18話 置文
永正一五年の正月を氏綱は伊豆千代丸と共に韮山で迎えた。宗瑞が孫、伊豆千代丸との対面を強く望んだためだ。
孫の成長に、宗瑞は目を細め、愛おしそうに手招きをし、膝の上に抱き上げる。伊豆千代丸は、珍しいお菓子を渡され、上機嫌だ。
氏綱ですら余り見たことのない父の姿だった。
「流石の殿も孫には甘くていらっしゃる」
笠原信為が可笑しそうに呟くのに、氏綱も苦笑いしながら同意する。
宗瑞は、膝に伊豆千代丸を載せたまま、文字を書き始めている。
「おじじ様、何を書かれてるのですか」
「これはそなたが守るべき規則よ。一、可信佛神事」
読み上げながら、宗瑞は長い巻紙に条文をさらさらと書いてゆく。
結果、伊豆千代丸への訓戒は二十一にも及んだ。宗瑞が書いている間、伊豆千代丸は横で始終きょとんとしていた。意味など恐らく理解できぬだろうから無理もない。
いずれも武士の心得を説いたもので、伊豆千代丸個人にというより、伊勢家中で守っていきたい規範だった。
「小田原に持ち帰り、家臣たちにも共有致します」
宗瑞直筆の書は氏綱が預かることになった。丁寧に折り、懐へとしまう。
宗瑞は我が意をえたり、と満足気に頷いた。
伊豆千代丸が飽きて、庭で遊び始めると、宗瑞は今度は氏綱を手招きして呼び寄せる。
冬の短い日が傾き始め、室内にも濃い影を作っていた。「もそっと」と言われ、氏綱は宗瑞の手の届く位置までにじり寄った。
室内には他に誰もいないのに、宗瑞は声を潜めてこう言った。
「ところで新九郎、わしは扇谷上杉と和睦し、そなたに家督を譲ろうと思う」
「は?」
唐突な宣言に甲高い声を上げてしまい、氏綱は慌てて袖元で口を押さえた。
「上杉朝良がいよいよだめらしい」
「だめとは」
「病で床が上がらぬようだと、小太郎が教えてくれた」
「なるほど。それで朝興と和睦ですか」
「実質お飾りの当主だった朝興じゃ。すぐには動けまい。お互い、地固めの為の一時停戦といったところじゃな」
「朝興殿が相模を諦めるとは思えませぬが」
三浦氏が新井城に立て籠もった際も援軍を出していた。
「諦めはせぬよ。されど、あれとて敵は我らだけではない。お互い時間稼ぎじゃな」
その時間稼ぎの中で、宗瑞は氏綱への相続を進めたいのであろう。
「内訌程、愚かなものはない」
しみじみと語る宗瑞の言葉には、京や駿河での内乱に巻き込まれてきた経験に裏付けされた説得力があった。
「じゃから、わしは家臣が割れぬよう、そなたのみを跡継ぎとみなし、育ててきたのじゃ。氏綱、伊勢家を頼む」
宗瑞は両手で、氏綱の両手を挟み込むように強く握った。皺が刻まれた乾ききった掌の感触が、棘のように氏綱の心に刺さった。
精力的だと思っていた父も、とっくに還暦を超えている。毎年、当たり前のように花を咲かせる梅の樹とは違うのだ。
城のある天神山山頂から、眼下に田畑が広がる。氏綱は幼い頃より元服までの間、この城に住んでいたのだが、今、氏綱の目に映るのは初めて見る風景のようだった。
三の丸の居室に入ると、居住まいを正して、芙蓉が座していた。今回、伊豆千代丸も連れて韮山に行くにあたり、せっかく近くまで行くのだから――と、駿河の実家への里帰りを勧めていたのだ。
「ただいま戻りました」
ほんの七日程であったのに、芙蓉の声が懐かしい。
「存外早かったな、ゆっくりできたのか」
氏綱は労いの言葉をかけ、芙蓉の前に腰を落ち着ける。
「おかげさまで、母の元気な姿を見、父の墓参りも出来ました」
心なしか、芙蓉の表情は明るく、若返ったようにすら見える。
「母御前が息災で何よりじゃ――駿河は変わりなかったか」
「はい。氏親様から頂いた品々は、大殿に渡して頂くようお預けしました」
「そうか」
「こちらはいかがでしたか。伊豆千代丸は、大殿の前でいたずらなどいたしませんでしたか」
やはり一番に気になるのは愛息のことらしい。
「礼儀正しくしておった故、心配いたすな」
言いながら、芙蓉の前に出したのは、宗瑞が伊豆千代丸に宛てた置文だ。
「こちらは」
「父上が認めたものだ。伊豆千代丸に――と名目はなっているが、実際は家中の者に向けての家訓であろうな」
「質素倹約や早寝早起きなど、お父上らしい文言が並びますね」
長々と続く書を開きながら、芙蓉は楽しそうですらある。
芙蓉がほっと安堵したように息をついたのを見たあとで、居住まいを正し、氏綱はこう切り出した。
「父上がわしに家督を譲るとおっしゃられた」
一瞬芙蓉の目が丸く大きくなる。が、すぐに深く平伏した。
「おめでとうございます」
「ああ」
脳裏に父の声がこだまする。
――じゃから、わしは家臣が割れぬよう、そなたのみを跡継ぎとみなし、育ててきたのじゃ。
父の期待は十分に理解し、応えてきたつもりだ。だが――。
沈黙が流れた。固いままの氏綱の表情を見つめ、芙蓉は首を傾げる。
「それにしてはお顔の色がすぐれませぬが」
忸怩たる思いを、芙蓉はあっさり見抜いてくる。
「伊勢家の行く末を思ったら、手放しでは喜べぬ」
扇谷上杉との和睦すら、父は宗瑞は時間稼ぎだと断じた。そのくらい、関東の勢力分布や対立関係は猫の目のように目まぐるしく変わる。
「親兄弟が争い合い、同族でも気が置けぬ。改めて、魑魅魍魎が跋扈するようなこの地で、伊豆・相模を切り取った父上の手腕は尊敬に値する。わしがその領国を守れるのかと、伊豆や相模を虎視眈々と狙う輩も増えるであろうな」
「殿らしくもない。お気の弱いことを」
弱音とも取れる氏綱の言に、芙蓉は眉を顰めた。
「わかっておる。ここだけの話じゃ、聞き流せ」
膝に頬杖をつき、氏綱は浅く息をつく。芙蓉はそんな夫の姿をしばらく見つめていたが、つと思い出したように口を開いた。
「ところで殿」
「なんじゃ」
「芙蓉はまだ、ここ、韮山の城の虎口は存じませぬ。明日にでもご案内くださいますか」
何故、突然虎口の話など。
言いかけて氏綱は、芙蓉の真意を悟る。
芙蓉が嫁してきた時、氏綱は真っ先に小田原の城の虎口を教え、領内を連れ歩き、相模国を好きになれと言った。
仮に、氏綱が跡目を継ぎ、本城を韮山に構えるのなら、今度は韮山の城を、伊豆の国を芙蓉に教えるのが筋だ。だが。
「そちは真にわしを焚き付けるのがうまいな」
「殿のおっしゃる意味がわかりませぬ」
芙蓉がしれっと惚けるのを、氏綱は苦笑いで受け止めながら、すっと立ち上がる。
板戸を開けば広がるのは、伊豆の山々に囲まれた城下だ。初春の夕暮れの風の冷たさも厭わず、氏綱は懐手に眼下の景色を見渡した。
狩野川が流れ、城の背後には大きな沼をたたえる。複数の曲輪も、その周囲を巡る堀切も、全て敵の攻撃を寄せ付けぬためのものだ。
(落とせる気がせぬな)
父の城主としての才に、素直に敬服する。だが、この城には決定的な弱みがある。
(――人も物も、流れぬ城だ)
「そちは――小田原が良いのだろう」
振り向いてにやりと笑うと、芙蓉は静かに軽く頭を下げた。
この城で生きていくつもりもないくせに、わざと虎口なんて尋ねてきた芙蓉に、一杯食わされた。思考が守りに入っていたと気付かされた。
「殿がおっしゃったのです。小田原を駿河のような街にすると。芙蓉はその約束を心待ちにしております故」
「わしとて忘れてなどおらん。その場限りの大言でもないわ」
バタンと大仰な音を立て板戸を閉める。拓くべきは、この地ではない。
跡目は継ぐ。けれど、父のやり方を継承するわけではない。
(わしの本城は、小田原だ)




