。
「殿、お館様がお見えになるようです」
「なんじゃと?」
小姓の藤丸に言われ、反射的に閉じた窓を開ける。
先触れの者の話だと鷹狩りの帰りに立ち寄りたいとのことらしい。まだ朝興一行の姿は無い。
珍しい。資高の主、扇谷上杉朝興の来城は一年ぶりだ。
急ぎ、広間に場をしつらえさせ、庭には従者達が休めるよう陣幕を張る。
「急にすまんのう、そちの顔が見たくなった」
笠を外し、上座より朝興は上機嫌で資高に話しかける。
長年後見役だった上杉朝良が亡くなり、やっと己の好きなように国の差配ができる。そんな解放感に溢れている。
「ご尊顔拝し恐悦至極にございます」
「堅苦しいあいさつは要らぬ。――さて、道灌殿にもご挨拶を」
資高の挨拶を流し、朝興はやおら立ち上がり、勝手知ったる足取りで、奥の仏間へ向かった。
資高の住む曲輪を訪れると、朝興は必ず、ここに立ち寄る。
最初の頃は、遺族への配慮と点数稼ぎかと穿った見方をしていた資高だったが、どうもそうではないようだった。
今日も叔父の位牌に朝興は手を合わせ、長い時間黙祷を捧げている。
資高の叔父、太田道灌を討ったのは朝興にとっては大叔父に当たる上杉定正なのだが、朝興は本気でその定正に憤っている。何度目であったか「家臣は家の宝であるのに、真に惜しい⋯⋯」
そう言いながら、指で眦を拭っていたことがあり、資高の方が目を疑った。
(人がいいと言おうか何と言おうか⋯⋯)
呆れつつも憎めない人柄だ。
「今、先に道灌殿へ報告をしたのたが⋯⋯」
朝興はくるりと振り返って言う。
「何か、ございますか?」
「うむ。わしは、居城を江戸に移そうと思ってな」
春まで江戸城の主郭には上杉朝良がいた。養父朝良が亡くなったのを機に、朝興は川越城から移りたいのであろう。
「よろしかろうと思います。江戸は相模にも近き故、相模の奪還にはちょうど⋯⋯」
「そうそう、伊勢家と和睦したのよ。それをそちにも言いたかった」
朝興はついでのように切り出した。
「伊勢家と⋯⋯ですか」
それでは相模奪還など出来ぬではないか。
つい、腑に落ちない声になってしまう。
「複雑な思いはわかる。そなたも伊勢家には思うところがあるであろう」
太田家の先代、資高にとっては従兄弟の資康の正室が三浦道寸の娘。縁があるにはあるが、いや、それよりも。
「すぐに新井城を取り返し、三浦半島の国衆達を寝返らせた方がよろしいのでは?」
先年、新井城が落ち、扇谷上杉傘下の有力国衆、三浦氏が滅亡した。三浦に従っていた者は、軒並み伊勢に従属しているという。地盤を固められたら取り返すのが容易ではなくなる。
「そちの言い分もわかる。しかし、我等とて勝てぬ戦はしとうない。何、心配要らぬ。宗瑞亡き後の伊勢家は凡庸な跡取りがおるだけじゃ」
「凡庸⋯⋯なのでしょうか」
「凡庸に決まっておろう。和睦を乞うてきたのは、宗瑞の方からじゃ。自分がいなくなった後の伊勢家の行く末が心細く思えた故に相違ない。隙を見て、和睦は破ればよい」
代替わりさえすれば、朝興は相模を取り戻すのは容易と見ているらしい。
「⋯⋯」
伊勢家はあっという間に関東に進出してきた。その疾風のような侵略を、朝興は伊勢宗瑞という男が傑物であったため、と結論づけている。
「初夏の頃までには、江戸に移り住む故、これからもよろしく頼むぞ、資高」
そう言い、朝興は立ち上がる。窓の外に雪が舞い始めていた。
大手門まで資高は朝興を見送る。最後、朝興は馬上から降り、資高の前に立つ。
「伊勢との戦いは、そなたの初陣になろう。道灌殿にも勇ましい姿を見せてやらねばな」
資高の肩に掛かった雪を払い、朝興は力強く言い、江戸城を後にした。
朝興の右手が載った左肩だけに熱が残る。
本気で定正に憤り、本気で資高に期待しているのが伝わるからこそ、心が動くのか。
(しかし――伊勢と和睦がなったのか)
ふと資高は小田原に送ったままの梓の顔を思い出す。――帰ってくるか?
氏綱の動きが気になった。
自分だったら動く。確信を持ちながら資高は梓の帰城を待った。
三日後、朝興と入れ替わるように今度は梓が戻って来た。
「ただいま戻りました」
「ああ」
お互い言葉が続かない。話したいこと、聞きたいことはあるはずなのだが、敵国に預けていたという後ろめたさ故か。
蝶番が緩んだ格子戸が、海からの風にカタカタ鳴る。耳障りに感じながら、資高は小さく息をついた。
「久しいな」
呟くような一言を漸く紡ぎ出せた。梓の表情も柔らかくなる。
「殿にはお変わりなく」
代わり映えのない日々だった。常に頭上に蓋でもされているような鬱屈した感情を梓にぶつける前に、資高は話題を変える。
「何か預かっている書状などはあるか」
「いえ」
「言伝は」
「それもございません」
てっきり何某かの繋ぎをつけてくると思っていたのだが。予想が外れた。
「そうか」
「お前は預かっているだけだ。わしから命はできん。故に一旦戻す」
低い声色、いつもと違う物言い。
「そう言われ戻って参ったか」
梓はこくんと頷いた。
こちらの出方を窺うということか。或いは何も無ければ無いで、資高の方から関係を断ち切ったと、判断出来る。
(うまいやり方よな)
内心、資高は舌を巻く。
一人の女が行き来するだけ。双方に内応を証立てるものはない。
「して、小田原の暮らしはいかがであった。居心地は悪くなかったか」
「はい。お方様付きの侍女として、不自由ない暮らしをさせて頂いていました」
「ほう」
――浅葱をよしなに頼む。
一方的な資高からの願いを、(どういう了見であれ)一旦氏綱は引き取って叶えてくれたことになる。
会ったことがないのに、梓を通して、伊勢氏綱という男が見えてきた。
大胆さと慎重さ。誠実さと狡猾さ。相反する二つの性質を共に持っていて、盤面に応じて変えられる男のようだ。
凡庸そうな跡取りだと、朝興は評価していたが果たしてそうだろうか。
(――面白い)
脇息に肘をつき資高は思案する。さて、どうしようか。
「この後どうしろとも言われてないか」
「資た⋯⋯お前の主と計らえと。私はどうすればいいですか」
途方に暮れたような顔で梓は尋ねる。二人の主の間で混乱しているようだった。
「どうしたい」
「え」
「梓の好きにしていい」
何も持たせなかったということは、伊勢家にとっても今は動く時じゃないと見ているのだろう。しかし、それは太田にとっても同じだ。まだ、動けない。
だが自由を与えられると、梓は更に困った顔をした。
「梓でお役に立てることはないでしょうか」
「そういう話ではない」
寧ろ十二分に働いている。が、どうしても梓は大義が欲しいらしい。
「氏綱とわしと――どちらに仕えたい」
「殿です」
梓の返事の早さに思わず笑いがこみ上げてしまう。まだ梓が小田原に取り込まれる心配はなさそうだった。
「氏綱は信頼出来る男ではないのか。世話になっているのであろう」
わざと梓の気持ちを測るようなことを言ってみると、梓は不本意そうに首を傾げる。
「以前にも申し上げたかもしれませんが、何をお考えなのか、さっぱりわからぬお方です」
「そうか? わしと通じる部分があると思うが」
離れていながらも、相手の心が読めそうなのは、思考が似ているからではないのか。だが、資高の仮説を梓は打ち砕いてきた。
「似てません。全然似てません。殿の優しさがあの方にはございません」
「⋯⋯優しさ」
人の情に訴え、相手の欲しい言葉を掛ける――それを優しさと言うのなら、資高に限らず、朝興にもそれはある。扇谷上杉全体の家風なのかもしれない。
(我ながら――卑怯だと思うが、また利用するしかないのか)
「わしの役に立ちたいとならば――頼む。梓、もう一度小田原に行ってくれ」
梓は一瞬だけ切なげに顔を歪めた。けれど、すぐに平伏する。
「かしこまりました」
その声にはもう迷いは乗っていなかった。
朝興は伊勢家との和睦を早晩踏みにじるつもりのようだが、一つ大事なことを忘れている。
(――伊勢家でも同じことを考えているのではないか)
糸はまだ切れなかった。




