21話 虎の印判
韮山から小田原の城に戻った氏綱は、早速文机の前に端座した。普段なら祐筆に任せる墨を自ら磨りながら、印判に刻む言葉を考える。
花押を彫らせるのが一番早いのはわかっているが、また真似られては意味がない。
名前では代替わりの度に印判の文字は変わることになる。そうではなく、伊豆・相模国の領主として、民に向ける言葉が良い。
そう思った時、ふと氏綱の胸に蘇ったのは、山王村の名主、嘉兵衛とのやりとりだった。
「私一人の生命でよろしければ、この場で腹かっさばいても」
「ふざけるな! そなたが死んだとて、村にも氏綱にもなんの益もないわ」
二度と嘉兵衛のような農民を出したくない。
この地に生きるすべての人の暮らしと生命が平らかであるように治める――それが、この国の領主たる自分の務めだ。
目を閉じ、しばらく瞑想した後、氏綱は筆にたっぷりと墨を含ませ、こう記した。
禄寿応穏――
氏綱の願いを込めた印判は相模国一の彫師・助左という男に依頼した。普段は刀の鍔の細工をして、生業を立てている。
仕上がった印判に持参した朱を塗り、料紙に押印してみる。
『禄寿応穏』の文字が鮮やかに写し出された。
「おお」
「うーむ」
盛昌と真逆の反応になってしまい、背後の助左が気まずそうに苦く笑ってる。
「これじゃだめなんですか、殿。いい言葉じゃないですか」
何が気に入らないのかと、盛昌が詰めてくる。
禄寿応穏の文字は出る――が、物足りない。実際に押印して、初めて欠陥が見えた。
「一瞥しただけで、誰からも城からの下し文だとわかるようにしたい」
似たような印を誰かが作って、発給しても、区別はつかなさそうだ。それでは意味がない。
「一瞥で文字の読めない者にもわかるように⋯⋯ですか」
難題だと助左も腕を組み、首を捻る。
具体的な指示が出せずに、頭を悩ませていたその時だった。
「だったら、ここに動物の絵を入れるとかどうですか」
後ろから盛昌が文字の上の部分を指さして言う。
「――なるほど。確かにわかりやすくなるな」
盛昌の提案は氏綱には目から鱗だった。
確かに動物の図柄が入っていれば、文字の読めない者たちにも、ぱっと見た瞬間に城からの書状だと判別出来る。――恐らく真似もされにくい。
「何の動物がいいんですかね」
馬、牛、犬、猫⋯⋯どれも違う。もっと印象が強くて、一度見たら忘れない――
「虎はどうか」
「虎⋯⋯ですか」
助左はまだ困惑したままだった。
「想像上の生き物なんじゃないですか」
「いや実在はするだろう、わしも生きた虎は見たことはないが」
「どんな生き物なんです?」
助左に問われて、氏綱は屏風絵などで見た己の記憶を頼りに書き起こしてみる。獰猛そうな目つき、黄色と黒の縞の入ったしなやかな体つき。
「⋯⋯猫ですか」
「猫ですね」
「⋯⋯」
右と左から猫呼ばわりされて、筆が止まる。確かにこうではない。
「虎の図案はこちらで何とかする」
何とかする当てなどないが、とりあえずそう言い、試作の印だけを引き取り、城に戻った。
文机の前で唸ってしまう。虎に拘るべきか拘らずに別の動物にするべきか。
反古紙の裏に、いろんな動物を描いてみるが、氏綱自身の絵の出来栄えもあって、どれもいまいちだった。
「父上、落書きですか」
氏綱の肩越しからひょいっと伊豆千代丸が手元を覗いてくる。
「いや⋯⋯」
落書きではないのだが、文机の上にいるのは、目つきの悪い太った猫で、確かにこれでは落書きにしか見えない。
「伊豆千代丸、お父上の邪魔をしては⋯⋯」
と芙蓉までやってきては、料紙を見た瞬間に言葉を止めた。完全に手遊びと思われてる。
「芙蓉、そなた何か虎の図柄のものを持っておらぬか」
「虎⋯⋯ですか?」
もう一度氏綱の拙い絵に目を落としてから、芙蓉は遠い目をする。
「私の持ち物は花とか鳥とか、たおやかなものが多いので」
「そうよのう」
女性であれば花鳥風月を模したものが多いのは当然だ。
「何処かによい絵師がおらんかのう」
自分の描いた虎はくしゃくしゃっと丸めて背後に投げ捨ててから、氏綱は大きくため息をついた。
「余り難しい顔をされますな」
芙蓉がからかうように言って、氏綱に鏡を向けてくる。
「元からこういう顔だわ、うるさい――」
眉間に皺を寄せて頬杖をつく己が姿を隠すように、氏綱は芙蓉の手元の鏡を裏返すと、美しい桜の文様が目に入った。
芙蓉の鏡は、先年京都に行った折、市場で芙蓉への土産に購入したものだ。
本物と見紛うような桜の花びらの意匠が気に入り、言い値より高い値で購入してきた――。
「そうだ、この男じゃ!」
改めてまじまじと鏡の意匠を見つめる。
精緻な図柄は今見てもやはり美しい。高い技術を感じる。この男ならば、自分が思い描く虎の姿を形にできるのではないか。
「芙蓉、でかした!」
迷い道から抜け出したような思いがそのまま行動になる。がばっと上から荒々しく抱きしめると、芙蓉はそのまま氏綱の胸の中に倒れ込んだ。
「と、殿?」
「この鏡、しばらく借りれぬか」
「構いませぬが」
虎の判は氏綱の理想を具現化したものだ。妥協はしたくない。京に――探しに行くか。知られぬ花を。
次の日、氏綱は盛昌を呼びつけた。
「その鏡を手がかりに、京で人を探してもらいたい」
「は?」
盛昌は露骨に訝しげな表情を見せた。
「作者は富三と言う男で、葉春と言う蒔絵師に師事しているはずじゃ。京都五条で出ている市の店番もしていた――二年前までの話だが」
盛昌の表情が更に翳る。
「無理ですよ、それだけの情報でどうやって人を探すんですか」
盛昌はこういう時、氏綱に対しての物言いに遠慮が無い。
「忍びをつける。情報収集はそちらに任せて、お前は富三との交渉をしてくれればいい」
「⋯⋯虎にそこまで拘りますか」
探した絵師に何をさせたいのか、盛昌はしっかり氏綱の狙いは察してる。
「拘る」
氏綱はきっぱり断言してから、条件を加えた。「同行する忍びはくのいちじゃ。京で遊べる金も出す」
「まことですか?」
少し盛昌の目の色が変わる。基本的に即物的な男だ。
「いいことずくめですが、お役目が不首尾に終わった際は」
「そうじゃな。期間を区切る。京で一月探して見つからねば、小田原に戻って参れ。咎めはせん」
そこまで言うと、盛昌はにやりと笑う。
「某が京で豪遊して終わるやもしれませんぞ」
「まあ⋯⋯出来るならやってみろ」
口では軽口を叩いても、やるべきことはやる男と信じている。
三日後、盛昌とヨネは京に向けて旅立った。




