19話 居神神社
また一つ稲妻が光り、雷鳴が轟いた。不意に鳴り響く轟音に、城の奥から悲鳴が聞こえる。
「凄まじい雷雨だな」
城内の雨漏りなどを調べていた氏綱は、二の丸との渡り廊下で立ち止まる。この奥は芙蓉たちが暮らす棟だ。
「お方様はさぞやご不安になられているのでは。若、こちらは私が見ますので、若は二の丸へ」
共に回っていた遠山直景が気を利かせる。
「いや、それには⋯⋯」
氏綱が答える間にまた「ぎゃーーーー」という子どもの泣き叫ぶ声がした。
「伊豆千代丸の声だな」
「左様ですな」
四つになるというのに伊豆千代丸は怖がりで困る。
「様子を見てくる。本丸は頼む、直景」
氏綱が向かった奥の部屋では芙蓉の室に侍女たちが身を寄せ合っていた。
「大事ないか」
「殿」
「西の棟は雨漏り始めたが、こちらは」
天井や柱を灯りで照らしながら、氏綱は尋ねた。
「雨漏りなどは……」
芙蓉が言いかけた瞬間、また雷が鳴り響く。近くに落ちたらしく、地響きのような音がした。
「父上ー」
伊豆千代丸は己を取り付くろうこともせず、父の裾にしがみつく。
「そちは怖がりだなあ」
呆れたように言いつつ、氏綱はしゃがみこむ。手にしていた行灯を脇に置くと、伊豆千代丸の背中をぽんぽんと撫でた。
「だってこのお城には亡霊が出るって」
「亡霊?」
「さっき、空木が見たの。雷が光った瞬間、鎧兜の武者の亡霊がこっちを見てた、って、先年滅んだ三浦の亡霊だって」
「なんじゃと?」
氏綱は余計なことを教えた空木を睨む。
三浦氏の最後は凄惨なものだった。残酷な光景と三浦氏の執念は人から人へ伝わるうちに、いつしか尾鰭がつき、回り回って氏綱の元にも届いてはいる。
井戸を覗いたら亡霊が覗いていたとか、今のように武者姿の霊が城内を歩いていたとか。
「三浦殿を見たこともないそなたらに、何故三浦の亡霊だとわかる、たわけたことを申すな!」
一喝すると、伊豆千代丸を抱えたまま、縁に寄った。
「殿?」
何をするつもりかと、芙蓉の不安気な声は聞かぬふりをし、乱暴に戸を開け放つ。
横殴りの雨と海からの風が城内に入り、か細い灯りはまたたく間に消えた。
「きゃーっ」
暁闇に女房達の悲鳴がこだまする。バタバタと足音がしたので、別の部屋に移ったのだろう。
「伊豆千代丸」
自分の肩にしがみついている息子に、氏綱は声を掛ける。
「よく見よ、何が見える」
静かに問いかけられ、伊豆千代丸は埋めていた顔を上げる。
「何も⋯⋯」
怯えつつも真っ直ぐ闇を見つめ、震えるような小さな声で伊豆千代丸は答えた。
「亡霊など見えぬだろう。何なら父とこのまま、城中めぐってもよい」
伊豆千代丸は首を横にぶんぶん振った。
「見えもしないものを怖がるでない。いいな」
そう諭すと、伊豆千代丸はこくんと頷いた。戸を閉め、伊豆千代丸を床に下ろし、振り返ると芙蓉以外の女たちは、逃げたのか皆いなくなっていた。
「着替えさせてやってくれ」
「かしこまりました」
ぐっしょり濡れてしまった伊豆千代丸を前に出すと、新しい灯りを持ってきた浅葱が、手を引いて連れていった。
自分も濡れた小袖を脱ぐため、刀を置き、帯を解く。
「殿、余り、乱暴なことをされないでください」
氏綱の肩から衣を滑らせながら、芙蓉は非難めいた声で言う。
「怖れは理屈ではございません」
「わかっておるわ。だが、伊豆千代丸は男じゃ、跡取りじゃ。あのように軟弱でいかがする
」
「伊豆千代丸は四つですよ?」
「わしが幼き頃は――」
「芙蓉は殿の幼き頃など存じ上げません。比較に意味がありましょうか」
「⋯⋯っ」
悔しいが言い返せない。新しい小袖に袖を通し、帯をきつめに締めると、氏綱はその場にどっかりと胡座をかいて座りこんだ。
雷雲は遠ざかったのか、空を切り裂くような轟音は止み、ざあざあと強い雨音だけが響いていた。夏の夜特有の不快な暑さが身を包む。
「真に怖ろしいのは、死んだ人間の霊より生きている我らの方であろう」
欺き、奪い、殺す。己の欲望や利のために。
相模国から戦を無くしたい。その願いのために、新井城を囲い、兵糧攻めにした。降伏を促し、助けようと思った兵達は、みな自ら生命を擲った。
「仰せの通りです。それでも人は、自分の手の届かぬもの、理解の及ばぬものに、怖れを抱くのではないでしょうか」
「恐怖を見える形で鎮めよということか」
「それはどういう」
意図を把握しかねたか、芙蓉は氏綱を見上げた。
「三浦の亡霊などおらぬ、とわしが言ったところで噂は消えぬ」
「それは⋯⋯そうでございます」
「小田原の街を整えるのに何からすればいいか思案していたが⋯⋯ちょうどいいかもしれぬ。三浦氏の魂を鎮めるための神社を建立する」
嵐の過ぎ去った翌朝は、雲一つない快晴となった。
昨夜、浅葱に手を引かれて床に下がった伊豆千代丸が朝の挨拶にやってくる。
「父上、おはようございます」
挨拶を交わした後で、氏綱は伊豆千代丸の後ろに控えていた浅葱に目を留めた。
結局昨日は、浅葱が一晩中傍にいてくれたらしい。
「伊豆千代丸はそちによく懐いておるようじゃな」
「浅葱はお歌をたくさん知ってるの」
伊豆千代丸に無邪気に言われ、浅葱は照れくさそうに苦笑いする。彼女がここにいる経緯を考えれば、氏綱も苦笑いしか出てこない。
母上の元に行ってなさい、と伊豆千代丸を下がらせて、氏綱は浅葱と二人になった。
直接、浅葱と言葉を交わすのは随分久しぶりだ。芙蓉が下げ渡したと思われる桔梗紋の着物も大分、色が褪せ生地がへたれてきていた。
先日、上杉朝興と伊勢宗瑞の間で無事、和睦交渉が結ばれた。時間稼ぎ、と宗瑞自ら憚らない和睦ではあるが、一旦伊勢家の対武蔵への侵攻は停止となっている。
浅葱の処遇も見直すちょうどいい頃合いに思えた。
「浅葱」
名を呼ぶと浅葱の肩が小さく跳ねる。奥では大分馴染んだようでも、やはり氏綱を前にすると身構えるようだった。
「一度、武蔵に戻るか」
「はっ?」
問いかけられて、浅葱は露骨に戸惑った表情を見せた。
「小田原に来て大分日が経つ。故郷に帰りたいとは思わぬか」
言われると浅葱は遠ざかった距離を手繰るような遠い目をした。けれど、すぐに戸惑った声で尋ねる。
「武蔵にて私は何をすればよろしいでしょうか」
「何もしなくていい」
「はあ」
浅葱は更に困惑を深める。
「此度は文も遣わさん。武蔵に戻った後は、お前の元の主と謀って好きにいたせ」
「私はここに無用ですか」
その寂しげな表情を氏綱は以前にも見たことがある。太田資高から預かった時だ。
「そもそもお前は預かっているだけだ。わしから命はできん。故に一旦戻す」
氏綱は浅葱に噛み砕いて事情を話す。お払い箱ではないと納得したのか、浅葱は凛とした声で言った。
「かしこまりました」
「芙蓉もそちを信頼してるし、伊豆千代丸は寂しがるだろう。小田原への帰城、無理強いはせぬがな」
扇谷上杉家とは暫時敵で無くなった。この盤面を太田資高はどう読むのか。浅葱を戻してこなければ、伊勢家と細い密やかな糸を結ぶ理由はなくなったということだ。
(だが、戻ってきたら――)
三日後、浅葱は再び江戸へと旅立っていった。
お気に入りの侍女がいなくなって、伊豆千代丸は寂しげにしていた。
「浅葱は戻られるんですか」
伊豆千代丸を慰める芙蓉に尋ねられ、氏綱は一瞬言葉に詰まる。
「どうであろうな」
だが、戻ってきてほしいと願ってはいる。伊勢家当主としても、伊勢氏綱個人としても。




