23話 禄寿応穏
印判は我ながらいい出来に仕上がった。
朱の印にまだまっさらな判を押し付け、印影を確かめる。
――禄寿応穏
氏綱の願いとそれを見守る虎が、くっきりと姿を現した。
「いいですね。苦労した甲斐がありました」
横から固唾を飲んで見守っていた助左も、笑顔になる。
「ああ。いい出来だ」
「わざわざ京都から職人呼んで、虎の絵描かせるなんて、お殿さんでなきゃやらねぇわ」
気心知れてきた助左の軽口に、氏綱は小さく笑う。
「そうであろうな」
もう一度氏綱は掘られた銅の盤面を見つめる。
印影にこだわり抜くより、もっと他にやるべきことがあるだろうと、父からはあきれられそうだが、言葉も文字も虎の姿も、何一つ妥協は出来なかった。
「ようできておる」
本体と印影を確かめながら、宗瑞はまず感嘆の声を漏らした。
「これならば文字の読めぬ領民にも、一瞥でそれとわかるのう」
「そのように致しました」
「今後はこれを使って領国内に触れを出すと」
「はい、そのつもりです」
氏綱が頷くと、宗瑞はしばらく考え込んでからこう言った。
「新九郎、ではその最初のお触れはわしの名にて出せ」
宗瑞の言葉は意外だった。父の真意がわからず、氏綱は宗瑞を見つめる。
「手柄を横取りしていると思うてるか」
「いえ。そのようなことは。では、父上の名で発給いたします」
小田原城に立ち返った氏綱は遠山直景・松田盛秀らに命じた。
「今後、この印判なき下文は無効、と相模・伊豆の全ての村に触れを出す」
「お待ちください、若⋯⋯あ、いえ殿」
直景の目が正気か?と問いかけている。直轄の村々が相模国だけでも五十はある。
「下文は、本来、郡代・代官から出るもの。それを伊勢家から出すというのですか」
とんでもない作業量になる。
「これを見よ」
氏綱は胸元から先日、佐々本が偽造した文書を取り出す。
「これが氏綱の書か否か、すぐに分かるか、直景」
「⋯⋯」
渡された書を直景は、食い入るように見つめる。しばらく吟味してから、勝ち誇ったように言った。
「これは偽物でございますな。殿の花押はもっと一筆一筆がかちっとしておりますので」
「その通りじゃ。⋯⋯が、年少より傍に控えるそなただから、わしの書が見抜けるのであろう? それでは困る」
「それはそうやもしれませぬが」
まだ納得行かなさそうな直景の代わりに、松田盛秀が口を挟んできた。
「確かに仰せの通り、印判押下されたもののみが、公式の下文とすれば、偽造や二重の命は避けられましょう。ですが、それは今までの代官らの権利を認めぬこととなります。現場の混乱はいかばかりかと」
「⋯⋯」
一理あった。盛秀の言で、父の真意が漸くわかった。
(なるほど。父上が懸念されていたのはこれか)
佐々本のような役人たちからの反発で、結局制度が回らなくなれば本末転倒だ。
父の名で出せ。あれは、郡代、代官らの抵抗が想定以上に大きくなった際の撤退をしやすくするための予防線。
何かあれば、父に責を被せて、あれは先代の作った仕組み、と氏綱は居直って破棄できる。
(父上らしい深謀遠慮よな)
が、戦の前から殿を決めておくような、消極的な策だとも思う。
(それでは国は変えられぬ)
「領民への命の出どころを一本化し、負担を軽くし、国をまとめるのが目的だ。個々の権利は認めん。一斉に、公平に下知を出さねば意味がない」
「若⋯⋯それでは不平不満が出ますぞ」
直景の直言も跳ね返す勢いで、氏綱は宣言した。
「責は氏綱が負う。文面はこう致せ」
一、人足の動員について。
急ぎ人手が必要となった折には、必ずやこの「印判」を据えた下知状(命令書)を遣わす。これなき呼び出しには、一切応じるに及ばず。
一、追って申し渡す。
今後、いかような些細な用向きであろうと、この「虎の印判」を捺し、代官が添え書きをして命じるものとする。
たとえ郡代や代官が自ら筆を執った書状であっても、肝心の虎の印判がなければ、その命に従ってはならぬ。もしこれに背き、道理に合わぬ難題を強いる不届き者がおらば、即座にその名を書き留め、庭中(役所)へ直ちに訴え出よ。しかるべく処置いたす。
祐筆の石巻家貞がこの文を読み上げた後、氏綱を見る直景の目は、知らない男を見るかのようだった。
永正十五年十月、伊豆と相模の領民に向けて、氏綱は虎の朱印の押されたお触れを出す。
宗瑞とは異なる氏綱の治世の第一歩であった。




