22話 知られぬ花
烏がひと鳴きして、店の屋根を掠めるように飛んでいく。店先に出て見上げると、既に薄い月が薄暮の空に掛かっている。生温い風が富三の頬を撫でていった。
もうこんな時間か、と並べられた商品をぐるりと見回す。富三が作った蒔絵の鏡も箱も、店先の隅で埃をかぶっていた。
(今日も売れなかったな)
店の商品をしまいながらため息をつく。
心を込めた作品に富三の銘は入っていない。相変わらず見習い兼店番だった。
後から弟子入りした者が、認められ作品が売れてゆくのを、羨む日々が続いている。
「富三」
帰りかけたところに、師匠の葉春がやってきた。
「師匠」
「どうだ? 近頃は」
「さっぱりです」
自嘲しながら富三は頭をかく。そんな富三を葉春は切なげに見た。
「腕は悪くないんだ⋯⋯もう少し雅な意匠にしたら、お公家さんにも受けると思うんだがねぇ」
葉春は両手で富三の鏡を見ながら、もどかしそうにぼやいた。
「その加減が難しくて」
雅にしろ、と言われても、富三は見たままを描くしか出来ない。作風とか難しいことはわからない。
ただ美しいと思うものを描いているだけなのに。
「そういえば、近頃私の弟子を探してるお侍がいるらしくてね」
「へ?」
「市場で声をかけまくってるらしいよ。昨日、葉蔵の元にも来たらしい」
と、葉春は富三の弟弟子の名を挙げた。
「不思議なことをする人がいるもんですね」
「まあ関係ないとは思うが、物騒な世情だから、お前も気をつけるんだよ」
「へい」
富三は勢いよく返事をして、また力なく笑った。
(そういえば一人だけいたなあ⋯⋯おいらの絵を高く買ってくれたお侍が)
確か相模国から来ていると言っていた。
(また会いたいなぁ⋯⋯名前くらい聞けば良かった)
褒められた経験はあの一度だけだ。富三の中であの出会いはより純度を増して、胸の奥底にしまわれていた。
いやだからって、まさかこんな――目の前に現れた男に富三は言葉を無くす。長い長い夢を見ているのかもしれない。
「わしはこちらが気に入った。銘のある方と同じ値で買おう」
あの時、富三と葉春の鏡を見比べて、富三の方を買っていった風変わりな侍が、大きなお城の一番偉そうな席に座っていた。
穴が空くほど「城主様」を見つめてしまい、斜め後ろから大道寺盛昌に小声で控えろと促され、慌てて平伏した。
「遠路ご苦労だったな」
少し気まずそうに氏綱は言う。あの時京の市場で聞いたのと同じ声だった。
相模国小田原城。富三がここに至る経緯はこうだ。
葉春との会話を終え、店じまいをし、富三は五条外れの自分の家へ帰る。がたついた戸に手をかけ、中に入ろうとした瞬間、背後から人が現れた。旅装の女だった。
「富三様ですね。さるお方から命を受けお探ししておりました。ご一緒頂けないでしょうか」
物言いは慇懃だが、否を言わせない圧がある。
請われるがままに、女の後をついていく。たどり着いたのは、鴨川沿いの宿だった。二階に上がると、侍烏帽子の男が座していた。
(あ、違う⋯⋯)
男の面相に富三は少し失望する。葉春の話を聞いた時から、もしかして、あの時出会った富士の向こうから来た侍なのではと淡い期待をしていたのに。
「相模国伊勢家家人大道寺盛昌と申す。突然のお呼び立て申し訳無い。実は――この鏡の作者を探している。お心あたりはおありかな」
そう言って懐から男が差し出したのは、富三の作品だった。
「おいらのです!」
懐かしい友人にでも会った思いで、富三は手鏡を盛昌から受け取った。
裏面の絵には傷の一つもない。手放した時のままだ。大切に扱われていたことに、涙が出そうな程感動した。
「あれ、でも⋯⋯」
売り渡した侍は別の男だったはすだ。
「これは我が主、伊勢氏綱より富三殿を探すために預かったものになります」
「あのお侍さん、伊勢氏綱さんて言うんだ」
「おい、言葉を⋯⋯」
女の方が気色ばむのを、「まあまあ」と男の方が宥める。そして、盛昌は居住まいを正し、富三にこう言った。
「主からの命をお伝えしたい。相模国小田原にお越し願えないでしょうか。そして、虎の絵を描いて頂きたい」
自分のような名もなき職人に、盛昌の態度は富三が引くくらい真摯だった。そして依頼内容がまた不可思議だった。
「えっと、虎⋯⋯?」
「拘りの強い主でして、どうしても虎の印が欲しいと聞かないのです」
「そうなの?」
まるで子どものわがままに付き合う親のように、盛昌が苦々しく言うので、思わず富三は吹き出してしまう。
「虎なんか⋯⋯すぐに描けそうだけど。紙、ある?」
すぐに女が筆と白い紙を出してくる。富三は紙の上に手の甲を滑らせて、たわみを伸ばす。筆の乗りの良い上質な紙だ。
目を閉じて、富三はかつて見たことのある虎の画を思い出す。脳裏に図が浮かべば、後はそれをそのまま紙に写すだけだ。ほんの一分もしないうちに、紙上に猛々しい虎が現れる。
「真の虎だ!」
虎を描けと言ったくせに、盛昌はめちゃくちゃ大声で叫んで、感極まったように富三の手を取った。
「無理を承知で心よりお願いいたします。相模国にお出でいただきたい」
そこまで言われたら、富三には断る理由なんて無かった。
次の日、葉春に事情を話し、暇を貰った。葉春は驚いていたが、富三の旅立ちを止めはしなかった。師匠なりに伸び代が見えない弟子を持て余していたのかもしれない。
そうして無口な女(ヨネと言うらしい)と盛昌と富三。三人の珍道中を経て、富士を越え、相模国にたどり着いたのだ。
(まさか、あの時のお侍が相模国の領主様なんて思わない)
驚きの後には恐れがわいてきて、身体中がカチコチになる。
武家の作法など富三にはわからない。平伏したまま固まっていると、氏綱の方が富三の前に座り込んだ。
「盛昌、下がれ」
一声で盛昌はいなくなり、氏綱と二人取り残される。富三はますます身をこわばらせた。
「え、えっと」
「わしには出来ぬことを、そなたに頼みたい。故に固くならずとも良い」
無駄な修飾のないその話し方。京の市場で会った時と同じだ。混乱が収まる。やっと呼吸の仕方を思い出す。
大きく息を吐いてから、富三は自分の言葉で語り始めた。
「盛昌さんとか何も言ってくれないんだもん」
「わしの正体告げていたら、素直に相模国まで来たか」
「⋯⋯来なかったかも」
素直に答えると氏綱はにやりと笑う。
最初に会った時も感じたが、氏綱は全然偉そうにしない。だからこそ、城主だったなんて展開が読めなかったのだが。
「虎を、描くんだよね」
だが、富三の描く虎と氏綱の思い描くものは、ずれがあった。
反故になった紙が富三の周りに散らばっている。虎と言われすぐに思いつくような、猛々しい虎でなくて良いと氏綱は言った。
「何度も描き直させて悪いな」
「いや、おいらは楽しいからいいよ。けどなんで虎なの?」
補充の墨を磨りながら、富三は尋ねる。筆も紙も墨も、極上のものばかりだ。それだけで己の絵が一段上達したように感じる。
「⋯⋯なんでだろうな」
脇息に肘をつき、富三の手元を眺めながら、氏綱はぽつりと漏らす。
「理由ないの?」
富三の方が拍子抜けする。
これだけ大騒ぎして、京都まで人を使って呼び寄せておいて、虎に拘る理由もわからないらしい。
「虎は邪気を払うと言われている」
「うん」
「千里を走るとも言われている」
「そうだね」
「うまく言えないが、そういう人の力を超えた存在が、国の守り神のように見えればいいと思ったのかもしれぬ」
「ふーん。つまり、この虎はお殿様の分身みたいなもの?」
富三が言うと、氏綱はふっと相好を崩した。
「そうであったらいいな」
それならば獰猛さはなくて良いというのも頷ける。彼から感じるのは武威ではなく知性だ。
目を閉じ、深く呼吸をし、ゆっくりと筆に墨を浸した。
描いたのは四肢を折った体勢の虎。一見、休んでいるように見えるが、目だけは鋭く前方を見つめている。
仕上がった絵を氏綱は両手で持ち、じっと見つめる。
「これは⋯⋯いいな。思った以上だ」
大袈裟でない感想が、じんわりと富三の心に沁みた。
「本当? 良かった」
富三も心底ほっとした。それと同時に一抹の寂しさが襲った。虎を描いたら、自分がこの国にいる理由は無くなる。
「この後⋯⋯どうするつもりだ」
氏綱も同じことを思ったのか、今後を富三に尋ねてきた。
「え、このあとって?」
「京に帰るのか?」
「うん。お殿様がおいらの絵を気に入ってくれたから、向こうでも今までより前向きになれそう」
同情を誘うつもりでは無かったが、氏綱の目が少し悲しそうに細まった。
「まだ、銘はないのか」
何のことかと一瞬首を傾げて、富三ははっとなる。
――それ、おいらが作ったんだ。名も入れられないから、他のより安いんだ。
あの時の些細な会話を、氏綱は覚えていたらしい。
「あ、うん⋯⋯」
二年も経つのに、変化が無い。改めてその事実を突きつけられ、目線が下に落ちる。文机の黒さが富三の視界いっぱいに広がった。
「そうか」
とだけ言うと、氏綱は真っ白な紙を掴み、机の上に載せる。まだ硯に残っていた墨で、こう記した。
――葉凪
「これは?」
「――ようなぎ。小田原にはまだ職人が少なくてな。お前のような腕のいい絵師がいてくれるとありがたい」
「え、え。これおいらの名前?」
雅号を城主自ら与えてくれたことになる。この上ない名誉だ。
「ありがたき幸せに⋯⋯」
平伏し、慣れない口上を言おうとしたら、「お前らしくやればいい」とだけ言い、虎の絵を持って、氏綱は出ていく。代わりにまた盛昌が現れた。
「家を用意してやれ、って簡単に言うけど全く殿は⋯⋯」
ぶつぶつ言いながら、盛昌は富三の前に座る。
「盛昌さん」
葉凪と書かれた紙を胸に抱きしめて、富三は涙で滲んだ目で盛昌を見つめる。
「良かったな」
盛昌の短い言葉に、富三は何度も首を振って頷く。水滴がひとつ文机の上に落ちた。
氏綱は各地から職人を呼び、小田原の町の経済的文化的発展を促した。後年の小田原の町の様子を、北条記ではこう語っている。
近国の人民、恵みに懐つき移家、津々浦々の町人職人、西国、北国より群来、昔の鎌倉も争か是程あらんやと、見る計に見へにける、東は一色より板橋に至迄、其間一里の程に棚を張、買売数を尽しけり




