24話 父との別れ
遠山直景からの報告を聞き、宗瑞は深く嘆息した。虎の印判発給後、伊勢家直轄の地を治める代官達から、質問や不満が殺到しているらしい。
(だから、わしの名で出せと言ったのに)
「責は氏綱が負う」とまで断言したらしい。
宗瑞の意図が何も伝わっていない。
「こちらがその虎朱印の下文です」
直景は宗瑞に現物の下文を差し出す。内容に目を通し、宗瑞の表情がみるみるうちに固くなる。
退路を全て断ち切り、敵の正面に突っ込んで行くような危うさと切実さがある。
「これをいきなり突きつけられれば、現場の混乱は必至じゃのう⋯⋯」
「佐々本の処断も苛烈でしたが、更にここまでされるとは⋯⋯日頃温厚な方ですので、正直驚いております」
直景の感想に宗瑞も全面同意だ。
何故、ここまで。
「わしも新九郎を見誤っていたかもしれぬ」
綺麗事では国は回らぬ。そう伝えてきたはずであるのに。
「不正を許さない潔癖なところは若の美点と思います。が、ちょっとやりすぎではないでしょうか」
「一朝一夕に国は変えられぬからのう」
「仰せの通りにございます。若はまだまだ経験が浅い故の勇み足。大殿から窘めて頂けると助かります」
直景は言い残し出ていった。
直景が退室すると、代わりに笠原信為が現れた。直景の相談の内容はとっくに察しているようだ。
「なかなか楽隠居とはいかんのう」
宗瑞が自嘲すると、信為は何度も頷く。
「小田原に遣いを出してくれ。いや、わしが行く」
「ご無理をされてはいけません」
信為に止められ、結局小田原に使いを出す。すぐに来いと言ったのに、氏綱が韮山の城を訪れたのは三日後の夕刻だった。
腰の刀を脇に置くと、氏綱は宗瑞の枕元に端座した。
「遅くなり申し訳ありません」
深々と頭を下げる挙措もいつもの氏綱だ。
「何故わしが呼びつけたかわかるか」
「いえ。不首尾ございましたか」
答え方も平坦で、本当に心当たりは無さそうだった。
基本的に氏綱は感情を余り表に出さない。父の言うことには従順で誠実――ややもすれば、覇気のない息子だと内心、物足りぬ思いもあったのだが。
違和感を覚えたのは、山王村の不正の件からだ。役人の処罰の仕方にも情がなく、あの時も宗瑞は「やりすぎじゃ」と窘めた。全く氏綱には響かず、恬然としていたが。
「今更ではあるが、そちが直轄の各村に発給したおふれ、あれを取り消せ」
「何故です」
「直景が愚痴りに来たぞ。現場が混乱していて収拾がつかぬと」
圧を強く言うと、氏綱は小さく肩を竦めた。
「父上が各村を回られて、代官達の訴えを聞いたわけではないのですね」
「わしとて、叶うことならそう致すわ」
宗瑞には体力も時間もない。有限の時の中で、伊勢家の次代への継承をしなければならない。
「直景は保守的で大袈裟なところがあります。父上にご心配いただくような事態には陥っておりません」
氏綱は宗瑞の言を杞憂だとして、きっぱりと退けた。
忠臣と息子から真逆の説明をされ、もどかしい思いに宗瑞は歯噛みする。
「そうであったとしても、あれはやり過ぎであろう」
これからはこの印なき命令は無効。
もし印なき命を下されても無視してよい。
困ったら直接城へ訴え出ろ。
偽文書対策のはずの印版が、いつの間にか国の命令系統を根本から覆すものになっている。
「仕組みを変えたいと申し上げたはずです。あれくらいしなければ意味がない」
「やり方が性急過ぎだと言っておる。思い上がるな、新九郎。そなた一人で何でも行えるわけではなかろう」
今なら、まだやり直せる――。宗瑞の危惧は父としてなのか、伊勢家の先代としてのものなのかわからなかった。
「父上の方こそ、思い違いをしていらっしゃいます。私は、思い上がってなどいない。寧ろ逆です」
「どういうことじゃ」
宗瑞の問に氏綱は一瞬だけ、悔しそうに唇を噛んでから、鋭い言葉の刃を振り下ろしてきた。
「――父上が御していた国を、氏綱が同じ方法で御せるとお思いになりますか」
父の息子への評価を氏綱はとっくに悟っていたらしい。三十二年、一度も口にしなかったくせに、この期に及んでつきつけてくる。
「⋯⋯出来る出来ないの問題ではあるまい」
既に賽は投げられている。何十という家臣、その家族、そして領民達の命が生活が、宗瑞そして氏綱の肩にかかっている。一つの過ちが国そのものの瓦解を招きかねない。
だからこそ、宗瑞は慎重になる。だが、氏綱の口から漏れたのは、思いもよらぬ言葉だった。
「私は――誰がこの国を治めても、国の統治が滞らないようにしたいのです」
「誰が⋯⋯この国を治めても⋯⋯?」
氏綱の言葉を繰り返してみても、宗瑞の心に沁みて行かない。
「そうです。父上が亡くなっても、私が亡き後も――仕組みさえ整えておけば、国の仕置は回る。そのように形づくりたい」
「そなたは何を⋯⋯」
反論の緒も見出だせず、宗瑞は途中で言葉を止めた。
見ているものが違う。宗瑞は今の相模国を見ているのに、氏綱の目線は遠い未来にある。
「虎朱印はそのためのものです。撤回は致しません、絶対に」
言いたいことは言ったとばかりに、立ち上がりかけた氏綱に「待て」と宗瑞は手を伸ばす。
その瞬間、目眩がし天と地がひっくり返ったような感覚に襲われた。
「新九郎! まだ話は⋯⋯」
話そうとしても舌がもつれる。声が出ない。
「父上!?」
異変を察知した氏綱はすぐに宗瑞の背中を支え、声を張り上げる。
「笠原!」
背中に回された手が大きい。こんなに大きかっただろうか⋯⋯そんな他愛もないことを思った瞬間、宗瑞の意識はふっと遠のいた。
韮山の城はすっかり日が落ち、闇に沈む。
こんな風に倒れる宗瑞を見たのはもう何度目か。その度に二度と目覚めぬのではないかと、信為は不安になる。
眠ったままの宗瑞を挟んで、笠原信為は嫡子の氏綱と向かい合っている。重苦しい時間が流れていた。
「父上は⋯⋯近頃ずっとこんなご様子か」
氏綱が沈黙を破り、信為に尋ねる。
「そうですね。興奮されるのがよくないようで、何度か頭に血が昇っては倒れられてます」
「では、今日はわしのせいか」
今、宗瑞は呼吸も安定し、眠っているだけのように見える。握っていた宗瑞の手を夜具の中に収め、自身を責めるように氏綱は呟いた。
先程の口論は間近で見ていた信為も驚いた。宗瑞が論破されるところを生涯で初めてみたかもしれない。
「しかし、今日の若は頼もしゅうございましたよ。殿も内心はお喜びかもしれませぬ」
「今朝方、芙蓉に子が産まれてな」
「そうなのてすか? それはおめでとう存じます」
信為は深々と頭を垂れる。確か子は三人目だ。正室との仲は睦まじいようで、宗瑞も行く末安泰じゃ、と歓喜するだろう。
「親になるとしみじみ思う、父上のありがたみを」
氏綱の表情には、先程の宗瑞との議論の際の激しさは微塵もない。
「父からの期待を一身に受けるお子の立場もまた大変でございましょう」
「父の意に染まぬ不肖の息子だからな」
「そのようなことは」
「あとどのくらい時間が残されているかわからぬが⋯⋯、父上が氏綱にこの国を託して良かった、と思って頂けるよう精進致す、と伝えてもらえるか?」
まだ目覚めそうもない宗瑞を横目に、氏綱はそんなことを言う。まるで今生の別れのような。
「ご自身で直接伝えられた方が⋯⋯大殿も朝には目覚めましょう」
「また国の話になったらわかり合えぬ。父と子は難しい」
か細い灯りの下で、父を見つめる氏綱の視線は消えない炎のように柔らかく温かい。
父と子でもあり、先代と現当主でもある。お互い譲れないものもはっきりしているから、衝突は避けられない。けれど本当は誰より認めて欲しい相手なのだ。
「難しゅうございますな」
東雲の空の下、氏綱は帰っていった。
宗瑞は日が高くなってから目を覚まし、真っ先にその名を呼んだ。
「新九郎、新九郎はいかがした」
「お帰りになりました」
信為が答えると、宗瑞は「薄情な奴じゃ」と舌打ちする。
「お子様が産まれたばかりとのことです。お方様も心配なので早くお戻りになりたかったのでしょう」
「なんと! それはめでたい」
掌を返す宗瑞の反応が信為の想像通りでなんだかおかしくなる。結局、似た者親子ではあるのだ。
「父親になると、殿のありがたみがよくわかるとしみじみ仰せでした」
「ふん、遅いわ」
「あと、若殿から伝言をお預かりしております」
「なんじゃ、大仰な」
「父上が氏綱にこの国を託して良かった、と思って頂けるよう精進致す、とのことです」
宗瑞の眦に水泡が膨らむ。信為の視線が自分の表情に注がれているのに気づき、慌てて宗瑞は手の甲で乱暴にそれを拭った。
「統治のなんたるかも知らんくせに生意気な⋯⋯」
「これから殿のご苦労を沢山知ることになりますよ」
「そうじゃなそうじゃな」
信為に機嫌よく相槌を打ってから、宗瑞は天井を見上げ、最後につけ足した。
「⋯⋯そうか⋯⋯」
これまでの人生を振り返るように宗瑞はゆっくりと瞼を下ろした。
氏綱が小田原の城に戻ると、遠山直景が控えていた。
「お帰りなさいませ、殿」
出迎える挨拶は、いつもの彼のそれより少し硬い。今回、氏綱が韮山に召された理由を一番知っているのは直景だ。顛末が気になって、ここで待っていたのだろう。
「父上のお気を煩わすようなことを、わざわざ報告に行くな、直景」
直景の前に胡座をかいて座り込み、氏綱は苦笑いしつつ、釘をさす。
「申し訳ございません」
「父上はもう長くあるまい。伊豆・相模の仕置は我らでなんとかせねばな」
実際に宗瑞に目通りし、直景も同じ感想であったのだろう。悲しげに唇を引き結び俯いた。
「虎印をめぐる代官どもの不満の理由は何が一番多いと見てる。体面か実利か」
父の前では心労を掛けたくなく、問題はない、と言い切ったが、確かに代官たちの不満は無視できないくらい大きくなっていた。
「我々の権利が⋯⋯と申しておりますが、実際のところ、実入りが減るのではという恐れが多いように見受けられます」
「うむ⋯⋯」
詰まるところ、代官側にも旨みがあれば良い。
鶯の声がして、氏綱はふと庭に目をやる。
桜の蕾が綻びかけていた。桜が散れば、田に水を張り、すぐに田植えが始まる。
領内の田の枚数が氏綱の体感ではあるが、年々増えてきているように見える。
(あれが数値としてはっきり出来れば⋯⋯)
「殿?」
「今年の借り入れが終わった際に、領内の一斉検地を行う。領内全体の収穫が増えていれば、代官たちの実入りも増えよう。それで納得させよ」
「ははっ」
平伏してから、直景はまた不思議そうに氏綱を見る。
「なんじゃ」
「いえ、先日来、殿のお人が変わられたようで⋯⋯もう『若』とは呼べませんな」
と改めて畏まって頭を下げた。
「そちとは、長い付き合いだ。小田原に於けるわしの父のようなものじゃからな」
「滅相もございません、恐れ多いことです」
「だが、わしは変わっておらぬ。――為すべきことが変わっただけじゃ」
そう言って氏綱は立ち上がる。
検地をやるなら、また役人の差配と現状の台帳との差し替えなど、下準備が必要となる。
出産後の芙蓉の様子も気にかかるし、産まれたばかりの赤子も見に行きたい。
(身体が幾つあっても足らんな)
昨夜、一睡もしてないことを思い出し、氏綱は欠伸を噛み殺した。
宗瑞は永正十六年夏、韮山の城で息を引き取る。亡骸は修善寺で荼毘に付された。嫡子氏綱は、父の菩提を弔い、後年早雲寺を建立している。




