20話 偽文書
神社創建のために、小田原領内の各村に賦役を課したのだが、一月もしないうちに、氏綱は盛昌から意外な報告を受けた。
「一箇所の村から誰も来ない? 何処の村じゃ」
「山王村です。すぐに行き、話を聞いてきたのですが、名主からこれを預かりました」
「なんじゃ」
盛昌が遠慮がちに差し出した料紙を氏綱は乱暴に受け取る。
「二ヶ月前に殿が出されたという同じく賦役を徴収する下文です。先月も人手を取られている。これ以上、この村からは出せぬと」
氏綱は盛昌の話を聞きながら、穴の空くほど料紙を見つめる。
日付は二ヶ月前。内容は材木の切り出し。氏綱の名で出された文書は花押まで添えられている。
が、氏綱には覚えのない文書だ。
「どういうことだ」
「恐らく何者かが殿の⋯⋯」
「我が名を騙り、偽の文書で私腹を肥やしてる者がいるのだろう、そんなことは説明されずともわかるわ!」
怒りに任せて、握り潰しそうになり、慌てて脇に置く。
自分の知らないところで、勝手に命が下される。
(だがこれは、恐らくこの村に限った話ではない)
腕を組んで天井を見上げた。大きく息を吐き出して、なすべきことを考える。
不正は許さない。
役人を必ず見つけ出し、処断する。
だが――、一番大事なのは、不正が起きぬ仕組みではないのか⋯⋯。
梁は一本では屋根を支えられぬ。柱と梁とが支え合うように、構造で何とかするべきではないのか。農民と役人が正しく支え合わねば、国は衰退の一途だ。
「五年⋯⋯いや、十年」
「なんと?」
「十年分のこの村に下された文書を全て徴収して参れ」
「御意」
これ以上怒鳴られては堪らないとばかりに、盛昌は速攻で退散する。
夕刻、盛昌は年季の入った文箱と、一人の農民を連れてきた。
「山王村の名主をしております、嘉兵衛と申します」
年は四十だという。氏綱にはもっと年嵩に見えた。痩せていて貧相な見た目故かもしれない。
盛昌、嘉兵衛らと共に文箱の中味を改める。
「多いな」
賦役、年貢など税の種類毎に分け、年代順に並べる。板目の床を埋め尽くした書状を眺め、氏綱は呟いた。
「永正十二年など賦役が三度も徴収されている、それに――年貢の取り立ても多いのではないか」
「殿は今まで城から出た文書全て覚えておいでなので?」
「そんなわけあるか。――だが、おおよその目安くらいは付く」
山王村の田畑の枚数、村人の人数。それらに対して、この村の年貢は取り立てられる量が多すぎる。
勿論、伊勢家に入ってくる年貢の割合は、他の農村と変わらない。つまり誰か別の者の懐に入っているということだ。
「重い年貢に先々月も賦役を賜り、畑に播く種も無く、村の生活はぎりぎりでございます。どうか――今回のお役目だけは、ご辞退させて頂きたく、大道寺様にお願いし、お城に上がらせて頂きました」
嘉兵衛はそういって、額を床に押しつけんばかりに平伏する。
「どうかどうかお願いします。私一人の生命でよろしければ、この場で腹かっさばいても」
いきなり着物の袷に手を入れはだけさせるのを氏綱は一喝した。
「ふざけるな! そなたが死んだとて、村にも氏綱にもなんの益もないわ」
「も、申し訳ありません」
氏綱の凄まじい剣幕に嘉兵衛は慄く。
嘉兵衛が責を負えるものではない。悪いのは、この偽文書を作成した役人だ。そして責は、それを知りながら、或いは知らずに放置していた側にある。
床に並んだ書状の中から、先日出したばかりのお触れを手に取る。
「殿!」
氏綱の行動を察した盛昌が静止の声を挙げた。だが、氏綱はその声を振り切るように、真っ二つに切り裂いた。
切れ端を重ねてもう一度破いてから、右の拳に握りしめる。怒りを抑えた低い声で氏綱は、嘉兵衛に告げた。
「此度の賦役は山王村に限り、無かったことと致す。疾く立ち返り、村の者に伝えよ」
「あ、ありがとうございます」
嘉兵衛は涙に詰まりながら、何度も何度も頭を下げる。
「よろしかったのですか」
嘉兵衛が去った後で、ひっそりと盛昌が声を掛けてくる。この男らしからぬ慎重な物言いで、まるで腫れ物扱いだ。
「良いわけが無かろう――」
力が抜けた拳から破り捨てた紙がはらりと落ちた。
努めて冷静を装ってみても、それでもまだ腸が煮えくり返っている。
領主自ら命を翻す――こんなことが重なれば、命など誰も従わなくなる。
「氏綱の城下で二度とこんな真似はさせぬ」
不正のからくりはヨネに調べさせた。五日もしないうちにヨネは氏綱の元に詳細を報告にきた。
「殿、あらかた掴めました」
ヨネがあらかた、と言うときはほぼ全容を把握している。
「どうであった」
ヨネからの報告はこうであった。
足柄下郡の郡代の配下に佐々本義寛という男がいる。郡代は三年前に伊勢家より任命した者だが、佐々本は元は大森氏の家臣で、代々この山王の地を治めていた。
この男が、手先の器用な六郎という男に命じ、氏綱や宗瑞の花押を真似て、偽造文書を作り、山王村からの人足を集め、材木を切り出したり、多めに年貢を集めているとのことだ。
「はっきりと佐々本が出したと認められる偽造文書は十年で五回ほど。頻度はそれ程多くないのかもしれません」
「頻度の問題では無いがな。して、余剰に得た材木や米はどうしていたのだ」
「嫡子の正寛が武蔵国に売り捌いていたようです。佐々本は以前は扇谷上杉家に従属していた大森氏の家臣。つてはあったものと思われます」
よりにもよって敵国に。時を置いて沈静化した怒りが、またふつふつと湧いてくる。
「何から何まで許しがたいな」
「武蔵の商人からの証言までは得られました。いかがしますか。風魔で片をつけますか」
暗闇にヨネの目が猫の目のように大きく光った。確かにヨネに任せれば、今回の山王村の件は片がつく。だが。
「いや――いい。これはわしが前に出る」
ヨネには意外だったらしい。
「お珍しい」
と普段漏らさぬ感情をこぼす。
「明るみに出して徹底的に取り除かねばならぬ膿もある」
「御意」
普段なら即座に姿を消すヨネなのだが、まだ何か話し足りなさそうに氏綱の前に控えている。
「いかがした」
少し宙に視線を彷徨わせた後、意を決したようにヨネは切り出した。
「いえ⋯⋯城内に、浅葱の姿が見えなかったもので。ここしばらくは城内にいたようでしたが」
「気になるか」
「⋯⋯お方様のお近くにあのような裏切り者を置いておいて良いのかと、以前から懸念していただけにございます」
夜目にも頬を赤くしながらも、ヨネは素直な気持ちは言葉にしない。
以前、浅葱を風魔に預けていた頃、ヨネと氏綱の間でこんなやりとりがあった。
「では殿は、浅葱は逃げ出すと言うのですか。命を助けられた恩も忘れて」
寝食を共にし、付きっきりで面倒を見ているヨネからすると、氏綱の見立ては受け入れがたいものであったらしい。
普段、感情を表に出さない性質の女なので、ヨネの反応に驚く。だが、氏綱の推測は変わらない。
「恐らくな。ヨネが捕えた夜の荷物の中に、桔梗の紋入りの懐刀があった。あれは太田家の物。太田資高殿に近しい女なのではないか。簡単にこちらに寝返るとは思えない」
「⋯⋯そうでしょうか」
氏綱の推論を示しても、なおヨネは不服げだった。
「まだ逃げられぬように縄で縛って寝てるのか」
「仰せの通りにしております」
「ならば、今宵から解いてみよ」
結局、この読みは氏綱が勝った。初めての弟子にあっさりと裏切られ、ヨネはしばらく憤慨していた。
浅葱の名をヨネが口にしたのも、浅葱が逃げ出したあの満月の夜以来ではなかったか。
「裏の裏は表だからな、元の主君からすれば、浅葱は忠義者になる」
「ヨネには殿の理屈は難しゅうございます」
飽くまで忠義の対象が氏綱しかないヨネは、納得行かない声色のままだ。
「ともあれ、お方様の元を去ったのならよろしゅうございました。風魔で断ってしまったが為に、殿の浅葱への仕置、ヨネは年来案じておりましたので」
一度信じた分、ヨネの浅葱への評価は辛辣だ。思わず氏綱は苦笑いする。
「どのみちあの者、忍びは向いておらぬからな」
風魔に置いておいたとて、一人前になれたかは怪しい。身体能力ではなく、資質というか性格の問題だ。ヨネは深く頷く。
『うまく忍べ』と忠告したのに、芙蓉にもすぐに正体は露呈していたようだった。だが、それにも関わらず、芙蓉が浅葱を信頼していそうなのが面白い。
「あれはあれで意外と⋯⋯」
使い道はある。
氏綱としては、浅葱の忠義の対象はひっくり返らずとも構わない。
「ともあれ、調べ大儀であった。あとはわしの仕事じゃ」
「余りご自身で泥を被られませんよう。ヨネは何時でも引き受けますので」
頷くとヨネは高く天井の梁に飛び上がり、闇に消える。
まだ、相模国という屋根を支える構造は氏綱には思い描けていない。
これまでの大きな決断は全て父がしていた。飽くまで跡取りと言う補佐的な立場だったのだ。
今回の件は伊勢氏綱という男の統治の在り方を領内に示す機会となる。失敗は出来ない。
(不正は許さぬ。徹底的に潰す)
佐々本への氏綱の処断は苛烈を極めた。
佐々本義寛・正寛親子を城内の庭先にて首をはねさせ、氏綱の花押を真似、文書を偽造していた助六は両手両指の骨を全て折り、二度と筆など持てぬようにして国外追放。
佐々本の財産および領地は没収の上、一家眷属もまた相模国を追い払われた。
「山王村の不正の件、そちは少しやりすぎだったのではないか」
息子を韮山の城に呼び寄せ、宗瑞は開口一番そう切り出した。
最近は床が上がらない日が増えた。近臣の笠原信為に肩を支えてもらいながら、上体を起こす。
氏綱はそんな父の姿を見た瞬間のみ、少し辛そうな眉を顰めたが、返答には一切迷いがなかった。
「そうでしょうか」
揺るがない信念に若さと、そして怖れを宗瑞は感じた。
「佐々本のような役人は数多おる。全てを管理し、不正を処罰していくことはできまいぞ」
「佐々本もわしだけがやっていることではない、と吠えながら死んでいきました。今回、厳しすぎるとも思える処断を行なったのは、同じような役人たちへの見せしめの意味もあります。生命を賭してまで、私腹を肥やしたいなら勝手にやればよい」
氏綱は冷酷に言い放ち、宗瑞の方が背筋に悪寒が走る。
不正役人を片っ端から断じていくつもりか。流石に度が過ぎてはいまいか。
「新九郎、待て。国が広がれば広がる分だけ、上の者の目は届きにくくなる。だが、木を見て森を見ず、になってはいかぬ」
視座を高く、視野を広く。これが宗瑞なりの処世訓だ。だが、この言葉は逆に氏綱の正義感に火をつけてしまったらしい。舌鋒鋭く噛みついてきた。
「父上、それは筋が通りませぬ。国が広がれば広がった分、我ら当主の声が滞りなく届く仕組みを整えなければならないのではないですか。不正を見過ごして泣くのは下々の者です」
言いたいことはわかる。だが、氏綱の言は所詮、机上の空論のようにも宗瑞には思えた。
宗瑞の脳裏に去来するのは、京での大乱だ。
この国の秩序も価値観も破壊され、勝ったものが強いという正義。
今日整えた秩序が明日には瓦解する。そんな世の中で理想を掲げて何になるというのか。
「綺麗事では国は治まらん。京でわしは散々見てきた。意味なき役職、空約束の手形。いくら仕組みを整えたとて⋯⋯」
意味がない、と諭そうとした宗瑞に、氏綱は言葉をかぶせてきた。
「今、氏綱は伊豆相模の両国に於ける統治の話をしています。この国の農民が安寧に暮らせるよう、佐々本のような役人に騙されぬ仕組みを作りたい。――父上、いいお知恵はございませんか」
「⋯⋯」
京ではなく、伊豆・相模国なら。幕府の役人でなく自分なら。強い自負心が、崩れぬ姿勢と口調から受け取れる。宗瑞は説得を諦めた。
「仕組みは作るより、持続して運用させる方が難い。失敗すれば今以上に国は乱れるぞ」
「承知の上にございます」
氏綱の目は本気だった。長年見てきた息子であるのに、こんなに覚悟の据わった目を初めて見た。宗瑞が諦め放置したものを、本気で整えようとしている。
宗瑞は小さく笑って、自分では棚上げにしていた構想を初めて声にする。
「今川の氏親様がまだ幼い頃、花押が書けぬ故、印判を使っていたことがあったの」
「印判?」
「逆にそちは、花押の代わりに印判を使うのはどうじゃ? 判の無き下文は贋物であるとすれば、真贋の見分けは領民にもつきやすかろう」
ただこれはこれで、領内に浸透させるまでに時間がかかるし、今度は印判の偽造の問題も出てくる。
どの道簡単ではない。
だが宗瑞の杞憂を知ってか知らずか、氏綱の表情が明るくなった。
「なるほど」
懐から料紙を出してきて、丹念に見ている。あれが佐々本が作らせた偽の文書か。
「ありがとうございます、父上。道が拓けた思いです」
氏綱は足早に出ていった。足音の余韻も消え去らぬ内に、馬の嘶きが宗瑞の耳にこだまする。
どれだけ急いているのか――。若いのう、と宗瑞は苦笑いする。
「うまく行きますでしょうか」
宗瑞の隣に侍っていた笠原信為は不安げに氏綱が走り去ったであろう小田原の方角を見やった。信為の不安をよそに、宗瑞は恬然としている。
「そこはあやつの腕の見せ所よ。あんだけ大見得を切ったのだから、やってもらわねば困る」
「今日は若殿が一段と頼もしく見えました」
信為の言葉に宗瑞は満足げに微笑んで目を閉じた。




